ちぎれた楽譜
「ピアノなんか辞める」
「誰がおれにピアノなんて習わせたんだ」
「おれがこんなにピアノを好きにならなければ良かったんだ」
そう数分前に感情を爆発させ泣きながらジャズの楽譜をぶっちぎったぼくは、もう既にピアノを聴いている。
でも今は弾きたくない。
会いたくない。
会いたくて仕方が無いのに、
好きすぎて会いたくないのだ。
この広大な敷地でさほど大きくないあいつの居場所すら確保できないぼくに、あいつは何を想うだろう。この状況で一番の迷惑をかけられているのも、さみしいのも、おれじゃなくてあいつだろう。
「ピアノを辞める」
だなんて、ぼくを知っている人であればどんなにぼくの頭がイカれたかよく分かる。ぼくの感情がよっぽどひねくれて、よっぽど嫌なことがあって、よっぽど限界点を越えた時にしか生まれないであろう一番言いたくのない言葉だ。でもさっきそれは生まれた。
すると頭の回転の早くない母が、被せるようにして「優芽にそんなこと出来る訳ないでしょ」と言った。久しぶりに暴れ出した愛娘に冷静な訳ではないが、その言葉だけはとても穏やかだった。
優芽にそんなこと出来る訳がないから、ピアノの愛される場所の無さも、愛されなくとも「そこにいていいよ」と言われる場所の無さも、いつも騒音扱いされるあいつの声の居場所の無さも全部、全部、もう哀しくて申し訳なくてどうしようもないのだ。それが限界点を越えた。
それとももしあいつに言葉があってそれを喋れたとして、あいつが「故郷に帰りたい」と言えばおれは返すだろうか。
今あいつとお別れ出来ないのは、他にピアノが沢山あるのにあいつでなきゃいけないのは、単なるおれのエゴだろうか。
答えはちがう。
元は母の母、おれのばあちゃんから受け継がれたあのピアノは、母の姉妹や色んな人が触ってきた。それが今、その当時生まれてもいなかったおれの手に馴染んでいる。そしていつしか仲良しの心友になり、いつしか感情表現の苦手なおれをいつも助けてくれる友達になった。
ピアノはペットと同じだろうか。飼い主の勝手な意向である日知らない家にぽつんとやって来ては、一人の女の子が大切に毎日弾いてくれ、かと思えば両親の離婚で家が無くなることになってしまったり、女の子がピアノから離れてしまったり。
ぼくは家のピアノと自分を、照らし合わせているんだろう。
犬を飼うなら、犬が死ぬまで面倒を見なくてはいけない。人間だって、ピアノだって、ぬいぐるみだって、みんなおんなじだ。
さっきぼくは
「誰がおれにピアノを習わせたんだ!」と叫んだけれど、
親が子に何かを習わせるというのは、果たしてどこまで責任を負うものだろうかと考えた。
何の気なしに通わせたピアノ教室から、子供が「ピアニストになりたい!」と言ったり、体操教室に通わせた子供が「オリンピックを目指す!」と言ったら。
ぼくはきっかけを与えたのもまた親であるのに、大きな夢を掲げた瞬間にそれを封じ込める親になりたくない。金銭的にも、環境的にも、だ。
そんなことは無理だと言うかもしれないが、ならばせめて心は寄り添いたい。協力する姿勢でありたい。
悲しいときはピアノへ向かう。それなのに今、ピアノのことで悲しいぼくは一番悲しいであろうあいつの体を借りて、自分の悲しさを音にすることが出来ない。
あいつの声まで一緒に奏でられたら良いけれど、ぼくの手をのせて生まれる音はぼくの気持ちから生まれる音だろう。
きっと、だぁれもいない一人ぼっちの時に、あいつはか細い声で誰にも聴こえないほど切なく優しく歌っているのだ。
ピアノに乗り移るように、ぼくの喉は枯れてしまった。あいつと同じ、言いたいことが言えなくて寂しさだけが募りに募って、もう嫌なのだ。この世界が。
クロアチアでもハンガリーでも、外国に行けばいつもピアノのある部屋に招かれるように出会うのに。
思えば小さい頃も、ピアノ練習中に「うるさいから戸閉めて」と言われて泣いたことがある。そんなことを思い出す。
疲れてしまった。
今日は「こんな首のない時代からピアノ習わせてくれてありがとうなマミー。おれの人生かかってたわ。」とラインをした。(2021.1.3)