BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

地球のどこで生きるのか

 

日本では、「クロアチアに行きました」「セルビアに行きました」とか聞いたことのない、場所も分からない国名に行ったというだけで何故か、“やべえヤツ”にされるような所がある。そこに行った日本人が滅多にいないというのは事実であるから珍しさは確かかもしれないけれど、自分には「同じ地球」というだけであってそこに国境も何もない。見えない。

 

なぜだろう。アメリカやハワイ、ヨーロッパでもイタリアとかスペイン、と言えばそう驚かれない。いわゆる有名な「観光都市」に行けば誰も驚いて一歩下がるようなことはない。それが本当、意味不明。なんていうか、「戦地に行って写真撮ってきました!」とか「裸族と1ヶ月生活を共にしました!」とかっていう“経験”を「おまえ、やべーな!」ていうのはわかるんだけど、日本人が“ただ知らない”、“聞き馴染みがない”というだけで「〇〇(国名)に行った」っていうそれだけを称賛されたり、ヤバい奴扱いされるのは、ごめんなんだよね。

 

たとえば自分が行った国で最も美しかったのはクロアチアだけれど、逆に何故あんなにも美しい国が日本では有名でないのかが不思議。あんな天国みたいな所を知ってしまってから、同じ星にこんな場所があるんだ!という感動は一人では抑えきれず、「死ぬまでに1回は必ず行った方がいい!!」と会う人みんなに声をあげているけれど、きっとそもそも、別に興味がないんだろう(笑)

 

どちらが良い悪いではなくて、そんな人は自分が「旅してくる!」と言うだけでまるで違う世界の人間を見るような目で見てきたりする。何故なら、その人にとっては全く興味のない、存在のしない世界だから。だけど、そういった自分の生まれた街や国にしか興味のない人が「興味ない」から「存在していない」だけで、地球の裏側では知らない文化や常識、全くおかしな世界がうじゃうじゃと存在してる。それをたまたま「見てみたい!」という“外”に好奇心の向いた人間が、たまたま“旅人”とうたわれているだけ。

 

初めて自分がヨーロッパに行った時は18歳。「日本なんてクソ!まじで生きにくい誰が住めるか!」そんな感じだった。今はもう一度旅をして一周まわったところで、日本の良さも分かるけれど、やっぱり自分には“合わない”なぁ、という具合。この話、友達はピシャリと理解してくれるんだけど、30代を超えるあたりの人たちからは「それはまだ日本をわかっていない」とか「日本が1番いいから」とか全く理解の気も感じられないような回答がたまーにある。それは、“あなた”、“が”、そう思うだけだよね?って(笑)しかもそういう人は経験上、ほとんどが「日本から出たことのない人」。もしくはハワイなどのリゾート地に行って、日本人同士と連むような人(それが悪いんじゃなくて)。

 

うーん。

 

 

今住んでいる日本、

生まれた場所に90%満足しているとする。

 

そしたら、そのまま90%の生活をしますか?

 

それとも、100%の満足を探しに外へ出ますか?

 

 

自分は、「自分が幸せを感じる場所・瞬間・人・空間・匂い」こんなのを究極に突き詰めていきたい。それがたまたま偶然、「生まれたこの街がまさに私の理想の環境です!!」って胸張って言えるならいいけど、「本当は海の近くに住みたいな〜」とか「扉を開けたらイタリアの街並みが広がればいいな〜」とか少しでも思うなら夢物語にせず今すぐ動きたい。今は便利だから大体どんな場所かは行かなくたってネットで十分調べられる。もし気に入った国や場所があれば、もう脳みそ(気持ち)はそこに行っている。あとは体だけ。

 

けれど実際に行って見たら、あれ…!てことなんてことはザラにある。その逆もある。

そこでさっきの質問に戻るけれど、90%と感じていた日本が、30%の国を知ったことにより100%に感じるようになったり、逆に200%満足する素晴らしい国に出会ったことで、日本じゃ1%も満足できねーよ、となったり。そのどちらも素晴らしいことだと思う。だから自分は旅をする。

 

今現在、心は完全に「クロアチア」に恋をしてしまっている。もうあそこに住めるなら住もうかと思ってる。だけどそれも「今のところ」であって、まだ知らないだけであって存在するかもしれない「クロアチアを超える国」、または「クロアチアと同じくらい気にいる場所」があるのかもしれないと思って、もう少し地球を探検したい。

 

そして何より、一箇所だけでは飽きてしまうのが自分の特徴なので、気にいる場所を数カ所、少なくとも3箇所くらいはこの星の上で見つけておきたいと思う。

 

その為には「今日何を着たい?」「今日何を食べたい?」「気分乗らないからやっぱりやーめた」「まだあと1時間ねたいわ」等、自分の心の声を決して社会や日常に混沌しないよう守ってやりたい。そして借金をしてろうが会社でミスをしまくろうが会社を休みようが会社を辞めようがプータローだろうが大事な人を傷つけてしまった時でさえ、“どんな状況だろうと”「オレは素晴らしい」「オレはオレを愛してる」とせめて自分くらいは言ってあげられたらなと思う。いや本気で(笑)地球上で一人、そんなバカがいてもいいんじゃないかな。死ぬ時にはそれが一人じゃなくて、「私も」と言ってくれる人が奇跡的に一人でもいたら、それは奇跡だと思う。恋愛関係なく。そして何より、同じように愛せる人が自分以外に一人でもいたら、その人生はもう花マルをつけたい。

 

 

とりあえず今のところは死ぬならクロアチアがいい。

 

 

 

人間の一生

 

人間が蝉や蛍の命を一瞬だと感じるように、

 

長生きをする亀や海綿動物からしたら

 

人間の一生なんて

 

ほんの一瞬

 

なのかな

 

 

それとも

 

蝉には一日一日が

 

人間の10年や20年ほどの時間感覚で

 

時が存在するのかな

 

 

犬や猫の歳の取り方も

 

人間とは違うから

 

そういうことなのかな

 

 

けれども時間は一定に刻まれてるのだとしたら

 

体感する時間がただ単に違うだけなのか

 

 

亀から見た人間の一生のように

 

一瞬だからと今を切磋琢磨しながら

 

 

蝉や蛍から見た人間の一生のように

 

長生きしすぎなことを感謝しながら

 

 

人間は生きていこうかな

 

 

 

 

どの動物からどう見たって

 

人間同士で見てみたって

 

人間の命だと広い宇宙での

 

たった一瞬の、

 

いや一瞬とも言えやしないほど

 

くそみたいな時間でしかないのに

 

そのくそみたいな時間を人間は

 

泣いたり悩んだり文句を言ったり争ったり

 

たまには人を愛してみたりしながら

 

 

なんかかわいーな

 

 

っておもってみたりもする

 

こども

 

バスに乗った。

 

本を開いた。

 

横をみたら、おじさんも本を開いていた。

 

そんな時は、なんだか嬉しい。

 

 

 

バスは小学校の横をとおる。

 

すると

小学生の長い列がわーわー下校していた。

 

小さい歳から順に下校していた。

 

 

 

本を閉じてながめていたら

 

横のおじさんも本から目をはなして子供をみていた。

 

 

 

目の前に映るのはお年寄りの後ろ姿ばかりだった。

 

その後ろ姿はみんな

 

顔を横にしていた。

 

みーんな小学生をみていた。

 

 

 

 

ただ学校が終わって家に帰るだけなのに

 

なぜか走ってはしゃいでる。

 

 

ましてや雨も降ってきたのに

 

なぜか嬉しそうにはしゃいでる。

 

 

 

 

そして、一人の女の子がバスに手を振った。

 

 

だーれも手を振り返す訳でもなく、

 

ただみていた。

 

 

 

だけどその顔はきっとみんなほほえんでた。

 

 

 

 

心の中はほほえんでた。

母さんの職場

 

母さんの職場に行った。

 

小学生みたいに

家の鍵を忘れて、入れなくって。

 

 

母さんが職場を変えたのは最近。

 

といってもどれくらい時間が経ったかは「大体」という言葉を借りても無理なほど、時間の感覚がわからないけれど。

 

 

突然、娘が職場に現れてびっくりした母の驚き方といったら、

 

かわいかった。

 

 

母さんはいつも職場の話をする。

 

前の職場のときも随分楽しそうに家で話をしてくれたけれど、昔が殻の割れていない卵だとしたら今はツルツルのゆで卵。綺麗に剥けて、すげー輝いてる。

 

職場を後にして、もらった鍵で家に入れた時、なんだかにやけてぬいぐるみと目を合わせて、ベッドにダイブした。

 

うれしかったらしい。

 

 

やっぱり「母」が笑っている家庭が、結局みんなが笑顔になって1番大事やし、

 

「女」がご機嫌でいることが夫にとっても1番いいこと。

 

でも、その〝ご機嫌〟は夫がとるんではなくて自分で作る。(※ココ大事)

 

 

じゃあその為に何が出来るか?といった時のひとつに、「居心地の良い場所を見つける」のは本当に大事だと実感した。

 

自分の旅の経験を通しても、本当にそう感じる。

 

 

よく、「置かれている環境」なんていうけどそれは幻想。

 

どんな環境であろうと、変えれないと〝思い込んでいる〟環境も、全て自分が選択して出来上がっている。

 

なにも自分みたいに住む場所を変えなくてまで、職場を変えなくてまで、日々の生活にたった一つ新たな環境をプラスするのでも十分に変わる。そして今から出来る。

 

週一でヨガ。

月一でちょっと豪華なディナー。

 

何でもイイ。

 

 

 

春やし(笑)

 

自分にはよく分かんないけどなぜか一年の始まりと終わりが区切られてるこの季節。別に冬がはじまりとうたっても良かったのに。

 

「新たなスタート」を切るのに気持ちいい空気や気温になるからなのか?

 

 

多分、地球の波動的にも変化の多い、振れ幅の大きいタイミングなんだと思う。

 

暖かくなって晴れの日が増える、っていうのも心理的に十分に影響するけど。

 

 

 

それからもひとつ。

急遽開催された「職場体験」から感じたこと(笑)

 

 

不思議なことに、家族って、こんなに近くにいて毎日同じ景色を見ているのに、

 

母さんや父さんが毎日見ている景色を、子供は知らない。し、同じように、参観日やなんかでしか子供の見ている景色を親は知らない。

 

「話」でしか聞いたことがない。

 

話でしか聞いたことがないのだから、ひょっとしたら父さんは毎日スーツを着ているだけでサラリーマンではないかもしれない。

 

まるで、「地球はまるい」と同じように。どれだけの研究者がそう声を揃えたって、グーグルアースで宇宙まで昇ったって、自分で確かめてなどいないのに皆そう思っている。

 

会話さえも飛び交わない家族だっているけれど、そうとなれば「重なっていて且つ、家族以外の他人とは関わっていない部分」の景色は「家ん中」しかない。

 

 

そして、日本人のサラリーマンであると家より職場にいる時間の方が長い。

 

職場の人の方との方が同じ景色をずーっと一緒に眺めてる。

 

 

鼻が詰まってきたから文が中途半端であろうと寝るけど、

 

ここでいう「景色」とは物理的に目に映っている景色のことであって、家族はそれ以外の多くの景色をきっと共に見てきていた人間であり、今もきっと見ているんだろう。

 

目には映っていないけれど。

 

目が映すのは見慣れた朝ご飯に、生活感のある洗面台、匂いの染まったベッドシーツ、テーブルについたキズ、

 

それくらいだ。

 

 

その、目には映っていない「今みている景色」が違うのであれば、若しくはあるのに見えていなかったり、見ようとしていなかったり、今まで見た景色を一方が忘れていたりしたら。

 

将また、見えている景色が同じでも「一緒に見ていること」を忘れたら。

 

 

思い出す努力をするのか。

 

それとも、

そのまま家族と呼んで良いのか。

 

呼ばないか。

 

いや、いつまでもそう呼ぶことしか出来ないのが家族だけれど、それも血縁上の問題であって自分がそれを何と呼ぶかは、自分次第なのだ。

 

家族の定義をよく考える。

 

 

リメンバーミーでの、主役でもない泣けるシーンでもない所の台詞が刺さった。

 

 

「俺は芸術家だ。一つの家族に収まらない。世界中が家族だ。」

 

 

さて、解釈の仕方はいくつか出来ると思うけれど、ここでは書かない。

 

 

 

なぜなら、

 

鼻が詰まってきたので。

 

 

 

久しぶりの朝日と、秦基博の「朝が来る前に」と共に、ねます。

 

もう朝来てるんだけどねww

 

 

 

 

 

 

 

神のみぞ知る

 

朝。

 

ねぼけまなこでテレビをつける。

 

映ったのは普段はチャンネルを変えるような

 

いかにも重たいドキュメンタリー番組。

 

 

数時間ぶりに開ける目には相当しんどいだろうに

 

珍しくそこからチャンネルは変えなかった。

 

 

7年前の震災のことだった。

 

 

 

 

家族四人。

 

もうすぐ車で高台に着くというところで

 

津波にのまれた。

 

 

お父さんと娘は亡くなり

 

お母さんと生後何ヶ月の男の子だけが

 

生き残った。

 

 

そして7年経った今、

 

男の子は亡くなった家族について聞くようになった。

 

 

番組ではお母さんが男の子を助手席に乗せ

 

「四人が最後に居た場所」を教え、状況を説明していた。

 

 

7年経ってやっと、「忘れたい」けれど

 

「忘れてはいけない」事から蓋を開けていた。

 

 

 

そのほかに

 

お母さんを亡くした人、

 

おばあちゃんを亡くした人、

 

自分一人生き残ってしまった人、

 

沢山いた。

 

 

 

その中で

 

中学生になった男の子の文章が

 

とっても大人だったけれど

 

 

 

この番組を見ておもった。

 

 

 

あの四人家族は

 

あそこで二人が死んでしまったから

 

今も死んだ二人を愛せているけれど

 

 

もし二人が今も生きていたら

 

夫婦仲が悪くなって離婚していたかもしれない

 

今はもう愛し合っていなかったかもしれない

 

浮気をしていたかもしれない

 

 

けれどあそこで死んだから

 

そこに在った愛が永遠になっている

 

 

こんなことは到底言えないけれど

 

これは一つのそこにあった可能性に違いない

 

 

 

 

大人な文章を書いた男の子は

 

同じような境遇の子が沢山いるだろう

 

 

それでも一枚の作文用紙を渡されたとき

 

そこに書く字は、内容は、

 

みな全然違うものになるんだろう

 

 

7年経った今も

 

涙で紙を滲ませる子もいるだろう

 

 

力強い文章を書ける子もいれば

 

いつまでもペンすら持てない子もいる

 

 

 

結局のところ

 

タイミング

 

 

 

 

同じ事柄が起きてもそれを見る目はその人次第

 

 

ということ。

 

 

またその見る目は今日から変えられるということ。

 

 

 

「これをしたらこの子は可哀想」

 

という考えは

 

あくまでこちら側の勝手な偏見でしかない

 

 

若しくは

 

それが可哀想なことだと思えても

 

アドラー心理学的には

 

「その子がその物事をどう捉えるかが重要」

 

なので

 

 

 

そういうこと。

 

 

 

そしてタイミングについては

 

きっと「すべて」に意味があるんだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜなら学ぶためにうまれきたのだから

 

 

 

 

 

 

 

もっと愛のある世界になるために。