BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

「とまと」

 

とまとは、赤い。

 

 

でも、青いとまともいる。

 

いつかは赤くなる青いとまともいれば、

黄色いままのとまともいる。

 

 

色のちがいだけかと思い、

赤い子どうし

青い子どうし

黄色い子どうし

 

あつめてみたけれど

 

 

青い子たちをよくみたら

 

でっかいとまとがひとりぽつん

小さいとまとはふたりでなかよく

ヘタのないとまとはげんきがなく

虫にたべられたとまともいた

 

みんなちがっていた

 

 

 

そんなトマトをぱくぱく食べていたら

 

ひとりひとり味までちがっていた

 

 

 

そしてこのあいだ食べたトマトのパックを見たら

 

おんなじ味がしたなとおもってたトマトは

今日食べたトマトと生まれた畑がちがっていた

 

 

 

みんなちがった

 

 

 

けれどもぼくらは

ひとりひとりに名前をつけなかった

 

 

 

名前をつけるまえに

 

ほおばった。

 

 

 

めんどくさくて

 

みんなまとめて「トマト」とよんだ。

 

 

 

 

そんなぼくたちにんげんたちが

じぶんたちにんげんには

 

ごていねいに

ひとりひとり

名前をつけた。

 

 

でも

 

 

そんなにんげんたちの集まりを

どの集まりもまとめて「かぞく」とよんだ。

 

どの家族もぜんぶちがうのに 

みんなまとめて「かぞく」と呼んだ。

 

苗字はあるけれど、

ひとそれぞれ「こいびと」や「かぞく」には

描くイメージがちがうのに

 

みなそれを同じ名でよんだのだ。

 

 

まるでとまとのように。

 

 

 

 

 

 

じぶんなんか特に世間一般的な感覚とはちがうから

 

「彼氏いないの?」「うそでしょ?」

 

というやりとりには少々疲れることがある。

 

 

あなたが彼氏と呼ぶような関係の人間はいないけれど

Bさんからみたら彼氏のような関係に見られるかもしれないし

 

自分の中で「彼氏」という値の人間はいないけれど

人間の関係性を表す言葉があまりにも足りていないのだから仕方がない。

 

 

恋愛感情のない異性はおともだち。 

セックスをしてしまえばせっくすふれんど。

告白をして承認されたらこいびと。

プロポーズをして頷かれたらふうふ。

離婚をしたら元〇〇。

 

そんなに人間の関係性ってシンプルですか?

 

 

こんなに沢山の色も形もあふれたトマト(人間)界で、

なにひとつとして同じ関係はない

 

むしろ関係性に名前があることすら不思議なくらい

複雑に怪奇した関係性を

 

あらわす言葉がたったこれしかないのが不便すぎる。 

 

 

 

そもそも

 

 

●関係性のできかた

友達 → (なんかいろいろ) → セフレ・ソフレ等々

友達 → 告白 → 恋人 → プロポーズ → 夫婦

 

●関係性のつよさ

友達 < セフレ等 < 恋人 <  夫婦

 

 

 

この図式が頭にある時点で発想が乏しいと個人的には感じるし

(日本人には多いけど)

 

仮にその人の中ではこういうプロセスを歩んでいても

友達と恋人の間をあらわす言葉は他にないの?と思う。

 

 

実際、世の中には、というか日本語にはそれに値する言葉がないのだけれど

それに値する言葉がないせいで

 

あまりにも

 

恋人とダメになった→「じゃ、今からともだちね」

告白がOKされた→「じゃ、今から恋人ね」

告白して振られた→「はい今からおまえは友達だ」

 

 

とか、動かせないであろう「感情」までも

むりやり名前通りに呼ぼうとしているのが見ててイタイ。

 

 

少し前、樹木希林内田裕也の夫婦を“独特な” と

メディアが報じていたのも、多様性のなさを表している。

 

そもそも一般的な夫婦像ってなんだよ、と思う。

 

 

いつかみんなが描いた「幸せな夫婦像」は

人間には少しファンタジーすぎる。

 

ファンタジーの世界から目を覚ます前にどちらかが死を遂げることは

ふたりが出来なかったかもしれない“永遠”を生み出すことになる。

 

「ずっと好きだよ」と思っているそのあいだに

その人が死ぬことはよっぽど辛いことであるがしかし

 

 

同時に

 

その人をいつか嫌いになるかもしれない、

いつか嫌いになられるかもしれない、

という未来の可能性から見事に避けれることになる。

 

 

いつか愛しあえなくなる時がくるくらいなら

愛しあっているその最中に死別することは

最も不幸であり実は幸福でもあると思う。

 

 

でも人はなぜだか試したがる。

 

というより永遠を信じたがる。

 

 

野田洋次郎が著書で結婚はある意味で「人間らしい」と表現していたが

ほんとうにそうおもう。

 

更に彼は「いとおしい」とも表現していたような気がするが、

今は大の大人が結婚というごっこ遊びを

大人のフリをしながらしているのは

ちっともカッコよく映らない。

 

一人の異性に人生や恋心や時間やお金を賭けるのは

勝者の少ないギャンブルにしか見えない。

 

カップルや夫婦に存在する「所有」という感覚が本当にきらいだ。

 

 

ぼくは好きなものは次々あいしたい。

 

けれど数日後に、そんな大きなギャンブルをもしたくなる異性に出くわす可能性も落ちているのがこの地球だろう。