生きづらい星で僕が生き続ける意味
こんなに生き疲れる世界で生き続ける意味も、使命も、100万回はとうに考えまくってきたが、答えは知っている場所にあった様だ。
僕にとって今まで腑に落ちていた唯一の生きる理由は
「意味は無い。人生はヒマつぶし。」
という言葉だったが、それは昨日、僕の言葉によって張り替えられた。
それは「ママが生きているから」である。いや、「ママが生まれてきて、僕を産んだから」である。
100万回も考えてから辿り着くような場所ではないやろ、という最も当たり前の一コマ目を僕はいつしか通り越して、難しい山を乗り越えようとサイコロを振りに振りまくっていた。ふもと(はじまり)の人間の愛も忘れて。
気付くのは遅かったが、人は本当にしんどくて自ら命を絶とうとする時、自分を愛する者がどれだけ涙を枯らして顔をぐしゃぐしゃに泣き喚くかよりも、自分の涙で目がいっぱいで周りも見えないのである。
つまり何が言いたいかと言うと、僕は中学生の時に何度か死を考えた事があるけれど、
「生きてほしい」と態々当たり前な事を発言はしないものの、「ゆめちゃんと○○行きたいな」「ゆめちゃんに○○弾いてほしいな」と可愛い彼女の様に沢山の僕へのお願いごとや僕との思い出、僕との楽しみを“常に”抱きしめている母を想ったら、
一度でも「死にたい」などと言う言葉は言っちゃいかんかったと思う。
ママが喜ばない発言も、事もいくつかした。
子供同士のケンカでの「しぬ」「しね」に何故ママが本気で怒るのかも分からなかった。
短い人生で沢山悲しませた。
だけどママはこれを読んだら、どうせ「ゆめちゃんが生まれてきてくれたことがしあわせ。」と言う。
そしてまた「ゆめちゃんのお陰だよ」と言う。
自分の目が涙でいっぱいだった時には見えなかった、母のずっしりとした人間味のある暖かい泥団子の様な愛が今の僕には沢山沢山見える。
母が死んでも、僕の中では永遠に毎日生きているけれど、この夢かもしれない現実世界で「人間体」を持ったからには身体という物質を操作できる生きているウチに、五感を母と分かち合いまくりたい。
僕の料理をもっと食べさせたいし、母の料理もまた食べたいし、僕が歌う母への歌も沢山作って聞かせたい。母が話すドラマの話も聞き逃さず聞いて、オチのない話にも絶えずツッコミたい。
こんなことを思えるのは、僕が母から生まれたからではなく、母が僕をずっと愛してくれてるからだろう。
仮に無痛分娩だろうと、仮に養子だろうと、こんなに愛してくれるのなら僕のママはママでしかない。もう体も大きくなり成人した娘に関わらず、「親バカみたい」と笑ったり知人に僕を自慢げに話す美しく愛らしいママだから、僕は今こう思わさせて頂けている。
ママが五体を持つ限り、僕が五体を持つ限り、頭はママのボケに即座にツッコめる為に、首は方向音痴のママを見失わない為に、胸はママに羨ましがれる為に、両手はママを思いっきりハグする為に、両足はママにマッサージされる為に、三次元の世界も楽しんでみようと思うよ。
ちょっとふざけたけど、この世で一番美しい人は僕と母、そして僕の家族です。
母が死ぬのを考えると1秒未満で泣ける僕だけど、母が死ぬ時には今よりもっと辛くなれるくらい、今よりもっと思い出も笑顔も増やすんだ。
あいらーぶゅーまみー。