BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

 

僕が登ろうとしている山。

 

それはとても険しくて誰も登らない山。

 

登ろうとする人はいるものの、歩んでも歩んでも進んでいるかも分からないくらいのでっけぇ山。その自然の偉大さの中に、ぽつりと佇む小さな自分。

 

横を向いても一緒に登る人などいない。上を向いても先行く人もいない。あるのは誰かが登ろうとしてつけた、薄らとした足跡だけ。

 

見えてすらこない頂点は、雲がかかっている。

 

 

 

僕は休み、また歩き始めた。

 

そして初めて後ろを振り返ってみた。

 

 

────僕はずっと「ふもと」にいると思っていた。ふもとから進んでなどいないと思っていたのに。

 

しかし、振り返って目に映る地面は確かに長い斜面で、地上にある家々はアリのようだ。重すぎる荷物に嫌気がさして捨てた物は、たしかあそこの岩陰にある。そういえば、岩だらけの道も抜けてきたんだっけ。

 

ちょうどその岩の手前で下山をした人は多いと聞いた。

 

思い返せばあそこを越えてから一切誰の足跡も無い。それがまた僕を燃え上がらせた。

 

また歩いた。

 

 

 

────僕は休み休み、空を眺めた。

 

誰よりも顎を上げてテッペンを見つめる時間も長かった。

 

足を止めた時は自然に溢れた数々の音や静けさ、それらに重なり一つの色になってみたり、壮大な自然に飲み込まれそうな自分の中にもある音や静けさとも向き合った。それは全く違う様であり、同じ様だった。

 

今、雲がかかっていた僕の上の空は晴れて、テッペンはくっきりはっきりと見える。

 

登れた時の景色は知らないが、登れた時の気持ちにもうなっていた。

 

そこには沢山の人がいた。

 

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登山をした事がある人や勘の良い人は、この文章で「こいつは作り話だ。」とすぐに分かるだろう。登山は最後の最後まで頂上は見えないのだから。しかも、なんで一人で登ってんのに頂上に“沢山の人”がいんねん。

 

しかしこれが人生の比喩だとしたら。

あるいは夢を目指すことの比喩だとしたら。

 

 

初めは遠くから山を指さして、パパやママに「私あそこに行きたい!」と言ったかもしれない。誰にも言わずにひっそりと「絶対に登ってやる。」と決意したかもしれない。みんなに公言し、頑張れよ!と背中を押されたかもしれない。

 

しかしどんなに人に応援されようと、実際に登れば一人しかいなかった。自分一人だった。

 

そんな孤独と共に、「もう無理かもしれん。」「みんな登ったこともねぇくせに大っ嫌いだ!」「この険しい道すら知らないくせに。」と応援をしてくれた人の事すら嫌に感じる時もあっただろう。

 

「今日まで私は何も進んでなかった。」と、頑張りと比例しない道のりに頭を抱え、自分に腹を立てるシーンもあるだろう。 

 

しかし振り返れば、ちゃんと進んでいた。

 

それは振り返らなければ、分からなかった。

 

それでも、雲がかかって「見えない頂上」を目指すのには強い強い根気が要る。あと3㎞先ですら、頂上が見えないと断念してしまう。そんなのはきっと弱い人間には難しい。

 

つまり、ここで言う「頂上」とは心の中に描く頂上のことで、夢でいえばその「夢」という最も基本的な場所。

 

その山を遠くから眺めていた時。

 

その山はとても美しく見えたり、とても急な斜面には見えなかったりする。しかし実際に登れば、「これが本当にあの美しかった山か?」と疑いたくなる程の険しさ。

 

隣にはロープウェイがある山だってある。みんながワイワイと食事をして夜景を見てルンルンしている山だってある。ワイワイ山を横目に、なんで俺はわざわざこんな山を一人で登っているのだ?と思うこともあっただろう。

 

文章の彼にも、そんな山でみんなと楽しんでいた時もきっとあるだろう。彼が実際に頂上に辿り着いたか?それは分からない。けれどきっと彼は登れたのだ。なぜなら、彼の心にはハッキリ、そしてくっきりと頂上が見えるようになったからである。

 

ぼんやりとしていたモヤが消え、今まで頂上が見えなかったのは自分が見ていなかったからだと気付いたのだ。

 

 

そして彼を知るある人はふもとからこう言った。

 

「あいつにはあんな山は登れねぇよ。どうせ下山する。」

 

しかし、遠くから眺める人間の目に映る山と実際に登った人間の目に映る山とでは、全くもって違う景色だと彼は身をもって知っている。それは「実際に登ってみたら道ないやん!」という山の荒々しさのみに限らず、遠くからは決して見えなかった見たこともない色の鳥の美しさであったり、またそれを“誰かと共有したい”という頭の中で回転する妄想の景色もそうである。

 

ここに、「なんで道がないことに気付いても下山しないんよ?」の答えの一つが在り、もう一つ、きっと彼は遠くからその山を眺めている時も誰よりもその山を美しいと、好きと、目どころか体中ハートマークに溢れさせていたんだろう。

 

したがって、いつかとてつもなく惚れた山が仮に近くで見て荒々しくとも彼には大きな問題ではなく、むしろ心のエンジンを暴走させたのだ。それは惚れた女が案外生意気で落とすのが難しく、更に燃え上がってしまう男性諸君の様でありながら。

 

「あいつにはあんな山しか登れねぇ、どうせ下山する。」

 

 

こう言った人間は無視するに越したことがないが、時にこう言った人間がいるからこそ、そのクタクタの足を前へと踏み出す原動力になったりする。

 

彼らを黙らせられる時間や方法はただ一つ、頂上に着いた時。

 

それまでは毎日の様にグダグダと無責任な複数矢を飛ばされたり、あーだこーだと適当な噂も村人に流されるだろう。

 

しかし、そんな奴らは彼の人生の脇役どころかエキストラでも無い、エンドロールにすら名前が乗っからないアリ達だ(自分の人生の主役にすらなってない)。

 

「あいつらがうざかったから登りました。あんなに矢を放ってくれて感謝してます。」と敢えてお鈴を鳴らし感謝を供え、手を合わせるのも良いだろう。

 

しかし、そこには他人の心を揺さぶる程の力は無いはずだ。

 

だからどうか、雲を外すことだけに集中するのだ。頂点を見つめることは、即ち己の心と向き合うこと。それには時に歩んできた距離や景色を振り返ったり、自然の静けさと一体化したり、自分の中にも自然と同じ偉大さや神秘さや無限さがあることを知ったり、ふもとで待つ最も大事な人の大事さを思い出すことが大事だ。

 

そんな、自己に寄り添い、向き合い、抱きしめ、出来るだけ荷物を減らしたい登山で、山頂に持って行きたい大事な物。それは愛。重たすぎると感じる愛はジャマだから捨てても良い。当たり前だが、一度捨てて進んでしまえば中々戻れない。発見するのも難しい。しかし山頂に登った後の下山中に拾い直してみると、とても愛おしい輝きを見せているかも分からない。

 

「大事にはしたいけど上に行くには荷物だ…」といった場合は、下へ向かってぶん投げるのではなく、何か目印を立ててそっと置いておこう。下山する時にまたそいつの存在が何かを教えてくれるハズだ。もし別の人が拾ってしまっても、大事に置いておけばきっとその人も大事にしてくれる。それが嫌なら埋めて置こう。姿は変われど愛の木としてまた愛おしい姿に身を変えるだろう。

 

愛の「重み」を感じる事も大事だが、きっと本物の愛はバックパックの中には無く、むしろそのバックパックや足取りを軽くしてくれる物だ。

 

 

━━━そして、ようやく山頂に着いた時。

 

どっしりしっかり重たいが、ふもとにいた時にも別の山に登っていた時にも常にあった、山よりも大きく果てしない愛を僕は心にじんわりと熱く感じた。それは汗で濡れた僕の額を強く優しく照らす太陽の様に、いつも昔からそこにあった。

 

下山をする僕の足跡は、僕一人の体重とは思えないくらい、来た時よりもかなり深かった。

 

すれ違う、山を登って行く人にも会った。

 

地上に戻れば、笑顔で山のてっぺんを指差す子供達が居た。

 

 

 

彼は頂上に着き、暖かく照らしてくれる太陽の温かみを大切な人からの愛の様だと感じた。やっと、一人で登っていなかった事に気付いたのだ。

 

そして下山時も横を歩くでもなく、前を行くでもない「自分と一緒に歩いている人」がいる事を登りよりも深い足跡から知るのである。もちろん、登りでも足跡の深さは同じであったのに。

 

残念な事に、頂上に着いても彼を悪く言う人がいるだろう。しかし残念ながらもう彼の耳には聞こえない。

 

悪口を言う村人は彼のことを見ようと双眼鏡を手に必死だったが、彼には裸眼で素晴らしい景色が広がっていた。その景色の中に確かに村人がいても、捨てた双眼鏡を探しに行かなければもう見えなかった。

 

 

彼は無事に下山しても、「自分はただの市井(しせい)の人である」と言うかの様に振る舞い、どんな小さな山に登る人の事も責めなかった。

 

今も数少ないお暇な人間達が彼をあーだこーだ言う中で、彼は愛ある大人や子供にはヒーロー扱いされた。

 

同じようにあの山を登りきってヒーローになりたいとはしゃぐ子供達で村は溢れた。

 

 

山を降りた後の彼の耳には、彼が叫ばなくとも愛の山彦が優しく聞こえている。

 

夢や人に対する強い愛や情熱の声に対するそれらの返答は、その人が登っている山の形状や大きさ、あらゆる物によってズレがある。すぐに返ってくる時もあれば、全く違う物や方向から返ってくることもある。

 

しかし、その反響という見えない振動の線には愛や情熱は詰まっていて、いつかきっと誰かに届くのだ。心の底から声を出せば。また強く鮮明に思い描けば。

 

あなたの声がピンク色であれば、ピンク色の声がどこからか聞こえてくる。

 

あなたの声が真っ黒であるのなら、真っ黒な声があなたを苦しめる。

 

跳ね返ってきた声は自分自身の声かもしれないし、見ず知らずの人からかも分からない。その中で分かる声があったとするのならば、それはあなたが山に登る前のずっと前から1番よく知っている人の声だろう。

 

あなたは何を叫んでいますか、

 

その声は誰かに届いていますか、

 

あなたの声は何色ですか。

 

 

耳の鼓膜ではなく心の鼓膜を開けば、既に微かでも、もう声が返ってきている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(全てフィクションでありノンフィクション、いつかの僕の下書きであり僕の人生図)