BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

神のみぞ知る

 

朝。

 

ねぼけまなこでテレビをつける。

 

映ったのは普段はチャンネルを変えるような

 

いかにも重たいドキュメンタリー番組。

 

 

数時間ぶりに開ける目には相当しんどいだろうに

 

珍しくそこからチャンネルは変えなかった。

 

 

7年前の震災のことだった。

 

 

 

 

家族四人。

 

もうすぐ車で高台に着くというところで

 

津波にのまれた。

 

 

お父さんと娘は亡くなり

 

お母さんと生後何ヶ月の男の子だけが

 

生き残った。

 

 

そして7年経った今、

 

男の子は亡くなった家族について聞くようになった。

 

 

番組ではお母さんが男の子を助手席に乗せ

 

「四人が最後に居た場所」を教え、状況を説明していた。

 

 

7年経ってやっと、「忘れたい」けれど

 

「忘れてはいけない」事から蓋を開けていた。

 

 

 

そのほかに

 

お母さんを亡くした人、

 

おばあちゃんを亡くした人、

 

自分一人生き残ってしまった人、

 

沢山いた。

 

 

 

その中で

 

中学生になった男の子の文章が

 

とっても大人だったけれど

 

 

 

この番組を見ておもった。

 

 

 

あの四人家族は

 

あそこで二人が死んでしまったから

 

今も死んだ二人を愛せているけれど

 

 

もし二人が今も生きていたら

 

夫婦仲が悪くなって離婚していたかもしれない

 

今はもう愛し合っていなかったかもしれない

 

浮気をしていたかもしれない

 

 

けれどあそこで死んだから

 

そこに在った愛が永遠になっている

 

 

こんなことは到底言えないけれど

 

これは一つのそこにあった可能性に違いない

 

 

 

 

大人な文章を書いた男の子は

 

同じような境遇の子が沢山いるだろう

 

 

それでも一枚の作文用紙を渡されたとき

 

そこに書く字は、内容は、

 

みな全然違うものになるんだろう

 

 

7年経った今も

 

涙で紙を滲ませる子もいるだろう

 

 

力強い文章を書ける子もいれば

 

いつまでもペンすら持てない子もいる

 

 

 

結局のところ

 

タイミング

 

 

 

 

同じ事柄が起きてもそれを見る目はその人次第

 

 

ということ。

 

 

またその見る目は今日から変えられるということ。

 

 

 

「これをしたらこの子は可哀想」

 

という考えは

 

あくまでこちら側の勝手な偏見でしかない

 

 

若しくは

 

それが可哀想なことだと思えても

 

アドラー心理学的には

 

「その子がその物事をどう捉えるかが重要」

 

なので

 

 

 

そういうこと。

 

 

 

そしてタイミングについては

 

きっと「すべて」に意味があるんだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜなら学ぶためにうまれきたのだから

 

 

 

 

 

 

 

もっと愛のある世界になるために。