BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

「美しくなければ生きてる意味なんてない。」

 

鏡の中の自分に見惚れる日もあれば、自分なんて何も美しくない足りないと嘆き縮こまって消えたくなるときがある。

 

99%の人が僕の容姿を見れば、まさかそんなことを思っているとは誰も思わないだろうし、女友達からはむしろ「憧れ」的な値にされていたりする。

 

でもきっと、有名なモデルさんなんかも普遍的な自己愛=太っても(美しくなくなっても)自分を愛せる人って少ないんじゃないかと思う。美しい人ほど、美意識が高い人ほど、「美しくなければ生きてる意味がない」と潜在意識で感じているのだと思う。

 

その意識の高さが他よりもストイックで結果的に美しい美貌や肉体を手に入れられて、見た目のみならずそのストイックさにみなが尊敬したり憧れたりして真似をする。

 

勿論、美しい自分は愛せるので納得する範囲に自分がいる場合は自撮りを自慢げにあげたり、傍から見ると「そりゃぁ、あんな美貌だったら幸せだったに違いない」くらいに思われている。けれど実際は、周囲と自分が見る、自分への肯定感のギャップは大きい。

 

ただの“私は美人”自慢か?と思われても良いが、美人ほど自分の美に対して完璧主義で、美しくない自分には鬼の目で鞭をバッシバシ叩きつけるのだ。果たしてそこに愛はないのだろうか。

 

僕はよく、「ブスなのにじぶん、可愛いと思っちゃってる人」がやけに羨ましくなる。“自分がああだったら、絶対に外なんて出歩かずに食べもせずに減食して筋トレする(変わるまで誰とも会わない)”と思ってしまう。

 

けれどこれは今でも自分に対してそう思っている。浮腫などの違いで顔がパッとしない日は誰とも会いたくなかったり、食べすぎてお腹がパンパンになるのを毛嫌いしたり。これまでハッキリとした拒食症になってないのが奇跡くらいだ。

 

それでもなぜ摂食障害にならなかったかと言えば(多少はなってたろう)、痩せすぎた身体は美しくない、と感じていたからだろう。拒食症になる人の多くはストレス等を抜いて、「めちゃくちゃ細い」ことが美だとメディアや雑誌に洗脳されてしまってただの美の追求だったりする。

 

 

魔法で美しい金髪を身に纏うハウルは、魔法をかけられてババァになったソフィーと共に過ごすことで「別の美しさ」を教わる。それは詰まるところ人間的な美しさであり、今まで見た目だけに執着していたハウルがより素朴に美しく見える。

 

「歳を食えば変わるよ」とエステの店長に言われたけれど、僕は整形魔のように「永遠の若さ」「シワのない目じり」「マイナス10歳!」的美意識は持ち合わせていないので、54歳では48歳くらいに見えるくらいの年相応の美しさを身に付けられたら良いなと思う。歳を食えば表現したい美が、やりやすく思える。

 

この若い時に理想の美を出すのはなんだか難しくて、おばあちゃんなら赤リップに真っ白なヘアーにカラフルコーデ、とか全身決め込んだコーデもかっこいいけれど、この歳でそれをするから「抜け」が欲しい。

 

ニューヨークの街を歩くのなら、全身決め込んだ野郎の方がイカしてて良い。でもこのくらいの日本の街を歩くなら、フランスを軽く歩くくらいのラフさが欲しい。フランスはお洒落すぎねぇか、と思うがこの街並みでラフすぎるとかえってダサい。決め込んでもダサい。

 

こう書いていると普段オシャレを沢山する訳でもないのに、ファッションを「街並み」から考えているんだなぁ、と自分を知る。

 

僕はどう変わっていくのかな。

 

でも「美しくなければ生きてる意味なんてない」と感情爆発して家ぐっちゃぐちゃにしておかしくなるハウルもまた、ハウルらしくて良いじゃないか。

ハウルが「おれ、髪型とかどうでもいんよね。」と急に坊主にされてもちょっとそれはそれで悲しいよ。

 

ハウルが健全で優しいのは、見た目がおばあちゃんになったソフィーに「お前ブスだな、早く魔法解けよ。」とは言わない所だ。

 

ここに書いた“自己肯定感のない美人達”は決して他人にも美を強要したりブスに冷たくする訳でもなく、ただただ自分に厳しいだけである。それはある意味、自信が無いからこそ出来るんじゃないだろうか。

 

それとも、もっと意味なき自信が備わっていれば自分より美人を見てもブスを見てもサラリとも気にしないでいられるんだろうか。

 

きっとそうだろうが、生まれながらにして何の努力もしないで美貌を持ったモデルより、こんな消えてしまいそうな心情から「生きれる為に美しくなってしまったモデル」だったら後者の方がきっと色んな発信が出来るだろうし、共感者も多いだろう。

 

ブスで勘違い野郎、の自己肯定感が最も最強だと思う。

 

でもそれは僕の美意識から離れているだけで、またきっとそれは文化的背景にも影響されているから違う国の違う時代に行けばそいつが「絶世の美女」かもしれないのでね。

 

こんな二重かわいい!文化が定着してんのに、一匹狼の如く群れから離れ一重を貫く女の子を僕は絶賛応援中です。

 

僕の自信のなさの正体は分かりませんが、ハウルが美しさに執着して実際に美しい金髪だった様に、そのお陰で美しくなっていると思えば決して邪悪な感情でもないのだと思います。

「髪?乾かすのめんどくせーよ」と坊主にする性格なら、あの美しい男性も存在しなかったのです。

 

そう思うと、こんな自信のなさや高すぎる美意識とも上手く付き合って行けばいいよとりあえず、と思うところです。

 

「美を捨てろ!」と言われても捨てれるモノじゃないので。

 

むしろ自分の生き方の全ては美に起因している

 

 

人生のめりーごーらんど。

 

女性の悦び

 

強がりたい時には全身真っ黒を纏い、上半身は革でかため、強い女になりたい時にはヒールを履きかっかっと音を鳴らして地を蹴りサングラスをする。周りからはジロジロ見られ「めっちゃいい女じゃね?」とか、わざと聞こえるように「かわいぃ〜」と言ってくる若い男には「私にはイヤホンの洋楽しか聞こえないの♪」と無視をしたり、わざと振り向いて悪魔な笑顔を浮かべることもある。そんな強い女を演じた日のナンパは大抵、ホストが営業関係なしに本気で「素敵ですね!」と言ってきたり、自信のなさそうな男のナンパは跳ね除けるのだが、まるでどっかの女優が街を颯爽と足を止めずに歩く様にニコッと手を振ってさよならをする。

 

ネオンの街は元から好きではないが、男と酒を呑むとかおっさんを落とすとかそういう遊びよりも、こうして街を歩くだけの遊びをしていた。

 

「遊び」というよりはごっこ遊びに近かった。

 

冒頭に書いた通り、自分の中のバロメーターでファッションを選ぶのは変わらないので、男の視線を集めようとして良い女を装う訳でもなく、単に内から湧き出る欲求を外に表してみただけである。

 

ただそれで目線やナンパを弄ぶように颯爽と歩くのも事実で、それが面倒くさい日はジャージやスウェットで中学生の男子になりきったりした。

 

よく仕事が作業着の女性や、職場で女を体感できるような服装じゃない女性は、休日に妙に色気が垂れてるような格好や、反動で無性に女の格好をしたくなる。まるでそこでバランスを取るかのように。

 

女はいつどうやって自分が女だということを実感するのであろう。

 

それは男に見られたいとかそういう心理ではなく、自分の中で女を実感したいが為の行動に思える。

 

作業着の仕事をしていながら、「私って素敵な女だわ♡」と思うことは出来ないのだろうか。

 

女にはやはりファッションやメイクの楽しみがあり、それらは自ら女性であることの悦びを体感するものなのだろうか。

 

世に男がいなくても、それは変わりないのだろうか。

 

男の視線を考えたファッションやメイクもありふれていて気持ち悪い、とは思うがそうじゃない女性も沢山いる。

 

けれども、女性だけの世界でも、更には自分しかいない世界でも、女性はファッションやメイクを女として生きる悦びにするのだろうか?

 

ふと疑問が湧いた。

 

リスキーゲーム

 

財布が一つなのは、リスキーだ。

 

仕事が一つなのも、リスキーだ。

 

帰る場所が一つなのも、知っている国が日本だけなのも、すべてはリスキーだ。

 

地震で感じた生きづらさと「依存先増幅」の勧め - BOKETTO

 

 

↑同じ様なことを、地震があった時に書いている。

 

 

何かあったときには、お金を持った者と、お金はなくても人脈を持った人が生き残る。その両方を持っていたら最強だ。お金が使い物にならないとき、お金では解決できない時は人脈だけが残る。それからリスクに備える頭の良さも必要だ。

 

例えば、コロナで人との接触さえ拒まられる時、人脈のパワーも弱くなるが、自宅待機になった際に食糧を郵送してくれる仲間がいれば強いし、それがなくてもリスクに備えて自ら備蓄していれば生き残る強さになる。「絶対に必要ではないリスクに備えた物」に手を出すには余裕のある資金がなければできない。

 

今沢山の人が仕事先を一箇所に依存しているが故、赤字だったり潰れたりでいろんな目に遭っている。普通に働いていたら、「数年後に日本中にウイルスが蔓延して会社が潰れるだろう」なんてことや「大きな地震がきて日本は潰れるだろう」なんてことは考えないので、明日も明後日も仕事に行く自分しか想像できていない。そんなことを想像する意味も暇もないからだ。

 

けれどそんなことが存在するのがこの地球の面白いところだ。コロナで人が死んでいる中で面白い、と書くのは大いに間違いだが、人はまさかそんな時代が来るなんてことはわざわざ想像もせず、地球が平和なのは当たり前だという意識の上で、結婚や子育てなんて幸せすぎる未来を想像し生きていく。

 

しかしそれは人間の良い所であり、未来に夢を託して希望も抱けない、過去に夢を託して絶望も抱けない「今」しか見られない動物には人間が感じる幸せも感じれないだろう。人間の素晴らしい所は、酷い状況でも未来を見てポジティブになることも出来れば、同じ状況で絶望を感じることも出来る自由さだ。

 

冒頭の話にもどり、とあるサイトを見ていたら、

 

変化する時代を自由に、自立して生きていくためには、何にも依存しないことではありません。むしろ依存先を一箇所にしぼらず、複数持つことが大事です。

 

と書いてあった。

 

 

僕はもう何年前だかも忘れたが、旅をする前は帰る場所も一つ、財布も一つ、街中で話に行けるお店もない、依存先が今よりも少なかった。

 

今はもし地震があったら、とリスクを想像してそうしている訳ではないが、街を歩いただけでコンビニ、お花屋さん、マッサージ屋さん、バーガー屋さん、沢山「あら元気〜!Percyちゃん!」と言ってくれる居場所が沢山ある。

 

帰る場所だって、家族がバラバラになったお陰で自分の家、母の家、なにかあったら父の家、とそれだけでもある意味リスク分散にもなっている。

 

ドイツにもインドネシアにも友達だっている。なにかあればひとっ飛びだ。

 

僕がそれだけ繋がっているということは、何も自分の命を守るためではなく、同じようにそれだけ繋がった人の依存先に僕がなれることにもなるのだ。

 

地震の時に、食糧や必要な物を分け与える景色や、あんな時に人が火を取囲んで星を見上げる姿はなんとも美しかった。やばい状況になってから、そうして新たに他人と繋がるのもまた素敵だが、今まで信頼関係を創り上げてきた人間とそう出来たら僕はどれだけ素敵かなと思う。

 

「今の仕事のほとんどはAIにとられるぜ」なんて言われていたけれど、そんなことより前に自然災害やパンデミックやなんかで仕事が奪われる可能性はどこにでも何時でも存在する。

 

永遠に語れてしまうからこの辺にしようと思うが、この世で「一つ」にしか絞らないで美しいのは愛し合う二人だと思う。

 

勿論、それこそリスキーで無理な話だろ、と一年前の僕が言っているように「政治の話を分かり合えるのはこの人」「セックスが合うのはこの人」「一緒にいて楽しいのはこの人」と、一人の人に全ての役割を負わせないのもアリ。

 

はい、また男女とか結婚の話にスリ変わろうとしていますが、自由に動き回れる人間になるには依存先が沢山あるのが強い、恋人だって本来そうだけれど、それでも一人の人を愛そうと、愛してほしいと生きる人間が今の僕は可愛らしくて好きだ。

 

それだけは、一つに頼っていた仕事が消えたり、一つに頼っていた帰る家が無くなるのとは違って、失っても何か大きなモノが心に残ると思うからだ。それが不倫された上の別れであり、死別であっても、自分が大好きで自分の意思で「愛せていた」と自信を持って言えるのなら、

 

それは美しいからだ。

 

 

小さな女の子の末路

 

小さな女の子は、自分より大きな愛を持ちながら、いつどんな時も手放さなかった。それは重たくなく、軽くてどこまでも飛んでいきそうな軽快なものだったので、受け取った人がまたそれを周りに広げていった。小さいながらに誰よりも愛を身につけた人だった。

 

そして少女の愛は与えるほどに大きくなった。街中のみんなが、彼女を素敵な人だと言った。

 

けれど少女の心の真ん中は、ぽっかり空いていた。そこに自分の持った赤を注ぎ込む訳でもなく、自分が与えれば誰かが返してくれるだろう。と信じながら。

ただそれを望むのは近所のおじさんや小さい子からではなく、ただひとり、少女が大好きになった男の子からだった。底の見えないほど真っ暗闇になった深い穴に、どぶどぶと赤い液体を注いでほしかったのだ。

 

けれども、そう願ったその男の子の心にも、ぽっかりと大きな穴が空いていたのである。男の子はその穴から、愛を振りまくことは疎か、愛を受け取ることすら怖くなっていた。

 

少女はその穴に気付いた途端、離れようとせず、「今までつらかったのね。私が満杯にしてあげるわ。」と赤いジュースを零した。

 

けれども、長年“空白 ”に慣れていた彼は、急に穴が塞がることもまた怖かった。またすぐに全部捨てられてしまうのかと、怖かったのだ。そして少女に別れを告げてしまうのである。「もういいよ。」と。

 

 

二人が望んでいたことは何だっただろう。

 

二人が上手く行く為には何が必要だったのであろう。

 

色んな愛を経験すれば、色んな愛が怖くなったり、そもそもめんどくさくなったり、そもそもどれも愛じゃなかったと気付いたり、もう誰もいらねぇとなったり、またこんな過ちはしたくない、とシャッターを下ろしたり。

 

するけれど、物や仕事やお金がありすぎるこの都会で、大事な物を失わずに生きていける人っているのだろうか。

 

仕事が1番大事な人はそれでよい。大事な人との時間が1番大切ならそれもよい。稼ぐことが1番ならそれでよい。

 

でも僕らは何の為にそれをするのだろう?

 

どんな死を迎えたいのだろう?

 

今日も心と心に互いにぽっかりと大きな穴を作った二人が、穴の埋め愛ごっこをしている。

 

それはそれで人間らしいが、少女と少年がもしも本当に愛するといえる時は、互いが自分で自分の穴を埋められた時ではないだろうか。

 

その穴を埋める際に、赤い液体の入ったバケツを、一緒に逆さまにしたりと手伝うのが愛なのかと思う。互いに穴を埋め合うと、一時期は非常に愛し合ったように錯覚するが、自分のタンクの底がダダ漏れ状態なので結局は満たされないのだ。

 

「あなたはそこに自分で愛を流していいのよ。」と言えるのが愛なのではないだろうか。そうして一人で真っ赤になれた相手の心に、振りかけるようにして上からダラダラと違う赤を垂らして、奥深い赤を作るのが、素敵な愛に見えてきた。

 

ひょっとしたら僕の持っている愛は赤色でもなく藍色かもしれない。

 

そしたら余計に、赤や緑色を持った人を愛してみたい。

 

とりあえず、僕はペンキを持って他人の白い部分に色を付けることばかりしてきたので、少し休業して先ずは自分が自分の色に満遍なく染まってからまた働こうと思う。

 

それは心の話であり、よくコップの話で例えられるようなモンで、僕は自分の水を他人に分けてきたのでどんどん自分のコップが枯れていたのだ。それでも僕は与えるのが喜びだった。

 

それは別に恥じることでもない。

 

それくらい僕は愛が深い人間で、元々コップも大きいんだろう。

 

ほんの少しでいいから、そう生きてきた自分に先ずは少量の水から与えたい。

 

少年が急に穴を埋められると怖くなったように、愛し方愛され方には慣れが出来ているものだ。

 

僕は自分を愛することに慣れていないので、ちょっとずつ感じていくことに努める。そうして僕が他人への「ペンキ塗り」や「水増し」を休業したとて、僕が自分を満たして笑顔でいるだけで「あなたが笑顔で私も幸せです」なんて変態が現れるんだ。

 

僕は一人で幸せになっていい。僕は僕に愛されていい。母からの愛にも自信があるけれど、僕が僕を愛す愛はどこまでも裏切らない。

 

誰かに穴を埋めてもらうのはもうやめよう。

 

僕はさみしかった。

 

それはそれは生まれてから間もない時のことだったかもしれない。中学生、いや幼稚園の頃からだったのかもしれない。

 

良い歳の大人だって、抱えている寂しさを掘り下げて掘り下げて掘り下げれば、結局みんなそんな所に遡る。

 

みんな親に愛されたかったんだ。

 

あの時、あの人に、こうしてほしかったんだ。

 

自分の心に穴が空いてることすら気付かず、今日もみんなが「なんでよ!なんで愛してくれないのよ!」と叫び合う。

 

一旦、みんな休もう。

 

ただ海を眺めよう。太陽を感じよう。

 

生きよう。

 

それでいい。

 

生まれてきた意味など、問わなくて良い。自然を感じるだけで僕らはまだ何かに気付けるだろう。そこまで感性は死んでないだろう。

 

それでも何も感じなければ、感じる暇もないと言うのであれば、1回死のう。

 

イメージの中だけでいいから、今死ぬことや今後必ず死ぬことについて考えよう。

 

死があまりに遠くなりすぎたこの世界では、意識しなければ流されるようにして大事な物を失っていくレールに乗ってしまう。

 

いつまでもただぼーっとガタンゴトン体と思考を運ばれる乗客ではなく、直感で道を選んでいく運転手でいたい。

 

 

僕は少女のまま、大人になる。

 

どんなにこの先美しい人になっても、内面の美しさと、済んだ白目は、少女のままがいい。それが一番美しいと思うからだ。

 

恋愛をFXに例えると

 

恋愛をざっくりFXに例えると。「全ての資金」が自分だとして、「市場」が相手だとする。また市場に投入するお金を相手に与える愛情や行動とし、市場の動きはそのまま、相手のテンションや忙しさや人生の山谷とする。ここまでで、なんだか小難面倒くさい(笑)

 

まず、勿論こちらは「市場に目を注ぐ」わけであるけれどポイントがいくつかある。

 

ひとつ、自分(資金)に余裕がなければ相手(市場)に対する余裕もない関係になるということ。資金が沢山ある=自分が満たされている、余裕がある、のなら、その分相手へ「与える」ということが可能になる。だからといって、自分が100(万)だとして、それを100相手の為に与えると、急に相手が「俺…仕事クビになった。最悪。ビルの屋上から飛び降りたい…」と極度な鬱になった時に自分も一緒に落ちてしまうのだ。

 

もしそこで、「同じように100あるけど8割はメイクやファッションに使おう。あとの2割であなたにあれこれしたい」といった、かなり自分への喜びの為に自分を癒している場合。数字にすると、「えっ!たった2割しか割いてくれないの??」と思うけど、結果としてその余裕が「仕事クビになった飛び降りたい」と鬱になった彼と一緒に落ちることなく、「大丈夫よ。私は信じて待ってる。」なんて言えちゃうんだと考える。費やしているのは2割でも、そこにずしりとでっかい愛がある。

 

※FXの話をしたい訳ではないので、詳しく書いたら「そういう意味じゃねぇよ」ていう箇所も出てくるので大目にね。

 

で、FXの世界では「強制ロスカット」なんて怖い響きの仕組みがあって、損益が大きくなりすぎるとそこで終わりか、「まだお金があるならもっと余裕を作ってくれよ☆」と更なる入金をせがまれる。

 

これを例のカレカノに当てると、「あなたが飛び降りるなら私も死ぬ。」というメンヘラ要素満載で共にどこまでも病み落ちて、死ぬのだうぅあぁああ!てなってる状態。その瞬間、天から「彼に今まで“与えすぎていた”分を強制返還しますね。」と、すっかりマイナスになったお金を貰う。つまり何も残ってない。自分もすりへった。てことになる。

 

て、すげぇバカなことにそれでも気付かず、それでも「彼を救うのだ!!!(自分死んでるのに)」となって借金までして注ぎ込むある意味猛者もいる。

 

絶対はない世界なので、それで運良く「お、おまえがいてくれて俺は生きようと思えたんだ…!!」と急に生きる活力を取り戻してぐーんと二人で幸せに…ていう展開もなくはないんだけど、急にぐーんと上がると大体はその分落ちるという…。FXと恋愛。どこまでも似ているな(笑)

 

そもそもFXのやり方だって一つや二つじゃあるまいし、短期で多大な利益を得ようとする者もいれば長期でコツコツな人もいる。短期で多大な利益を目指すのなら、それなりのリスクは上がってくるし「常に市場に神経を張り巡らす」ことになる。また長期運用でも余裕がなければ同様だ。

 

FXの場合はどちらでも良いけれど、恋愛でそれは疲れる。お互いに疲れる。そしてもうひとつ違うことと言えば、FXは「見返りを求める」ということだろうか。

 

これも見方を変えれば、「相手が弱っている時に与えてあげた分が、相手が元気になったら私も元気になった!」とも言えるけれど、「そのまま弱っていてもいいわよ」とは言えないし「早く元気になれや私の為に」的なものに近いのかもしれない。

 

あと一番違うのは、相手がめちゃ調子良くグングン上がりまくってる時に、「おいおい、そろそろ、良くないか(下がり時だろ?)」と下がっていく相手に対して投資をしてしまう所である。まぁ、「あなたがダメになった時の為に貯金をしておいたのよ」的な優しさと思えば話はまた別だが。普通は上がっていく彼にはもっと頑張って!と言っちゃうのではないだろうか。(※「売り」をどう比喩で表していいかちょっと分からなかったw)

 

冒頭に“ざっくり例えると”と書いたくせに、細かいことまで当てはめようとしすぎて訳分からなくなったしまったw(自業自得)。

 

誰か恋愛に例えた時の「売り」を上手く表す表現があれば教えて欲しいです。

 

さて、こんなことしてる最中も、市場は常に動いています。

 

言いたいことは、「未来の動きは誰にも分からねぇ!!」ってことです。

 

今回は市場と資金を持ってる側として、まるで相手と自分しか存在しないようなシチュエーションで書きましたが、現実はもう、ひとつの市場に対して数え切れぬライバルがいる訳です。それだけ「見ている人がいる」ということ。

 

「あーおれそろそろ下がろっかなー」て、全然アゲアゲテンションじゃないのにみんなにガブガブ噛みつかれて超人気者!てなっちゃったり、浮かれてたら「もういいや」ってまた飽きられたり、しかも「いやここで元気になんのかよ」とか、「もう少し耐えろや」なんて自分のテンションにすら文句言われながらね。

 

 

結論、「自分が市場だったらやってられにぇあ」。以上です。

 

けど、落ち込んでる時に世界中の色んな方がほいほいつぎ込んでくれるなんて、そりゃ元気になりますわ。

 

けど、そんな時にも「もっと落ち込めぇどん底に下がるんだ◥(ฅº₩ºฅ)◤ケケケッ」なんて僕を地獄に落として自分がハッピーになろうとしてるやつもいると思うと、、

 

やっぱなりたくない!!

 

けど何事にも最も重要なのは、楽しむこと(笑)