BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

宙ぶらりん

 

 

散らばった四人の家族の、想いが夫々どこを浮かんでいるか分からないまま、月日は過ぎる。僕の想いは独りでに宙ぶらりんのまま、五線譜からはみ出したピアノの音符の様にひとりぼっちだ。

 

今すっぴんで外を歩いても僕の目に力が漲切っているのは、この地球においての生きにくさや悲しさからかと思えば、そこに紛れる誰とも比べ物にならない生命力からである。

 

僕は今、身体こそ元気ではないけれど、極太に真っ直ぐなアスパラガスのように強く曲がらぬ信念が心の根っこから聳え立っている。

 

自分の中で守りたい自分、それは誰にも傷付けられたくない柔かい部分、イコールそれは強い部分。それらを知っている。

 

何が許せなくて、何は許せて、何をこの人生で成し遂げて死を迎えたいのか、気持ち悪いほどにコントラストが明瞭になってきた。

 

どんな人間と付き合えば良いのかを身体が学んできたのだ。

 

 

日本で活躍するだとか、海外で活躍するだとか、手段としてどこを舞台にするかは考えなければいけない所だけれど、ぼくにはその境目は少しぼやけている。視界をはみ出す位に地球のイラストが常に映っているからだ。

 

汚れていく海も、被爆した人間も、撃たれて死んだ子供達も僕は放っておけないかと思えばそうでもない。みんなだってそうだろう。

 

それよりもぼくは、やっぱりこの日本のヤバさを計りたい。そろそろ皆が、今まで気付かなかった人も、身体に症状が現れたり、もうどれだけ異常か分かってきている。この、狭い国の“仕事教”のヤバさを。

 

ぼくはただうたいたい。

 

みんなの仕事を休みにして、芝生の上で寝転がらせたい。海辺で裸にして太陽を感じさせたい。あの停電になった夜のように星を感じさせたい。生を感じさせたい。

 

なぜこんなにも皆が仕事に操り棒を取られて踊らされているのか、ロヴィ二の様な街を眺めていたら本当にわからない。

 

魚を釣る人がいて野菜を売る人がいて、朝市には街が賑わい、子供は遊び、それを眺める大人は微笑み、夜には作った物を分け合ったり笑顔もお酒も飛び交っている。

 

衣、食、住、どれもシンプルであったものがこのご時世、複雑になりすぎている。

 

ぼくらの生活はもっともっとシンプルでいい。

 

シンプルであったはずだ。

 

変わることも複雑になることも構わないが、それを成すには大事な基本を忘れないことだ。

 

僕が今絵を描くなら、お札やビルを大きく描き、諭吉は皆に縋り付かれており、操り人形のように紐を垂らした先に顔の死んだ人間達を小さく描く。手足の力は抜け切っている。

 

 

それが今、いやずっと前から僕の眼に映る日本だ。

 

 

日本の良い所を観せるばかりじゃ、おれの表現や生まれてきた意味が成り立たないから、きっと神様が日本のヤバい部分にピントが合うようにわざとおれの眼を細工してくれたのだろう。