BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

最後の晩餐

 

 

 

苦しい

 

 

そして

 

 

くるしい

 

 

 

僕なんて

 

しねばいんじゃないかな

 

 

ネガティブでもなく

 

ポジティブでもなく

 

 

 

神様

 

僕は今からあなたに土下座をします

 

 

 

あなたが僕に使命を下さった時

 

きっと俺はこう言いました

 

「えーまじで?むりくない?それはだるい」

 

若しくは

 

「そんな大役?へー余裕。楽しそうじゃん」

 

だったかもしれません。

 

 

 

覚えてないので何とも言えませんが

 

無理をし過ぎました

 

格好つけました

 

ヒーローぶりました

 

結論、

 

ちょっときつすぎます

 

 

諦めて

 

 

還っても宜しいでしょうか?

 

 

 

そう言いたい日なんて

 

これまで沢山あるんだなぁ

 

 

僕を人間なんかでなく

 

宇宙そのものにしてくれたら

 

ホコリの様な星のカケラも一つ残さず

 

みんなを

 

銀河まるごと抱いたのに

 

 

 

でもねぇ あなたは

 

「忘れたのですか?あなたの中に宇宙があるじゃないですか、あなたが宇宙ですよ」

 

とか意味分かんないこと言うから

 

やめてくれよ。

 

 

レベル2なのにレベル80でしかクリア出来ないクエスト用意しないでよ

 

「そんなん余裕やわ」とか足組んで煙草ふかしながら言ってすまんだよ

 

 

死にたくなる

 

でも音楽で吐き出さないと

 

苦しい死に方をしそうで無理だから

 

吐き出さないとなぁ

 

 

無限に音も歌詞も出てくるなう

 

 

なぜ

 

その音と歌詞の中では

 

みんな平等なんでしょうか

 

 

音楽の先人達よ

 

音と歌詞の中にも人々の上下関係を飾って下さい

 

現実世界でそうじゃないのなら

 

僕は「みんなおなじだよ」といくら綺麗に歌えど誰にも聴いて欲しくないです

 

ひとりで己しか知らない孤独に優しくむしゃぶりつきたいです

 

ピアノに

 

歌声に

 

拍手も「すごいね」も「感動した」も何もいりません

 

 

その演奏を聴いても尚、

 

演奏が止まれば僕は頭を下げねばならないのなら

 

死ぬまで一瞬たりとも休符のない曲を奏でようか

 

森の中でピアノと抱き合ってくるまって一緒に死にたい

 

「最期までこいつまじでピアノピアノしか言わなかったとんでもねぇ奴だな」

 

なんて言って笑ってほしい

 

 

しかし一つお願いとして

 

俺の骨をそいつの鍵盤にしてくれ

 

ピアノと1つにしてほしいんだ

 

それが元の状態なんです

 

 

僕の前世はピアノです

 

「音」になれば言葉で人との距離を作らなくてもいいらしい

 

「俺が年上だからもっとシャキッと歌え」

 

そんなことも言われなくってさ

 

 

僕がこの愛するピアノも一つになった時

 

森の中で火を囲んで動物達が集まり

 

大地の底から溢れ出ている様なパワーで火花が散り

 

大地そのものの様な歌と踊りが止まらない

 

 

地球上で最も盛大なお祭りが行われる

 

 

 

 

最後の飯は

 

あらゆるブツを愛してきた

 

自分の手を

 

食べてみたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あいとし

 

 

全ては僕のエゴなのかもしれない

 

全ては僕は僕が可愛いだけなのかもしれない

 

その可愛い僕を守りたいだけなのかもしれない

 

 

僕はこれが愛なんだよ!と

 

自分の笑顔も馴れ馴れしさも

 

肯定したけれど

 

そのせいで

 

不快にさせていたら

 

ごめんなさい

 

本当にごめんなさい

 

 

今はわらえないです

 

声も出ないです

 

 

みんなが僕の歌声を求めるから

 

僕は歌った

 

「声」を褒められたり求められることが増えましたが

 

それならば歌う時だけ声の出せる動物にしてほしかった

 

言語障害になりたかった

 

天性的な障害が良かった

 

 

僕の「声」が誰に何を届ける為なのかも

 

僕がなぜ生まれてきたのかも

 

また問いてる

 

 

あーあ

 

また「海外じゃないとね」

 

とあらゆる人に言われた

 

 

日本に馴染めないくせに

 

生意気に日本でこの性格を突き通そうとして

 

ごめんなさい

 

 

僕は帰りたいです

 

帰らないと

 

救える人もいるが

 

救った人もいるが

 

こうして不快にさせるから

 

今は負けそうです

 

何かに

 

 

まだまだ日本では自分を守れてやれないです

 

ううん

 

正しい表現すら分からない

 

 

僕が笑顔でいたいだなんて

 

知ったこっちゃねぇよな

 

 

それで喜ぶのは母さんだけかな

 

ともだちだけかな

 

 

ちゃんとしないとね

 

 

分かってます

 

 

 

出来ます

 

 

でも

 

 

語れないやもう

 

 

今まで散々言葉にもしてきたしそれが一番の死活問題だからここに書いて生き保ってきたんだし

 

もう書くことないや

 

 

また音楽に逃避するというよりか

 

そうでしか生きられないんだろうね

 

 

自分にも謝りたい

 

 

でも大事にしていいんだよ

 

その一番弱くて強い部分を

 

 

そう僕の僕が言っている気がする

 

 

 

まだ答えないし声ないしだけど

 

 

もしかしたらこのブログ内に答えがあるかな

 

 

つかれたな

 

 

 

 

帰り道を作ってくれない月光を懐かしく眺めて

 

僕が登ろうとしている山。

 

それはとても険しくて誰も登らない山。

 

登ろうとする人はいるものの、歩んでも歩んでも進んでいるかも分からないくらいのでっけぇ山。その自然の偉大さの中に、ぽつりと佇む小さな自分。

 

横を向いても一緒に登る人などいない。上を向いても先行く人もいない。あるのは誰かが登ろうとしてつけた、薄らとした足跡だけ。

 

見えてすらこない頂点は、雲がかかっている。

 

 

 

僕は休み、また歩き始めた。

 

そして初めて後ろを振り返ってみた。

 

 

────僕はずっと「ふもと」にいると思っていた。ふもとから進んでなどいないと思っていたのに。

 

しかし、振り返って目に映る地面は確かに長い斜面で、地上にある家々はアリのようだ。重すぎる荷物に嫌気がさして捨てた物は、たしかあそこの岩陰にある。そういえば、岩だらけの道も抜けてきたんだっけ。

 

ちょうどその岩の手前で下山をした人は多いと聞いた。

 

思い返せばあそこを越えてから一切誰の足跡も無い。それがまた僕を燃え上がらせた。

 

また歩いた。

 

 

 

────僕は休み休み、空を眺めた。

 

誰よりも顎を上げてテッペンを見つめる時間も長かった。

 

足を止めた時は自然に溢れた数々の音や静けさ、それらに重なり一つの色になってみたり、壮大な自然に飲み込まれそうな自分の中にもある音や静けさとも向き合った。それは全く違う様であり、同じ様だった。

 

今、雲がかかっていた僕の上の空は晴れて、テッペンはくっきりはっきりと見える。

 

登れた時の景色は知らないが、登れた時の気持ちにもうなっていた。

 

そこには沢山の人がいた。

 

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????

 

登山をした事がある人や勘の良い人は、この文章で「こいつは作り話だ。」とすぐに分かるだろう。登山は最後の最後まで頂上は見えないのだから。しかも、なんで一人で登ってんのに頂上に“沢山の人”がいんねん。

 

しかしこれが人生の比喩だとしたら。

あるいは夢を目指すことの比喩だとしたら。

 

 

初めは遠くから山を指さして、パパやママに「私あそこに行きたい!」と言ったかもしれない。誰にも言わずにひっそりと「絶対に登ってやる。」と決意したかもしれない。みんなに公言し、頑張れよ!と背中を押されたかもしれない。

 

しかしどんなに人に応援されようと、実際に登れば一人しかいなかった。自分一人だった。

 

そんな孤独と共に、「もう無理かもしれん。」「みんな登ったこともねぇくせに大っ嫌いだ!」「この険しい道すら知らないくせに。」と応援をしてくれた人の事すら嫌に感じる時もあっただろう。

 

「今日まで私は何も進んでなかった。」と、頑張りと比例しない道のりに頭を抱え、自分に腹を立てるシーンもあるだろう。 

 

しかし振り返れば、ちゃんと進んでいた。

 

それは振り返らなければ、分からなかった。

 

それでも、雲がかかって「見えない頂上」を目指すのには強い強い根気が要る。あと3㎞先ですら、頂上が見えないと断念してしまう。そんなのはきっと弱い人間には難しい。

 

つまり、ここで言う「頂上」とは心の中に描く頂上のことで、夢でいえばその「夢」という最も基本的な場所。

 

その山を遠くから眺めていた時。

 

その山はとても美しく見えたり、とても急な斜面には見えなかったりする。しかし実際に登れば、「これが本当にあの美しかった山か?」と疑いたくなる程の険しさ。

 

隣にはロープウェイがある山だってある。みんながワイワイと食事をして夜景を見てルンルンしている山だってある。ワイワイ山を横目に、なんで俺はわざわざこんな山を一人で登っているのだ?と思うこともあっただろう。

 

文章の彼にも、そんな山でみんなと楽しんでいた時もきっとあるだろう。彼が実際に頂上に辿り着いたか?それは分からない。けれどきっと彼は登れたのだ。なぜなら、彼の心にはハッキリ、そしてくっきりと頂上が見えるようになったからである。

 

ぼんやりとしていたモヤが消え、今まで頂上が見えなかったのは自分が見ていなかったからだと気付いたのだ。

 

 

そして彼を知るある人はふもとからこう言った。

 

「あいつにはあんな山は登れねぇよ。どうせ下山する。」

 

しかし、遠くから眺める人間の目に映る山と実際に登った人間の目に映る山とでは、全くもって違う景色だと彼は身をもって知っている。それは「実際に登ってみたら道ないやん!」という山の荒々しさのみに限らず、遠くからは決して見えなかった見たこともない色の鳥の美しさであったり、またそれを“誰かと共有したい”という頭の中で回転する妄想の景色もそうである。

 

ここに、「なんで道がないことに気付いても下山しないんよ?」の答えの一つが在り、もう一つ、きっと彼は遠くからその山を眺めている時も誰よりもその山を美しいと、好きと、目どころか体中ハートマークに溢れさせていたんだろう。

 

したがって、いつかとてつもなく惚れた山が仮に近くで見て荒々しくとも彼には大きな問題ではなく、むしろ心のエンジンを暴走させたのだ。それは惚れた女が案外生意気で落とすのが難しく、更に燃え上がってしまう男性諸君の様でありながら。

 

「あいつにはあんな山しか登れねぇ、どうせ下山する。」

 

 

こう言った人間は無視するに越したことがないが、時にこう言った人間がいるからこそ、そのクタクタの足を前へと踏み出す原動力になったりする。

 

彼らを黙らせられる時間や方法はただ一つ、頂上に着いた時。

 

それまでは毎日の様にグダグダと無責任な複数矢を飛ばされたり、あーだこーだと適当な噂も村人に流されるだろう。

 

しかし、そんな奴らは彼の人生の脇役どころかエキストラでも無い、エンドロールにすら名前が乗っからないアリ達だ(自分の人生の主役にすらなってない)。

 

「あいつらがうざかったから登りました。あんなに矢を放ってくれて感謝してます。」と敢えてお鈴を鳴らし感謝を供え、手を合わせるのも良いだろう。

 

しかし、そこには他人の心を揺さぶる程の力は無いはずだ。

 

だからどうか、雲を外すことだけに集中するのだ。頂点を見つめることは、即ち己の心と向き合うこと。それには時に歩んできた距離や景色を振り返ったり、自然の静けさと一体化したり、自分の中にも自然と同じ偉大さや神秘さや無限さがあることを知ったり、ふもとで待つ最も大事な人の大事さを思い出すことが大事だ。

 

そんな、自己に寄り添い、向き合い、抱きしめ、出来るだけ荷物を減らしたい登山で、山頂に持って行きたい大事な物。それは愛。重たすぎると感じる愛はジャマだから捨てても良い。当たり前だが、一度捨てて進んでしまえば中々戻れない。発見するのも難しい。しかし山頂に登った後の下山中に拾い直してみると、とても愛おしい輝きを見せているかも分からない。

 

「大事にはしたいけど上に行くには荷物だ…」といった場合は、下へ向かってぶん投げるのではなく、何か目印を立ててそっと置いておこう。下山する時にまたそいつの存在が何かを教えてくれるハズだ。もし別の人が拾ってしまっても、大事に置いておけばきっとその人も大事にしてくれる。それが嫌なら埋めて置こう。姿は変われど愛の木としてまた愛おしい姿に身を変えるだろう。

 

愛の「重み」を感じる事も大事だが、きっと本物の愛はバックパックの中には無く、むしろそのバックパックや足取りを軽くしてくれる物だ。

 

 

━━━そして、ようやく山頂に着いた時。

 

どっしりしっかり重たいが、ふもとにいた時にも別の山に登っていた時にも常にあった、山よりも大きく果てしない愛を僕は心にじんわりと熱く感じた。それは汗で濡れた僕の額を強く優しく照らす太陽の様に、いつも昔からそこにあった。

 

下山をする僕の足跡は、僕一人の体重とは思えないくらい、来た時よりもかなり深かった。

 

すれ違う、山を登って行く人にも会った。

 

地上に戻れば、笑顔で山のてっぺんを指差す子供達が居た。

 

 

 

彼は頂上に着き、暖かく照らしてくれる太陽の温かみを大切な人からの愛の様だと感じた。やっと、一人で登っていなかった事に気付いたのだ。

 

そして下山時も横を歩くでもなく、前を行くでもない「自分と一緒に歩いている人」がいる事を登りよりも深い足跡から知るのである。もちろん、登りでも足跡の深さは同じであったのに。

 

残念な事に、頂上に着いても彼を悪く言う人がいるだろう。しかし残念ながらもう彼の耳には聞こえない。

 

悪口を言う村人は彼のことを見ようと双眼鏡を手に必死だったが、彼には裸眼で素晴らしい景色が広がっていた。その景色の中に確かに村人がいても、捨てた双眼鏡を探しに行かなければもう見えなかった。

 

 

彼は無事に下山しても、「自分はただの市井(しせい)の人である」と言うかの様に振る舞い、どんな小さな山に登る人の事も責めなかった。

 

今も数少ないお暇な人間達が彼をあーだこーだ言う中で、彼は愛ある大人や子供にはヒーロー扱いされた。

 

同じようにあの山を登りきってヒーローになりたいとはしゃぐ子供達で村は溢れた。

 

 

山を降りた後の彼の耳には、彼が叫ばなくとも愛の山彦が優しく聞こえている。

 

夢や人に対する強い愛や情熱の声に対するそれらの返答は、その人が登っている山の形状や大きさ、あらゆる物によってズレがある。すぐに返ってくる時もあれば、全く違う物や方向から返ってくることもある。

 

しかし、その反響という見えない振動の線には愛や情熱は詰まっていて、いつかきっと誰かに届くのだ。心の底から声を出せば。また強く鮮明に思い描けば。

 

あなたの声がピンク色であれば、ピンク色の声がどこからか聞こえてくる。

 

あなたの声が真っ黒であるのなら、真っ黒な声があなたを苦しめる。

 

跳ね返ってきた声は自分自身の声かもしれないし、見ず知らずの人からかも分からない。その中で分かる声があったとするのならば、それはあなたが山に登る前のずっと前から1番よく知っている人の声だろう。

 

あなたは何を叫んでいますか、

 

その声は誰かに届いていますか、

 

あなたの声は何色ですか。

 

 

耳の鼓膜ではなく心の鼓膜を開けば、既に微かでも、もう声が返ってきている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(全てフィクションでありノンフィクション、いつかの僕の下書きであり僕の人生図)

 

美しい町に行けば

 

美しい町へ行けば行くほど、“生きる意味 ”とはとてもシンプルであり、この世は要らない情報で踊らされ本質ではない所にお金を使わされていると気付かされる。しかし彼女達は至ってむしろそれを幸せそうに行う。食べ物、飲み物、化粧品、生活用品、あらゆるジャンルで体に悪い物が溢れかえっていると知らず、知ったところで「私はこれでいいの」と人は言う。

 

住む場所を10kmほど変えただけで、働き方も人生の在り方もやりたいことも変わってしまった。それはかつてクロアチアの「ロヴィ二」という最も美しい街にステイした時の、“ここに住んでしまったら表現したい物がなくなる(アーティストでいられなくなる)”といった恐さと同じだった。

 

分かっていたのに、惹かれてここへ来てしまった。

 

 

昔から、有名になることや女優になるという派手やかな世界に生きたい自分と、大事な家族や友達に会える距離のステキな街でただシンプルにのんびりと暮らしたい自分がいる。前者の道を行くには家族と離れる外国に行かなくては行けないだとか、夢の為に何かを捨てるだとか、それくらい出来る行動力さえあるものの、僕の1番の生き軸である「美しさ」からは遠のいてしまう。

 

そう分かっているのなら後者の生き方にピッタリなこの街で農家でバイトしたり、自給自足又は地産地消で毎日のんびり暮らせばいい。しかしそこで起こる問題と言えば、それもまた「美しさ」であった。そんな暮らしが1番美しいと感じるに関わらずそこで許せないのは、それをした時の自分の外見的な美しさ、そして格好良さだ。

 

そう、それならば大工さんになればいい。農業と違って見た目は格好良くなれる、力も使うので美に繋がる。また物理的に美しい建築物と向き合う時間や、昔誰かが築き上げたあらゆる手法や建築の文化にその時は生まれてもいなかった現代の職人達が携る景色、汗、表情すら美しい。

 

僕の理想はこうだ。ファッションやメイク用品では無く、根本的な美に充分にお金をかけられる余裕の収入があること。そして朝早く目覚めて汗水垂らしながら力仕事をすること。農業をやっている人の景色はとても人間らしく美しいが、農業をしている自分より大工になっている自分の方が格好良い。またそこが大事だ。

 

しかし同時に、小さなぶどう畑の横でイタリアンレストランを開き、余ったぶどうの皮で自然派スキンケア商品を作り、レストランでイラストやグッズを売ったり…なんて生き方にも憧れる。けれどきっと、1番のワクワクはその建物を作る時と出来上がった時なんじゃないかという想像もつく。

 

守りたい美と、それを守っている時の自分のストイックさ&格好良さと、救いたい美と、人間的な美しいさまと。それらを考えた時に最もバランスの取れた方法は何だろう。まだ模索中だ。

 

社畜である時と、素敵な街に暮らしてしまった時じゃ、やはり生まれてくる音も違う。きっとまだ少しこわがってこの地の美しさにに住み「込めて」いない僕には自然の中で生まれる壮大でありシンプルすぎる繊細な音はまだ妊娠できないのかもしれない。社畜生活で生まれる反骨心だとか、日本はくそ、会社もくそ、大人はまじくそ、なんて音はそれはそれでパワーがあるが、歌いたいのはそこじゃない。

 

「生まれるものが無くなる」と恐がっていた反骨心も似合わない美しすぎるこの街で、ぼくが“ 何か ”を自然に産めるようになったら。それはそれはとても美しく透き通っていて涙と微笑みが零れるような物かも分からない。この土地の暮らしの様な、たとえば派手な結婚式の一日の美しさではなく、長い人生を遠くから眺めた時の美しさの様な佇まいをした静かであり偉大なもの。

 

それが音楽であるのか家具であるのか建物であるのか、何かで人々がHappyになっていくという小さな街での「景色」かも分かりません。

 

が、簡単に言えば今までは大嫌いであった日本の美しさを全く感じない場所にあえて身を置くことで常に生き苦しさを自分に与え、それを表現の餌としてた。そしてうんこをする様に作品が出来た。だけど今度は、呼吸をする様に生まれる物を産みたい。

 

その為には、長いこと落ち着かない街でストレスをかけてきた、またそれに慣れてさえしまっていた自分の体をゆっくり労り、生きるとはとてもシンプルなことを教えたい。日々の呼吸も太陽のあたたかさも雨の美しさも、人から与えられて抱く「喜び」しか知らなかった僕に既にそこに在るという「悦び」を教えてやろう。

 

いつか子供が生まれた時に教えたいのは派手な成功をする喜びよりも、どんなメディアの情報にも左右されない生きている事の美しさ素晴らしさ、人を幸せにする悦びだからだ(自分が派手に成功しても)。

 

こんなことはイタリアやクロアチアに住んでいればとても簡単でみなが生まれながら知っているように思えるが、日本では意識しないとまだ難しい。でもこの街なら、難しいことじゃない。

 

そんな平和な生活を望む僕の中の広大な土地の真ん中に、なぜ矛盾する様に「夢」と垂れ幕が下がった大きな道が大きく出来てしまったかと言えば、夢を忘れてしまった日本人に夢は叶うことを教える為だとか偉そうに僕は言うだろう。

 

でも、それだからこそ「優芽(ゆめ)」という名前を貰ったのかもしれないね。

 

今、芽が芽生えているのかもボーボーに生えまくっているかも分からないけれど、23年間も生きてやっと自分の氏名(使命)をよくよく見つめてみるよ。花はまだ咲いてません。

 

愛しき短き人生よ、愛で溢れた人生になりますように。美と愛と強さを兼ね備えて。みんなの武器をも溶かしてしまう美しい目を。自分をゆるす優しさを。みなの幸せを祈れる強き合掌を。みなの固く縮こまった心の真っ黒な部分を突き破り黒い血を出させるピカピカの剣を。

 

 

この地へ来させてくれてこの家に、

長いこと彷徨ったピアノの居場所を作ってくれたこの家に、

可愛らしいDIYでこの家を愛していたであろう前の住人に、

この家を作ってくれた職人さん達に、

 

感謝を込めて明日はおそうじをしよう。

 

 

 

 

感受性豊かに生まれてきた俺

 

 

あなたの瞳が美しいように、あなたの心は澄み切って美しい。

 

あなたの魂は純粋です。感受性が高いため、感動は多く そして不安も人一倍強く感じてしまうでしょう。

 

あなたは感受性の強さで不安を大きく経験しますが、あなたはそこから必ず 大きな希望を掴む人です。

 

あなたは不安を味わう作業のなかで、ふと冷静になります。自分が不安に押しつぶされて人生を楽しめない姿を想像すると 感情に飲み込まれている自分を美しくない と思い始めるのです。

 

こんな悲しみに暮れた生き方は 私の人生ではないと そこで気付くのです。

 

この気付きにより 不安は昇華され、天に不安を与えてもらった意味を見つけ、その不安の解消方法を見出し、自分の人生にまた一つ生きる意味をみつけるのです。


不安を味わうたびに 自分の人生への希望を強める人。それがあなたです。


あなたの人生そのものが【負の感情から気付きを得ていく作業】と言っても良いでしょう。

 

作業を成し得た時に味わう喜び・感動・充実感・・・これらはあなたの感受性の強さゆえに掴み取れた成果です。


あなたはどんなに嫌な事があって心揺れても、決して人には醜い姿を見せません。どんなことがあっても不屈の精神で笑顔になるあなたに、周りは驚き、呆れ、感動と安心を得るのです。


あなたが愛らしい瞳をしているのは、あなたがずっとこのような生き方をしてきたから。

 

諦めない人、そして、負の経験から必ず希望を生み出す。あなたのように周りの人もきっと、自分を諦めたくはないはず。あなたのようにマイナスをプラスに転じたい。

 

生きる強さはあなたに与えられた力であり、あなたが何度生まれ変わっても失われない魂の性質。

 

あなたは、残りの人生をかけ、前世と同じように他に希望を与える生き方を選択し続けるでしょう。 

 

下記サイトより

感受性豊かに生まれてきた魂 | Kazumi's Side