BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

女性が女性を思い出すために、子供への性のために。

 

海外へ行くのに細かい理由なんてないけれど、「すきだから」とか「気分で」という真っ当で最大限の素直な表現をしても通じない“うるさい人間”の為に、今まで何度も文字や言葉にしてきた。今だから思うが、その必要はなかった。もしそこに必要性があったとするなら、その人が僕という存在を知ったことで今まで何かに縛られていた脳ミソや手足は「自由に動かしていいんだ」と世界を広げられたとき。その可能性のない、ただ僕という人間や僕という人間の生き方を否定したり「変なイキモノ」扱いをしたいだけの人間にはわざわざ思考や感覚を言葉にする、という変換作業は時間と労力の無駄だ。

 

今まで"通じない人”の為に言葉に変換してきた時間を、これからはただ自分が思ったままの世界をここで言葉にして、僕と「同じ世界観を観ている人」のために、その人の生きづらさや孤独に寄り添うようにブログを書いていきたい。「誰宛」という意識もなく淡々とひとりごとを綴っていたブログだが、これからは宛先に「同じ世界観を観ている人」と書こう思う。その結果、あちらの世界にいた人の中からも次第にこちらへやってくる人も出てくるかもしれない。

 

この世界に存在している決まりや道徳観のほとんどは人間が勝手に創り上げたものであるのだから、それに「おかしい」と思うことがあっても何らおかしいことではない。人を殺すという行為ですら、それが好きだとかもっと言えば人肉を食べることに興奮する人間もいるくらいであるのだから、僕が「日本の結婚理念や性の意識がおかしい」と声を上げることがどんなに自然なことであるか今ならよく分かる。きっと日本に対して違和感を抱えているのは自分だけではない。なのに今まで服を全部脱いでまで強く言えなかったのはきっと、こんな自分もどこかで恐れていたからなのだと思う。自分と同じような考えの人間を本やネットで見つけては、安心していた。

 

だから次は、安心させてあげる側にまわりたい。

助けてあげたくて、言いたくて、仕方がない。

「それって、おかしいよね???」と。

 

たとえば結婚制度。まじで大人のおままごとにしか見えないけれど、中には本当に死ぬまで2人で愛し合っている人、上手くいっている人もいる。その人たちはそのままその世界を貫いてほしい。それでいい。ただ一夫一妻という自分からすると「無理だろ」という制度に何の疑問も感じずハマってしまい、見事に上手くいかずに尚、"それがなんでか分かってない”悩んでいる人にはまず「そもそも」を考えて欲しい。世の中、男女の脳の違いも身体の違いも性欲のリズムの違いも愛がどんなものかも分からず結婚する人が多すぎるのだ。最近は若くして嫁さんがガンでなくなってしまう物語を観ると、「ガンにならずに長生きしてたら2人は上手くいかなかったかもね」と思ってしまう。結婚制度に疑問を抱かず次々と結婚して上手くいかない男女の多さは違和感を感じている部分でも大部分だが、長くなるので今日はやめる。

 

 

さて、僕が今、もっとも「おかしい」と思うけれど世間ではだぁれも「おかしい」と口にしていないその話題すら出ない、よって最も孤独感を感じているのはやはり、"日本の性”のことである。本当に理解出来ない。通りで結婚制度に対しても長々語ってしまう。

 

"だぁれも”と書いたけれどネット、特にフェイスブックやブログでは今や本当に堂々と性の壁を破っている大人が増えてきた。その人たちにとっては初めから「性の壁」たる物は存在していなかったのだけれど、よくぞまぁ「世の性の壁」を次々と乗り越えて、、というか透明人間になって華麗に通り抜けてる感じ。今僕の目にはその大人達がこの世で1番かっこよく映っているし、どんなインスタ映えよりずっとキラキラしている。

 

彼女達、彼らは実に様々な活動をしている。性教育を変えようと講演会や動画で説明している人もいれば、具体的なセックスの仕方や解説をユーチューブで配信している人、更に女性が女性に実践(裸になって)して体の仕組みを教えている人、など。そんな性を堂々と語っている人たちが自分のフェイスブックには毎日ころころ転がっているから、「神から受胎しましたっ♪(本当にそういう妊娠もある)」「女の子に性欲なんてないわよ♪」みたいな性が存在しないものになっているこの社会が、女性像が、本当にまじでカッコ悪いというか気持ち悪い。

 

特に「女性の性」がないものになっている。なぜだか、いつも男性ばかり「性欲」で生きている生き物扱いされて、よく女性は「ヤ“られた”」とか"〜された”という表現をする。いやいやいや、「おまえもその気があったから行ったんだろ?」といつも思う。何故かどんなシュチュエーションだろうと女性はいつも被害者顔だ。強姦でない限り、そのような言い方をするのは断れない弱さというよりは、大半は「女性もその気があった」場合が多い。こんな違和感がもう日常に有り触れている。

 

今の日本の女性は"性を隠す”。言い方を変えれば「セクシーさは見せない」「性欲なんてありませんよ♪」みたいな、まるで昔のアイドルのように「おならはしません」といったのと同じに見える。今はアイドルだっておならのひとつやふたつはする。けれどファッションは何歳になっても可愛いだとかフリフリだとか、ファッションやメイクも昔のアイドルより遥かに幼いものになっている。街中の女性も、外国を歩いていては決して目に映ることのないファッションばかり。ピタッとした服を着る人はおらず、ファッション業界や下着業界はいつも「体型を隠す〇〇」「胸を大きく見せるブラ」「胸を小さく見せるブラ」なんかもう、飽き飽きする。

 

ではあのバブル時代はなんだったのか?

まずはファッションで事を見る。

 

ボディコンやパンツ見え見えの意味のないスカート。

 

よく国の経済や女性の経済的自立が「女性の露出度」と比例するという。確かにそう言えるとは思うが、ここでいう露出とはいわゆるエロを感じるものだ。いわゆる"ファッション”としての露出だ。反対に、環境的露出といえばヨーロッパの夏の女性やアメリカの太った女性のように、"暑いからキャミソールなんです”という暑いから最大限の薄着をしている場合も存在する。今の日本ではそのどちらとも、優しく許容はされていない。せめて後者の"暑いからキャミソール”事情は切実に解放されてほしい。

 

かといって、もし日本が性に寛容な国だった場合、日本の女性がセクシーなファッションをしたいか?といったら、大半は今のままのファッションだろう。一昔流行った森ガールや、如何にも無印良品の服を買っていそうな女性の多さ(自分は"無印良品系”とよんでいる)、レザージャケットを着る時は下はスカートで甘さをミックスしようとか、やはり日本人女性には欧米のような「自立」「強さ」という言葉は合わないのであろう。実際、森ガールや無印良品系のファッションの方が多くの日本人には似合うような気がする。

 

では何が言いたいかと言えば、「それぞれしたいファッションをしたらいいんじゃない」てことだけれど、問題は自分のようにしたい"日本では好きなファッションがしずらい”人たちだ。自分は体系的にも自分のセンス的にもピタッとした服が好みであり、更に暑がりなので冬でも薄着を好む。「周り気にしないで好きな服着たらよくない?」と言われたことがあるが、自意識過剰ではなく同じ格好をしてもヨーロッパと日本じゃ歩きやすさが遥かに違う。なぜ日本ではこうも街を歩くにも地下鉄を乗るにも他人の目が冷たいのだろう?痛いのだろう?

 

違和感を感じる部分は以下だと思う。

 

"性を隠す”文化が女性だけのものではなく、文化として今の日本、つまり男性にも馴染んでいるからだ。エロを見せない清楚系の女性が男性に人気があることから分かるように、AV動画も清楚系であふれているように、男性も「女性の変貌」に興奮していることが分かる。"普段大人しい女の子がこんな〜で”的シュチュエーションが大好物だ。もちろんセクシーな女性が好きな男性も中にはいるが、その女性を恋人にしたいかと言われたら彼女にはしたくない人が多い気がする。欧米女性をキレイと思うことはあっても、最初からセクシーさがさらけ出されているアンジェリーナよりも無名の清楚系女子がエロを見せてくれることの方が価値も性欲も上がるのだ。そして日本でセクシーな女性がいたら、すぐさま「いやらしい」となる。

 

かといって、「あまりにも」日本の女性が日常からエロを隠すもんだから「性」をさらけ出して生きている"夜のまちの女性”に男はオトコになる。当たり前だ。なんせ隠すもなにも、「子供を産んでから妻が"お母さん”になちゃった」とか、「妻がすっぴん裸で家を歩くから女として見れなくなった」とか、本当に女じゃなくなっている場合もめちゃくちゃ存在する。余計男は、オトコになるために男は行く。オトコであることを確認するためにも。夜のまちの女性は女性を解放している。それを売りにしていることもあって「演出」している女性もいるだろうが、彼女たちもまた、オスを誘うメスのように歩いている。世の女性達みんなが、こうなってしまえばどうだろう?妻は子供を産んでも女であり、高いヒールにピチピチなワンピースで街を歩く。ご想像にお任せする。

 

 

さて、「それぞれしたいファッションしたらいいんじゃない」と書いたけれど、ほんとうに多くの女性たちは今のファッションで満足しているのだろうか?そこに「女性」としての喜びは含まれていないのだろうか?ここでいう女性とは日本でいう可愛らしさとかピンクだとかの話ではなく、「性」としての女性である。

 

自分がこう書くには理由がある。なぜなら自分が20歳の頃に体のラインが分かるような黒いワンピースを着て知人のレストランを訪ねた時、周りにいた女性が私に与える言葉はすべて褒め言葉のようであり、つまるところ「嫉妬」から生まれた言葉であったからだ。また、「若いのにいいわね」と若さに対する嫉妬も多く含まれた。こういう事例が山ほどある。この女性達の口から出る言葉に、"すべて”が現れている。

 

「スタイルよくていいわね(嫌味っぽい言い方)」

「私色気出せないわ〜どうしたら出せるの〜」

 

彼女達の心底にどんな感情があるかというと「ほんとはそれ、私もしたい」だ。それがなぜ出来ないかというと、「自信がない」。そう自信がないのだ。

 

「本当はちょっとセクシーな格好いいファッションがしたい」けれど、自分の体型に自信がないという理由でそれをしない女性は本当に多い。でも欧米を見渡せば、体型に関係なく太っていようが肉が積み重なっていようがおばあちゃんだろうが、平気で露出している。海ではビキニを着ている。

 

「それぞれしたいファッションをしたらいいんじゃない」と思う割に違和感を感じるポイントは、きっとここにある。日本の女性が今のファッションをしたくてしているのなら本当にどうでも良いけれど、「自信がない」という理由で体型を隠すファッションをしたり下着を選んだり、「自分のカラダがきらい」という理由で今日もその隠すための服やメイクを選んでいるのなら、はやくやめてもらいたい。そのようなファッションをしている人はその自信のなさまでもファッションとして映っているし、だからこそ自分の目には「本当はそういうのより、こういうのが良いんじゃないの?」と感じているのだと思う。

 

自分が好きだと思えるカラダになるために努力するのも、お金をかけて整形するのもアリだ。それくらいカラダの一部が気に喰わない辛さはよく分かる。けれど隠すことだけはやめようぜ、と言いたい。自分としてはあまりにも作らすぎたもの(豊胸しすぎた胸とか)には魅力を感じないが、それでその人が堂々と街を歩けるようになればそれは素晴らしい変化であり選択だ。だから整形して堂々とステージを歩けるようになった女性は輝いているし、そのままのカラダで堂々と海でビキニになっている太ったおばちゃんは輝いてるのだ。隠れていないのだ。

 

この、「痩せていないとタイトやセクシーな服装はだめですよ」という日本の若い女性が洗脳されてしまった“痩せなきゃ教”も過度に痩せたモデルたちが本当に彼女らのモデルになってしまっているからだ。そして街中に堂々と歩くモデルのような女性がいないから余計に、“過度痩せモデル”だけがモデルになってしまうのだ。外国のようにどんな体型の人間も好きなように服を着てみな堂々と街を歩いていたら、きっと痩せなきゃ教からは秒で離脱できる。そういう意味もあって日本では街を歩くだけでも完璧でないと落ち着かないのだろう。ちなみに髪型をまるで美容室に行ったかのように毎朝きれーいにキメるのも外国人からすると驚くところだ。

 

 

長くファッションについて語ったが、女性の性の意識のみならず自信や生き方、それら全てが簡単に映るのはファッションにある。そして、そこには流行りだとか「これが普通」「それはかっこわるい」という文化的背景も関係する。ビキニだって生まれた当初は「なんだあれ汚らしい!」と批判殺到だったのが今では普通になっているし、人前で裸になるなんていうカオスな光景も温泉では当たり前にみな脱いでいる。昔は混浴だってしていたし、女性が上半身裸でも気にしていない時代もあった。

 

またこれについては次の記事で書こうと思うが、その人にとってのファッションと「性欲」はリンクすると思うのだ。これこそ、海外では女性も性欲があって普通だと誰もが認識している感覚があり、女性同士がセックストイについて語り合うシーンが映画に出てきたりもする。中には恥じらいを抱く女性もいるであろうが、日本は異常だと思う。何が異常かって、まるで女性に性欲がないかのような世界になっていることだ。女性が性について話すことすらキモがられるし、自分が問題を感じている部分は"女性自身が自分の性欲を認めていない(知らない)”ということである。そもそも男も女も異性の前に自分の性への知識がなさすぎる。

 

よって自分がしたいことは、「女"性”の解放だ」。

 

こんな自分も学生時代は誰よりも男っぽかったし、学校で早くに"性に目覚めた”女子たちは本当に苦手だった。中学時代はスカートめくりすら拒絶感があってひとり輪からハミ出ていたし、その時からなぜ日常から最も隠されている“性”であるのにそういう遊びはみんな楽しそうなのか、テレビでも下ネタがウケていてそれが茶の間でもウケているのか、コンビニのアダルトゾーンは隠されていないのか、さっぱりだった。今もわからないけれど。

 

 

自分が今までブログに書いてきた日本での生きづらさ、またヨーロッパでの生きやすさ、は言葉にすればこれが大きく影響している。自分の目に映る世界では、外国の女性はベビーカーを押している女性も、すっかり白髪に染め上がったおばあちゃんも、みんな「女性」なのだ。みな女性であるから、自分が男だったらずっと魅力を感じるなと思う。家でその女性達がどんな姿をしているかは分からないけれど、外の容姿や振る舞いを見ても日本の女性よりずっと女性を感じる。子供の前でも「女性」であるから、子供はお母さんがオンナだということは自然に分かっているし、子供の前でも夫婦が「男女」であるから、"赤ちゃんはどうやってできるの?”という疑問をママやパパが教えてくれたって、他から聞いたって、どこかそれとなく納得できる。受け入れられる。

 

でも日本の場合はママは生まれてからずっと「お母さん」でしかなく、お母さんはお父さんの前でしか「オンナ」にならず、ましてやお父さんの前ですら「お母さん」になり、ハグもキスもしないお父さんお母さんから本当に自分が生まれてきたのかも分からないのだ。

 

そして学校は上から定められている規定で具体的な性教育は教えられないし、どこから情報を手に入れるかと言えば友達やネットしかないのだ。じゃあその友達はどこから情報を仕入れたかと言えば、親が性に対してオープンな家庭の子か、大半はネットだろう。ネットに正しい性の情報があるかと言えばあるのだが、それよりも汚らしいアダルトサイトやアダルト動画サイトの方が勝るだろう。子供が「性行為とは」なんてお堅い検索をかけて有り難く心優しいサイトに巡り会えば良いが、それはほぼないだろう。

 

 

www.youtube.com

 

彼女は「女性ポルノ監督」だ。とてもカッコ良くて理想の女性だ。

 

先ほど書いたように日本の性教育を変えようと様々な大人が"真面目に”活動をしているが、真面目に活動をしたところで多くの子ども達はもっと早いスピードでネットの世界に足を踏み入れている。間違った知識はもちろん、"普通のセックス”をネットの動画で知ったつもりになっているのだ。AV動画が男性の為のエンターテインメント(作り物)だとは分からずにそれが普通だと思い込んでしまう。そして厄介なのは、これは女性にも同じことが言えるということだ。だったら盗撮動画でも見た方がよっぽど本物をしる分には良いんじゃないかと思うほどだ。だからあえて"ポルノ”に目をつけてポルノ業界に女性が記号化されていない、女性にも男性にも感情のあるポルノを制作した彼女がひたすらカッコイイ。

 

日本の今の性教育は本当にオワッテいる。

 

「自分の感覚はおかしくない」と知る大きな自信になるものは、日本の昔を知ることや世界の感覚、世界の昔を知ることだ。こんなに違和感を感じる日本ですら、江戸時代はまったくもって今とはかけ離れた性生活があったのだ。じゃあそれより前は?縄文時代は?アフリカの先住民族の場合は?そう世界の様々な文化や歴史を知ることによって、いかにこの狭い島国、そして「今」の日本での常識や文化が一瞬であり小さいことかよく分かるだろう。今の日本の常識に一ミリも疑問を抱かないでいる人は、それは誰かが創り上げた幻想だということも知らずに、それを疑う人を排除する。だけど恥ずかしいのはどちらかお分りだろう。

 

僕は「日本での違和感」をただぐだぐだと口にする子供ではなく、日本のことも世界のことも男女のことも人間のことも、人が知らないでいること(興味のないこと)を勉強して自分の感じる違和感により自信を持たせたいし、知らない人にそれを知ってほしい。みなが当然のようにそれを知っていたら平和かもしれないが、みなが知らない今だからこそ物知りな自分に価値が出来、やれることが沢山ある。

 

 

まずは自分と同じ感覚を抱いている子に、ひとりでも届けばいい。

 

 

と思いユーチューブも始めようと思います。というブログでした(笑)