母さんの職場
母さんの職場に行った。
小学生みたいに
家の鍵を忘れて、入れなくって。
母さんが職場を変えたのは最近。
といってもどれくらい時間が経ったかは「大体」という言葉を借りても無理なほど、時間の感覚がわからないけれど。
突然、娘が職場に現れてびっくりした母の驚き方といったら、
かわいかった。
母さんはいつも職場の話をする。
前の職場のときも随分楽しそうに家で話をしてくれたけれど、昔が殻の割れていない卵だとしたら今はツルツルのゆで卵。綺麗に剥けて、すげー輝いてる。
職場を後にして、もらった鍵で家に入れた時、なんだかにやけてぬいぐるみと目を合わせて、ベッドにダイブした。
うれしかったらしい。
やっぱり「母」が笑っている家庭が、結局みんなが笑顔になって1番大事やし、
「女」がご機嫌でいることが夫にとっても1番いいこと。
でも、その〝ご機嫌〟は夫がとるんではなくて自分で作る。(※ココ大事)
じゃあその為に何が出来るか?といった時のひとつに、「居心地の良い場所を見つける」のは本当に大事だと実感した。
自分の旅の経験を通しても、本当にそう感じる。
よく、「置かれている環境」なんていうけどそれは幻想。
どんな環境であろうと、変えれないと〝思い込んでいる〟環境も、全て自分が選択して出来上がっている。
なにも自分みたいに住む場所を変えなくてまで、職場を変えなくてまで、日々の生活にたった一つ新たな環境をプラスするのでも十分に変わる。そして今から出来る。
週一でヨガ。
月一でちょっと豪華なディナー。
何でもイイ。
春やし(笑)
自分にはよく分かんないけどなぜか一年の始まりと終わりが区切られてるこの季節。別に冬がはじまりとうたっても良かったのに。
「新たなスタート」を切るのに気持ちいい空気や気温になるからなのか?
多分、地球の波動的にも変化の多い、振れ幅の大きいタイミングなんだと思う。
暖かくなって晴れの日が増える、っていうのも心理的に十分に影響するけど。
それからもひとつ。
急遽開催された「職場体験」から感じたこと(笑)
不思議なことに、家族って、こんなに近くにいて毎日同じ景色を見ているのに、
母さんや父さんが毎日見ている景色を、子供は知らない。し、同じように、参観日やなんかでしか子供の見ている景色を親は知らない。
「話」でしか聞いたことがない。
話でしか聞いたことがないのだから、ひょっとしたら父さんは毎日スーツを着ているだけでサラリーマンではないかもしれない。
まるで、「地球はまるい」と同じように。どれだけの研究者がそう声を揃えたって、グーグルアースで宇宙まで昇ったって、自分で確かめてなどいないのに皆そう思っている。
会話さえも飛び交わない家族だっているけれど、そうとなれば「重なっていて且つ、家族以外の他人とは関わっていない部分」の景色は「家ん中」しかない。
そして、日本人のサラリーマンであると家より職場にいる時間の方が長い。
職場の人の方との方が同じ景色をずーっと一緒に眺めてる。
鼻が詰まってきたから文が中途半端であろうと寝るけど、
ここでいう「景色」とは物理的に目に映っている景色のことであって、家族はそれ以外の多くの景色をきっと共に見てきていた人間であり、今もきっと見ているんだろう。
目には映っていないけれど。
目が映すのは見慣れた朝ご飯に、生活感のある洗面台、匂いの染まったベッドシーツ、テーブルについたキズ、
それくらいだ。
その、目には映っていない「今みている景色」が違うのであれば、若しくはあるのに見えていなかったり、見ようとしていなかったり、今まで見た景色を一方が忘れていたりしたら。
将また、見えている景色が同じでも「一緒に見ていること」を忘れたら。
思い出す努力をするのか。
それとも、
そのまま家族と呼んで良いのか。
呼ばないか。
いや、いつまでもそう呼ぶことしか出来ないのが家族だけれど、それも血縁上の問題であって自分がそれを何と呼ぶかは、自分次第なのだ。
家族の定義をよく考える。
リメンバーミーでの、主役でもない泣けるシーンでもない所の台詞が刺さった。
「俺は芸術家だ。一つの家族に収まらない。世界中が家族だ。」
さて、解釈の仕方はいくつか出来ると思うけれど、ここでは書かない。
なぜなら、
鼻が詰まってきたので。
久しぶりの朝日と、秦基博の「朝が来る前に」と共に、ねます。
もう朝来てるんだけどねww