BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

地震で感じた生きづらさと「依存先増幅」の勧め

 

北海道での地震。今まで大きな地震やそれによる数日間の停電、断水に遭ったことのない多くの道民が大変な思いをした。食料や非常用品の備蓄をしていた人の方が明らかに少ない。そして約一週間、余震に警戒とのことだったけれど「あれ?(地震あったっけ?)」という程に“余裕”を持ってしまった大人達と、生を失った街の無機質さ。そのコントラストが不気味だった。あくまでも当時、“自分が見た景色”をごく淡々と述べるだけなので、自分とは全く異なった景色(危機感の持った大人、暖かい街etc...)を見ていた人も沢山いるだろう。なにも悪いところにピントを合わせていた訳ではない。同じ景色やシーンを見ていようと感じ方や見つめるポイントは違う。

 

何が言いたいかというと、今回の停電や断水といったライフラインの不便さとは別な部分で、非常に「生きづらさ」を感じた。それはそれは、普段は感じながらも声を出さないでいた違和感がついに悲鳴をあげたようだった。具体的には、「“やっぱり”日本には住めない!!!」という“やっぱり”が、一人寂しく、激しく、暴れ泣いた。何故なら、人間がライフラインさえも確保できないような緊迫した状況では、一人一人の人間色がとても色濃く鮮明に溢れ出る。いつも淡く感じていた違和感が鮮やかに浮かび上がってしまったわけだ。

 

 

テレビでは「余震に警戒してください」や「同じ規模の地震が来るかもしれない」とアナウンサーが続けて連呼しているのに、道外の友達は揃って「数日間は気をつけろよ!」と必死に訴えてくるのに、当事者の道民はというと。いたって平然だった。例えば、「冷蔵庫の食材が腐ってしまうから」という理由で庭でBBQをはじめる姿には道内、道外、ネットで色んな声が上がった。この件に善し悪しもないけれど、問題はその“精神状態”だ。自分から見ると、「余震の危険性や全体の状況をしっかり理解した上で且つ、食材を腐らせないBBQという選択をした」というよりも、電気が使えず仕事もない非日常の空間にどこかイベント感を抱き、単純にふと「BBQしよーぜー!」という楽しさ“のみ”から発生した行動に見えた。勿論、同じBBQのワンシーンでも前者のように“考えて”楽しむ大人もいただろうが、そうでない者も含めすべてを「道民らしい」とか「楽観的」と呼ぶ世の声には違和感しかなかった。街が死んだ状態で、絶望するも希望も抱くも、涙を流すのも楽しさを見出すのも人間ならではのこと。そしてその中でも、“楽しさを見出す”ことは最も必要なこと。と言いたいけれど、それは「最悪な状況」を考え、尚且つ最悪な状況の備えをしてからの話だ。

 

Twitterを久しぶりに開くと、同世代の同じような人間が結構いたので心が救われた。「避難用バッグを用意してるのは私だけ?」とか「あれ私だけ危機感持ちすぎ?」、そのほかに「この状況で仕事仕事って、日本やばくない?私がおかしい?」等。ここから言えることはこの様なつぶやきを放っていたほとんどが疑問形、“私、おかしいのかな?”という世間とのギャップから孤立感を感じるものだったことだ。友達の話を聞いても、子供がしっかりと危機感を持っていて、大人は「大丈夫だべ」のスタンスでいる家は多かった。やることをやった上で、初めて「大丈夫だべ」を子供に言っていいのではないだろうか。何も危険に備えないでいてのその言葉は、果たして子供を安心させるものなのだろうか?

 

そして何よりこの違和感を気持ち悪くさせてしまったのは、それが日本人だったからである。(誤解を招きそうですが日本人を否定するつもりはありません。)普段「将来のため」や「いつかのため」と目的の定まっていない貯金をしたり、ただ不安な未来への貯金、その為に日々やりたくない仕事をしているザ・日本人と呼べる人間が、あのような状況になって途端に「今、楽しまなくてはどうする!」と言わんばかりに楽しもうとする姿。それはまるで今まで押さえつけられていた何かから解放されたような、爽やかであり不自然な表情に見えたのだ。笑顔が引き攣って見えた。あの状況で「楽しもう!」となれるのに、なぜ日頃ではそうしないの?と心が不思議がって仕方なかった。

一方、今だけを楽しく生きているようで一見、楽観的に見える自分には実は計画性や慎重性が備わっていて様々な状況を考えているので、「いつも楽しく生きていないオトナが、急に楽しんでる…😨」とほんの少し、こわかったようだ。

 

人間色がハッキリと現れる状況で何を、誰を、信じたらいいのか。何を、誰を信じたいのか。こういう時に頼れる大人や手を取り合える友達もハッキリと分かる。とにかく全てがハッキリする。

 

それから、“すべて”に疑問も抱かなくてはいけない。「ネットの情報は信じてはいけない」とはよく言ったもので、我々国民のいつも側に居てくれていると思っていたアナウンサー、つまりテレビ、メディアはいとも簡単に人を洗脳出来てしまう最も身近で恐ろしいものとも言える。結論から言えば自分は最近の地震を“人工地震”だと思っているが、 仮に1つの説だとしてそれには日本のみならず世界の歴史や政治、経済についてよく知らなくては理解出来ない。長年、平和ボケしている頭脳には「なぜ、人工で災害を起こす必要があるか」全く誰にも利益がないように見えて当然。ここで何の知識もなく 「オカルトだ!」と言ってしまうにはちょっと切ない。何を信じるか信じないかは人それぞれで良いが、最も当たり前である「自然災害」でさえも疑ってみる、それが大事ということ。知らないことを知ろうともせず無いものだと思い込むのは貧相だ。

 

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そして、やっとタイトルに触れる。

 

 

電気が使えなくなったことでガスの使える家やソーラーパネルのある家は困らなかったこと、現金を所有していた人はお金を下ろさずとも困らなかったこと、其々色んな気づきがあった。つまりどういうことかと言うと、オール電化=電気のみに頼ること(依存)や電子マネーも同様、それらは大変なリスクを背負うということだ。海外に行って財布を失くした時も、お金(リスク)を分散するという大事さはよく分かった。そして何より、多くの人はこの辺で止まっていると思うけれど、声を大にして言いたいのは仕事や家、国でさえも同じことが言えるということである。

 

少し前まで、会社は一箇所に勤めていれば何も問題がなくむしろ「安定」していたけれど今は違う。クビになることも、会社そのものが無くなることだってありえる。会社一つに依存することはかなり危険と言える。それから、家。そして日本。日本に生まれたからといって日本が安全な国だと思っていたらそれは大間違い。災害の多さでも、その他でも「日本が安全」というのはもう胸を張って言えることでもなくなってきていると思う。地球上で家(ホーム)が一箇所しかないのは、よっぽどリスクのあることだと強く感じている。日本で生まれたからいつまでも日本人だ!とか、いくら世界を回ったってお前は日本人だ!とか、そんなことは当たり前なことで別に否定する余地もないけれど、何かあった時に日本だから、日本、日本、、と国に頼れる時でも無くなっている。

 

人間である限り、社会があり、皆何かに所属している。けれど「個」の生きる力や術がもっともっと、もう今から大事になっていると思う。つまり人間力

 

 

 

そしてもう1つ。

「なんかちがうな」と感じたことがもういっこあった。

 

 

いつもブログで書く、「人々の“家族”という意識はどこで生まれ、どこまでをそう呼ぶのか?」という疑問。

 

自家発電のできる家がコンセントを共有したり、飲食店が愛のあるお弁当を作り配ったり、その他にも風俗店がお風呂を貸したり、それぞれが色んな形で物を提供、共有していた事実はどれもとても美しい。けれど同じ状況でも身の回りの血の繋がった家族さえ良ければそれで良い、という人もいる。被害の酷かった所へ直ぐさまボランティアで駆けつける者もいる。さて、その心はどこで決まるのだろうか。よく言う、「友達」であれば他人事にはならないのなら。そもそもその「友達」という意識もどこから生まれるのか分からないが、世界中の人と友達になってしまったら。戦争で打たれてしまうかもしれない友達のこと、エイズで死んでしまうかもしれない友達のこと、今まで他人事だった遠い国のことが全部ただ事ではなくなってくる。そうなった時、人は助けに行くだろうか?何か手を差し伸べに行くのだろうか?

 

自分の住んでいる町では助け合いがあったけれど、範囲で言えば隣の家・向かいの家そのくらいだ。一方、じゃあ自分が理想とする世界はというと、町中の“皆”が外へ出て、“皆”が助け合い、分け合い、光と音の失った世界で楽器がある者は楽器を奏で、ない者は歌い、踊り、「たとえ大きな地震が来てもかまわないさ」くらい“みな”が愛し合っている、そんな世界だ。

 

“BBQするなら最悪な状況も考えた上で”と書いたはずが?と思うところだが、この理想世界の人間達は常日頃、地震がなくたって変わらなく助け合い、愛し合い、人生を、音楽を楽しんでいる。ひょっとしたら火の危険等の話を別にして、BBQをしていた人間も「今コイツらとだったら死んでもいーぜ!」といった思考だったかもしれないが唯一つ違うのは、彼らは“毎日”、“日常”、“通常”からすでにその生き方、つまり愛する人といたり人生を楽しんでいるという点だ。普段嫌な仕事や付き合いに時間と身を削り、大きな給料(ボーナス)が入ったり災害で仕事が休みになった時にのみ地球をパラダイス化(楽園化)するのとは大いに違うのだ。

 

一日の中で何時に死んでも「最期にコイツとかよ!」と思わないよう、仕事でもプライベートでも嫌な関係は一切無くしたい。「こいつらと居てよかった〜」と起床中でも就寝中でも微笑みながら死んでいきたい。