東京
なんだかもう、しばらく居る気がする。
大嫌いだった東京の空気は前よりも吸うことに抵抗を感じない。
東京といえど、いろんな街があり、いろんな空の顔があり、雲があり、また人が居た。
僕が「東京なんか日本一嫌いだ」という勢いで東京を嫌っていたのは、僕は東京のごく一部しか知らなかったからだ。
いやそれでも、確かに街が醸し出す空気や雰囲気は、もちろんクロアチアのロヴィ二に比べたら最悪だ。
それでも、こんな街でさえ、とっても目と魂が透き通っていて僕と同じ世界を視界に入れている人間、目的地が同じ旅人、人生の仲間が沢山居た。
彼等は、随分前からそこにいた。
おそらく、東京を毛嫌いしていた時の僕には、出会えなかったであろう人々。人間達。
その街が嫌いかどうかは、確かに街全体の空気や人の表情、生き急いでいるかどうか、街が刻むスピード感で決まる。
確かにこの世界はどうやらどこも同じ1分1秒を刻んでいるらしいが、どうも「時間」という感覚は場所やしている事、一緒に居る人、によって歪んでいるのだ。
俺はゆったりとしていて、又、カレンダーで見るととても早い、そんな時間の流れの生き方をしたい。
とってもシンプルで、横に音楽が居て、坂道と洗濯物があり、人々も野菜もフルーツも生きていて、海や風を感じたと思えば雨に打たれ、光る雷を見て美しいと感じる自分が居る。そんな人生を過ごしたい。
また沢山の人が、僕に会えて「嬉しい」と言った。
僕の作ったご飯を、「美味しい」と言ってくれた。
僕の笑顔を、「素敵だね」と言った。
オーラを褒めてくれた。
ただ、それと同時にまた「目力が恐い」と言う人間が現れる度、僕は悲しくなる。
人間の目は、何を語りたがっているのだろう。
犬のように黒目が大きく動きが無く、もっと表情のない瞳だったら良いんだ。
なんて僕は思いたくない。
なぜだか瞳を怖がられる度に涙が出る。
俺は言葉を失っても、この目を失うことはしたくない。
それくらい、きっと僕の目は「なにか」を訴えているんだと思うからだ。
それは僕の目を怖がったおろかびとに対する「怒り」かと思えば、目の奥は針で刺されたような悲しい顔をしていて、その瞬間生まれた感情を映し出しているかと思えば、「もっと大きな何か」に対する怒り悲しみかもしれない。
「もっと柔らかくなればもっと可愛いのに」
そう言われた僕は、そんな事を言ってくる人間には柔らかい眼差しは送れないだろう。
僕はまだ幼いんだ。
まだ反骨心の様な愛しい気持ちが心に住んでいて、そいつはきっととても寂しがり屋で、怒りたい訳ではなく、一緒に分かち合える同棲相手を探している。
僕の事(よさ)を最初から分からない人は、ずっと分からない。
そいつらに好かれる為に笑ってみたら、俺の瞳の奥と心はちっとも笑えない。そんな奴に、僕の素敵すぎるスマイルは高すぎる。勿体無い。
僕の中の僕は本当はとても素直で可愛くて、誰よりも少年の様にピュアで小さな虫さえ殺せれない様な心の持ち主だ。
人々は言う。
「自分で言うか?」と。
優しいのも、格好良いのも、どれも自分で思ってたって良いじゃないか。
謙遜という作業が大好きな日本人は、「自分で優しいと言う人は優しくない」だとか自分で可愛さを自覚すればナルシストだとか言うけれど、本当は誰よりも自分がそれに気付いてあげるべきで、そう思う生き方はとても素晴らしいのだと思うのだよ。
「優しくなりたい」と思う心はもう優しくて、「愛したい」と思う心はもう愛してるのかもしれない。
実際に相手にとって優しいのか、愛されてると思われているか、それを「優しい」「愛してる」と表記するならばそれは受け手側にしか表せない言葉だ。
「そうしようとしている」という“状態”をひょっとしたら人は動詞で表したのかもしれない。
東京には「何かあったらすぐに言ってね」と言う友達が沢山いて、地元には「帰っておいでね」と僕の帰りを待つ仲間が沢山居る。
またそれが違う国ですらそうだ。
こんなに幸せな事ってあるんだろうか。
こんなに愛される人間などいるのだろうか。
僕は飲み会に行って主役じゃないと嫌な訳ではなく、僕に興味が無い(自分しか興味の無い)人間とはまず合わないから、無駄な表情筋を使いたくないだけだ。
気付けば心に閉じこもった「誰に対しても笑顔な僕」がまた復活するのは、僕が最高に居心地が良いと感じる場所でしかないのだ。
ねむたいから中途半端やけどもう寝よう。
東京の星は意外とキレイだな
by藤原さくら
神の御気持ち
神は人間に何を伝えたかったんだろう。
何を感じて欲しかったんだろう。
何を表現して欲しかったろう。
何を大事にして欲しかったろう。
何だけは辞めて欲しかったろう。
僕には分からねぇんだ。
(って言い方すると途端に厨二病ぽくなるけど続行)
お風呂上がりの美しい小麦色の脚を背景に神を考える。
幸せだけを感じさせたければ、怒りや悲しみの表情や涙はわざわざ備えつけてくれなくても良かったんだぜ。涙が嬉しい時だけに流れる、美しい色の物でも良かったんだぜ。美しい自然を見せたかったんなら、いじわるに目の見えない人なんて創造しないよね?二足でどうしても歩かせたかったら、足のない人間は創造しないよね。
そんな体のそれぞれに対して僕はもうなんとでも書けますよ。
一番分からないのは何故こんなに男と女、とわざわざ身体の違う物を創って、みえない脳ミソの作りまで別にしちゃって、複雑にしたんですか?で、なんで男女が惹かれ合う様に(多くは)創っちゃってるんですか?そんなもん一生理解し合えないじゃないですか。(神の御気持ちというか神への文句になっててゴメンなさいwww)
さぞかし楽しいことが大好きなお神はそんなこんなで案の定大混乱している世界中の男女を見て、酒を片手にしているんでしょうか。
「男はより多くの子孫を残したがる(誰でもいい)」とか、一夫一妻の日本でそれを浮気の理由にされたら、最初から誓なんてしてくれなくて良かったのに。人間が作った一夫一婦制という枠組みに自ら入会しながら、「浮気は本能です」とか都合よすぎない?
今や浮気や不倫で溢れかえってますけど、男女共に切ないですね。神は誰の子でもいいからお互い適当に性行為に及べ、とにかく子孫を増やせ、とおっしゃるのでしょうか?それとも愛し合った者のみでしか子孫を増やしちゃいかんよ、その行為も一人としかダメよ、と言うのでしょうか。確かに、避妊具やピル、なんて物を開発したのも人間。本来、妊娠のリスクがあるから有能な遺伝子を持つ心開いたオスとしか行為を許さなかった慎重なメスが、オスと化した様に遊びまくれるようになってしまって複雑化しているのが現在です。
それにしてもそれにしては、ただでさえ複雑だった人間が、どんどん人間は進化しないまま世の中だけがめくるめくる進化してくので、難しすぎるよ。
生まれ変わったらシンプルな猿になりたい。(頷いてコミュニケーションする頭いい猿。なまえわすれた)
変に本能は残りつつ、男は狩りの生き物だからシングルタスクだ、とか釣った魚には餌やらない、とか言われちゃう女性達。また長生きなんてものも出来るようになってしまったから余計わけわかめ状態なんだ。“人生100年時代”とか謳われる今日に、20代で「あと80年一緒にいましょうね。」なんて誓えねぇよ。40歳くらいが寿命で、20歳くらいで子供を産むのが普通だった方が色んなバランスが分かりやすかったんだ。
こんなに安全で娯楽に溢れまくった世の中で、若い人は恋愛すらしなくなったり異性への関心も消えたり、アニメのキャラで満足したり…。外に出たらマンモスやライオンがいる世の中だったら、男はもっと男で娯楽なんて考える暇なく無意識に子孫残そうと女抱いては狩りに行ってると思うよ。大昔に心理的なEDとかいたのかね?
こんなに性への関心が薄れてく世の中なら、同時に男女の身体の構造も本能的な部分も変わっていけば良いのにね。
神がもし一夫一妻制の地球を前提に人間を造ってたら、「人間は一生で一人の異性しか好きになれません(相手はもう決まってます余り出ません)」とか、優しい創り方をしてくれたかなぁ。それとも「生産性がない」と言われるゲイやレズビアンを創り、「大事なことはそこじゃないよ」とアピールなさりたいのだろうか?
難しくして、あえてその中で学んでよってか。
難しすぎるわ(ガチで)。
愛し合った人との性行為しか快感は得られないようになってる、とか、愛したメスと子作りする時しか男性器は機能しない、とか、男の欲情が愛と結びついてたら…という「if」の世界を考えると愛に満ちたように見えるのになぁ。
なぜメスはそこから愛を感じたりしちゃう様になったんでしょうか?というよりは、お互い愛を感じる行為(愛から始まる行為)で良くない?
愛だよ!と仰る男性もそりゃあ沢山いますが、めんどくさいから例え話は端折るとして、僕が勉強した物によれば女性をある意味で「モノ」(メス)と見るような感情、ある種の攻撃性や征服欲(独占欲)が少なくともないと「ヤりてぇ!」とはならないそうです。ひらがなの「や」を「ヤ」と表記する感覚はここらへんの感覚を表してるように感じる(笑)
※僕は↑の構図を納得して信じている最中なので反論受け付けません(笑)
で、女性は心許した男性からはもっと愛を感じたい。そう思った時にはもう二人の仲は安定していて男は愛してるけどメスとは見れない。…?それって…他の女(今ならAV含め)は性の対象になるってこと?私は…?!みたいなことになるんですね。
世の中ある意味よく出来てます。こんな違いを分かっているからこそ、結婚?無理だろそんなん。やだなーきついなー切ねぇなーerc…と思ってしまう、幸福なのかなんなのか分かりませんが、
基本、そこまで知らずに結婚するのが殆どですよね。ずっと抱かれ続けられていたからといってそれが「愛」だと勘違いしていたマダムは、抱かれなくなったある日、焦って「私ってもう女として終わりなんでしょうか??」てネットに質問したりするんです。何も女としての価値は旦那に抱かれることではなく、ただ旦那には「性欲」があっただけ、それがなくなっただけ。でも男性からしたらこんな当たり前なことも、知識がなければ女性は「自分の魅力」と結びつけて自信を失います。男女共にそれを理解していれば良いんですけどね。(心の浮気等は別としてね)
↓
「女性の性欲がなめられすぎている件」と、「男性の性欲が大事にされすぎている件」 - wezzy|ウェジー
やっぱり、人間を知りたい僕にはそういう類の話は研究者になれるんじゃないかと思うほど無限に勉強出来ますが、知りすぎると「人間めんどくせー!複雑すぎんだよ生まれ変わったら○○になる!!!!泣」と人間辞めたくなったりするので、何も知らずにわーわー泣いて悩んでっていうのが人間らしいのかもしれないですね。
それにしてもこんなことなど学校でも習わなければ「夫婦なんだから分かるでしょ?」くらいのテンションでお互いがお互いの違う当たり前を押し付け合って終いには散っていく…。あまりに悲惨な男女の終末が多すぎて切なくなります、本当に。
そんなレベルの低い人間のイザコザすら神は楽しんでるんでしょうか。それならもう何も言わないです。こうして思い通り遊ばれてます。悩んでます。楽しいですか?お酒すすんでますか?☺️
ただ一つ、結論の出ないこの話の中、友達と話して発見がありました。
僕「俺さぁ、全てに関して完璧主義じゃん?…あ。結婚に対してもそうだった!!!世の中男女の違いも知らないでよくみんな結婚できるよな!!(ありえねぇ!!)とか言ってたけど、全部学んでたらそのうちババァ?かもしくは死んでるよな。てか親だってみんな未熟だったじゃんね。それでも俺らちゃんと育ててんだよ凄いな(尊敬)。」
22歳、バツイチ(?)、悟りました。
そう、結局男女の違いがどうとかなんだとか完璧に勉強しようとした所で、私は女だから男のことは分かりません。結局 本当の意味で「分かり合う」ことはないんだと思ってます。でもだからこそ美しいんじゃね?とまた美の感覚が動いています。
僕の場合は、結局それが「人間的に美しいか否か」で全部決まるんです。自分が人間のくせに、「人間とは〜」なんて学び尽くしてから結婚しようとしたら死ぬのが先でしょう。パパやママはどうですか?決して完璧な家庭じゃありません。でも完璧な家庭なんてないのは当たり前であり、それはそれは美しかったです。ケンカをしても食卓にご飯がある風景。喜怒哀楽すべてが詰まった三角屋根。人間らしかったです。
知識は、他者と生きていく上で知っておいた方が、知っていただけで悩まないことが沢山あるでしょう。でもなんだろうな、男女が全部分かり合ってしまったら、惹かれ合うこともなくなってしまう気がします。良くも悪くも分からないからそこにロマンスがある様に感じてきました。
小学生が「○○くんとけっこんするっ!!」とか言っちゃうような、中学生が「いつか彼との子供がほしいんだ〜」と自然と思っちゃうような、そんなんで良いんだな!
なんて、結論に至った所であります。
なんていうとバカみたいですが、僕にはそれくらいで考えた方が人生しんどくないと思います。というかそんな自然に湧いてくる感情があれば、「男女とは?」なんて思考にならないんだと思います。
おそらく僕が「人間らしい」と感じるメキシコや情熱の国スペインや性を謳歌するフランスにいれば、わざわざ「人間とは?」と疑問を感じずそこにある浮気や別れすら「なんだかいいなー。人間だものな〜」と眺めている気がします。
まあ、日本にいると脳みそがパンクしそうなほど考えちゃうのも僕だから、ここはもう大いに考えてしまおう。結局考え尽くして誰よりもシンプルな答えになっちゃったり、研究者気取りして研究室に篭っていたのに、ある日突然「この人が運命の人だわ!!!」みたいな感じになったりww
一周まわって神は〜とかどうでも良いから楽しもうね、って。
ただそれだけでいい。
マスクするならかっこいいヘルメットがいい
日本はすっかりマスクマンしかいない。飲食店再開などで緩和されつつあるも、「義務化」されている場所は未だ多い。かといって公共の場全てにおいてマスクをする義務がある訳では無い。にも関わらずスーパーに行けばマスクをしていない人は1〜3人。彼らはマスクを持っていないだけかもしれないが、どこか親近感を抱いてしまう。
僕は自他の感染予防の為のマスクはしない。していないと“イヤなやつ”という目で見られ避けられるような場では自己防衛の為もあり(憎悪犯罪から逃れる為)、やむを得ず着用のパフォーマンスをしている。これを日本人が見れば、お前みたいなのがいるから収まらないんだよ!!!と、とびっきりのバッシングを受けることくらいは分かっている。
そもそもモヤモヤしていた理由として、「ほんまにマスク、意味あんのか。」という見えないウイルスの感染経路の真実が謎(目からだの口からだの色んな情報がゴタゴタ)。飛沫感染であるとしたらそれにマスクは“本当に”有効なのか?という疑問。じゃあマスクが有効であったところで私達の使い方は合っているのか?という疑問。「そもそも」コロナは存在しているのか?という誰もが疑わない独り立ちした疑問。
そして、「なぜ誰もこれら疑問を感じずに当たり前に付けている?」という疎外感。
これについては同じような疑問をキレイに言語化されている方がいたので、貼っときます。
「とりあえずマスク」ですっかり安心している日本人への違和感(青山 潤三) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)
😀まぁまぁ、そんなことは言ってやりゃあしない。マスクが意味なかったとしてもする上で自分にも他人にもメリットしかないじゃないか。
なんて僕が何も疑わずに楽観的に大多数に馴染める人間であれば、学校の制服だって校則だってマスクだってちゃんと皆とおんなじ色に染まれたのに。
では何故、あらゆる情報が嘘であろうとデメリットのない「マスクをする」という簡単すぎる行為が僕には息苦しいか?露になったのは昨日の出来事からである。
僕は去年通っていた自動車学校の近くでご飯を食べた。せっかくだから、と大好きな先生方に会いに自動車学校へ行こうとしたら案の定、「マスクの着用お願いします」と書いてあった。その時、ふと、「こんなご時世に“会いに来た”という理由だけで顔を出すのはよろしくないのではないか?」と諦めると同時に不思議になったのである。
なぜなら、僕はマスクを所持していたからだ。会いに行きたけりゃマスクを顔にはめるだけで叶うのである。それにしても何故かこう、浮かんだ思考は「サングラスだったら良いのに。。」だった。
サン…グラス。
別に何も顔を隠す為にマスクをする訳じゃないくらい分かっているのに、「どうせ隠すのならサングラスがいい」というまたもや僕の生き方の中心軸である“美の軸”が揺らいでいたのだ。
そういえば僕は元々、日本の女性がすっぴんならばマスクをしたりすっかりみんなが同じように細工された目だけを出す「マスク美人」たる言葉が存在したり、口元を覆って可愛くなったつもりでいる女性もそれを可愛く思う男性がいることも嫌っていた。
そして僕自身はというと、マスクをしても「芸能人ぽい」と言われたりもするがそういう意味では断然サングラスがしっくりとくる。目が特徴な僕なのに、どうしてなのか。それは僕の感じる美人の定義が顎から首、デコルテが綺麗な人という意識であるのと、単純に顔の半分が隠れているのに違和感を感じるからだ。
「僕が美しいかどうか」の美軸で捉えれば、「マスク美人」になれるのであれば喜んで自動車学校に行っただろう。けれど僕はマスクをしている僕を美しいと思わない。かっこいいと思えない。「ウイルスが蔓延してるんだぞ。」と言われても、ならばマスクの必要性が確かであるのを確認した上で初めてSWATがする様なかっこいいマスクをしたい。
(↓僕の理想形)
(swat様!!!)
(お美しい……、、)
そしてもう一つ重要なポイントが「コミュニケーション」だった。
事務的な人(ロボット人間)と会話する分には僕はマスク大歓迎だ。あってもなくても無表情な機械人間と話すには関係ない。むしろあいつらはこちらがマスクしていることにすら気付かないレベルで顔を見ないだろう。でも、恋人ともマスクでデート。。だなんて、辛いじゃないか。
ということは、だ。理由は簡単。
僕が自動車学校の先生方に会いに行けなかった理由No.1は「口元が隠されたコミュニケーションが嫌だから(みんなのことが好きだから)」 にあった。「マスクしよったら俺の美しさが勿体無いねん。」というのはバカバカしいが、僕にしたら自分の魅力が軽減される洋服を“身につけなくてはならない物”に感じてしまって苦しいのだ。
こんな。。
こんな深層心理にたどり着いてハッとしたのものの、「嗚呼どこまで僕は美じゃないと嫌なんだ…」と苦しさと愛しさが湧いた。
が、
欧米人がマスク嫌いだったのはなぜ? 日本との「美意識」の違い | 大手小町
(※これ超読んでください)
やっぱり、やっぱりこうでした。やっぱり、ここですら僕は海外の人と似ている感覚なんだ…(怯えた顔と流れる汗)
またそこか…と恐くなっている所です。
日本じゃ孤独を感じるように独りでに感じている感覚も、海を渡れば僕みたいな人がむしろ多かったりするから面白いですね、世界。
やはりマスクひとつにしろ、僕が疑問を強く感じる点はその国の「常識」や雰囲気に対してだったりするので、結局その国の文化や歴史まで知る必要があるのです。今回でいえば「なぜ日本人はマスクをする様になったのか?(コロナ前から)」といった所から始まり、そこには医療やウイルスの関与性だけではなく、ファッションやコミュニケーションの取り方まで見えてくるので「深い」の一言です。
それでも当たり前すぎることに子供のように質問をする割には、こんな深く考えていることを瞬時に言語化して伝えることも容易ではないので、どうしても「マスクしたくないんだよね。する意味無くない?」といった軽率でタダのアホが言うような発言になってしまうのがネックです。僕が100考えていることを1どこらか何も考えていない人に「いや、バカなんじゃないの?」と言われて傷つかないもはや自己防衛の為に、ここにまとめる作業が大重要になってくるのです。
皆が「難しい」と感じていることへの考えは皆も同じレベルで聞いてくれるけれど、皆が「当たり前」と感じていることへの考えはあまりにステージが違いすぎて、淘汰されるか変な奴扱いされてしまうのが人間。特に幼い頃から「同調圧力」を深く埋め込められる日本は強いと感じます。
けれど自分自身が自分のことを分かっていないと、伝える前に言語化すら出来ず他人に誤解を招かせるのは当然のこと。
「説明が出来たら本当に解(わか)っている証拠だよ。」
とよく言いますが、自分の深層心理が説明できないことは多々あります。僕の心の声に正しさもなにもありません。“ただ僕がそう感じている”。それが分かりやすく「生きづらい」という感情でぼやっと出てくるので、もっと声を聞いてやりたいです。そしてその心が何を言いたいのか、何を体現したくてこの「生きづらい」という感覚をわざわざ感じさせてくれているのか、きっとそれはもっとスケールのデカいことなのです。
つらつらと長くなりましたが、「マスクするのが嫌ごときで行動が減るのはどうなんだ」と思っていました所、まさにこんな記事がありました。
ドイツ人 マスク嫌いすぎで小売業がピンチ |ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
世界で見れば、仲間達もいるようです。
布マスクやら下着で作られたマスクやら、おしゃれマスクを楽しんでいる人は少なからず似たような美意識があるかと思いますが、僕にはちっとも楽しめないですごめんなさい。(あ、シルバーのマスクがあったらするかも。)
もしも今学生だったら100%学校には行かなかった。ただでさえ皆が同じ服で気持ち悪い中、顔にシールドをして授業?こんな時の不登校の子はきっと色々なことを感じている。でも数十年後には、何が常識か分からない。
🧓🏼「ババが学生の頃はねぇ、炎天下の体育の日でもマスク着用を義務づけられてうちわも禁止だったのよ。」
👧🏻「え〜なにそれ死ぬじゃん!バカみたいな時代!」
と、昭和時代の部活等で水分補給が禁止されていたのが今さら「おかしい」となる時代、僕らも同じように笑われているかもしれないのだ。
↓
【まとめ】
コミュニケーションが理由と書いたけど、やっぱり自分がおじさんだったら構わずマスクできている件
※ちなみにリアルな「これならしたいな」というマスクがありましたので貼っておきます。
追記: あまのじゃくなのでみんながもしマスクをしていなかったら「は?なんでそんな楽観視してんの死にたいの?」と言っている僕が想像つきました。
「美しくなければ生きてる意味なんてない。」
鏡の中の自分に見惚れる日もあれば、自分なんて何も美しくない足りないと嘆き縮こまって消えたくなるときがある。
99%の人が僕の容姿を見れば、まさかそんなことを思っているとは誰も思わないだろうし、女友達からはむしろ「憧れ」的な値にされていたりする。
でもきっと、有名なモデルさんなんかも普遍的な自己愛=太っても(美しくなくなっても)自分を愛せる人って少ないんじゃないかと思う。美しい人ほど、美意識が高い人ほど、「美しくなければ生きてる意味がない」と潜在意識で感じているのだと思う。
その意識の高さが他よりもストイックで結果的に美しい美貌や肉体を手に入れられて、見た目のみならずそのストイックさにみなが尊敬したり憧れたりして真似をする。
勿論、美しい自分は愛せるので納得する範囲に自分がいる場合は自撮りを自慢げにあげたり、傍から見ると「そりゃぁ、あんな美貌だったら幸せだったに違いない」くらいに思われている。けれど実際は、周囲と自分が見る、自分への肯定感のギャップは大きい。
ただの“私は美人”自慢か?と思われても良いが、美人ほど自分の美に対して完璧主義で、美しくない自分には鬼の目で鞭をバッシバシ叩きつけるのだ。果たしてそこに愛はないのだろうか。
僕はよく、「ブスなのにじぶん、可愛いと思っちゃってる人」がやけに羨ましくなる。“自分がああだったら、絶対に外なんて出歩かずに食べもせずに減食して筋トレする(変わるまで誰とも会わない)”と思ってしまう。
けれどこれは今でも自分に対してそう思っている。浮腫などの違いで顔がパッとしない日は誰とも会いたくなかったり、食べすぎてお腹がパンパンになるのを毛嫌いしたり。これまでハッキリとした拒食症になってないのが奇跡くらいだ。
それでもなぜ摂食障害にならなかったかと言えば(多少はなってたろう)、痩せすぎた身体は美しくない、と感じていたからだろう。拒食症になる人の多くはストレス等を抜いて、「めちゃくちゃ細い」ことが美だとメディアや雑誌に洗脳されてしまってただの美の追求だったりする。
魔法で美しい金髪を身に纏うハウルは、魔法をかけられてババァになったソフィーと共に過ごすことで「別の美しさ」を教わる。それは詰まるところ人間的な美しさであり、今まで見た目だけに執着していたハウルがより素朴に美しく見える。
「歳を食えば変わるよ」とエステの店長に言われたけれど、僕は整形魔のように「永遠の若さ」「シワのない目じり」「マイナス10歳!」的美意識は持ち合わせていないので、54歳では48歳くらいに見えるくらいの年相応の美しさを身に付けられたら良いなと思う。歳を食えば表現したい美が、やりやすく思える。
この若い時に理想の美を出すのはなんだか難しくて、おばあちゃんなら赤リップに真っ白なヘアーにカラフルコーデ、とか全身決め込んだコーデもかっこいいけれど、この歳でそれをするから「抜け」が欲しい。
ニューヨークの街を歩くのなら、全身決め込んだ野郎の方がイカしてて良い。でもこのくらいの日本の街を歩くなら、フランスを軽く歩くくらいのラフさが欲しい。フランスはお洒落すぎねぇか、と思うがこの街並みでラフすぎるとかえってダサい。決め込んでもダサい。
こう書いていると普段オシャレを沢山する訳でもないのに、ファッションを「街並み」から考えているんだなぁ、と自分を知る。
僕はどう変わっていくのかな。
でも「美しくなければ生きてる意味なんてない」と感情爆発して家ぐっちゃぐちゃにしておかしくなるハウルもまた、ハウルらしくて良いじゃないか。
ハウルが「おれ、髪型とかどうでもいんよね。」と急に坊主にされてもちょっとそれはそれで悲しいよ。
ハウルが健全で優しいのは、見た目がおばあちゃんになったソフィーに「お前ブスだな、早く魔法解けよ。」とは言わない所だ。
ここに書いた“自己肯定感のない美人達”は決して他人にも美を強要したりブスに冷たくする訳でもなく、ただただ自分に厳しいだけである。それはある意味、自信が無いからこそ出来るんじゃないだろうか。
それとも、もっと意味なき自信が備わっていれば自分より美人を見てもブスを見てもサラリとも気にしないでいられるんだろうか。
きっとそうだろうが、生まれながらにして何の努力もしないで美貌を持ったモデルより、こんな消えてしまいそうな心情から「生きれる為に美しくなってしまったモデル」だったら後者の方がきっと色んな発信が出来るだろうし、共感者も多いだろう。
ブスで勘違い野郎、の自己肯定感が最も最強だと思う。
でもそれは僕の美意識から離れているだけで、またきっとそれは文化的背景にも影響されているから違う国の違う時代に行けばそいつが「絶世の美女」かもしれないのでね。
こんな二重かわいい!文化が定着してんのに、一匹狼の如く群れから離れ一重を貫く女の子を僕は絶賛応援中です。
僕の自信のなさの正体は分かりませんが、ハウルが美しさに執着して実際に美しい金髪だった様に、そのお陰で美しくなっていると思えば決して邪悪な感情でもないのだと思います。
「髪?乾かすのめんどくせーよ」と坊主にする性格なら、あの美しい男性も存在しなかったのです。
そう思うと、こんな自信のなさや高すぎる美意識とも上手く付き合って行けばいいよとりあえず、と思うところです。
「美を捨てろ!」と言われても捨てれるモノじゃないので。
むしろ自分の生き方の全ては美に起因している
人生のめりーごーらんど。
女性の悦び
強がりたい時には全身真っ黒を纏い、上半身は革でかため、強い女になりたい時にはヒールを履きかっかっと音を鳴らして地を蹴りサングラスをする。周りからはジロジロ見られ「めっちゃいい女じゃね?」とか、わざと聞こえるように「かわいぃ〜」と言ってくる若い男には「私にはイヤホンの洋楽しか聞こえないの♪」と無視をしたり、わざと振り向いて悪魔な笑顔を浮かべることもある。そんな強い女を演じた日のナンパは大抵、ホストが営業関係なしに本気で「素敵ですね!」と言ってきたり、自信のなさそうな男のナンパは跳ね除けるのだが、まるでどっかの女優が街を颯爽と足を止めずに歩く様にニコッと手を振ってさよならをする。
ネオンの街は元から好きではないが、男と酒を呑むとかおっさんを落とすとかそういう遊びよりも、こうして街を歩くだけの遊びをしていた。
「遊び」というよりはごっこ遊びに近かった。
冒頭に書いた通り、自分の中のバロメーターでファッションを選ぶのは変わらないので、男の視線を集めようとして良い女を装う訳でもなく、単に内から湧き出る欲求を外に表してみただけである。
ただそれで目線やナンパを弄ぶように颯爽と歩くのも事実で、それが面倒くさい日はジャージやスウェットで中学生の男子になりきったりした。
よく仕事が作業着の女性や、職場で女を体感できるような服装じゃない女性は、休日に妙に色気が垂れてるような格好や、反動で無性に女の格好をしたくなる。まるでそこでバランスを取るかのように。
女はいつどうやって自分が女だということを実感するのであろう。
それは男に見られたいとかそういう心理ではなく、自分の中で女を実感したいが為の行動に思える。
作業着の仕事をしていながら、「私って素敵な女だわ♡」と思うことは出来ないのだろうか。
女にはやはりファッションやメイクの楽しみがあり、それらは自ら女性であることの悦びを体感するものなのだろうか。
世に男がいなくても、それは変わりないのだろうか。
男の視線を考えたファッションやメイクもありふれていて気持ち悪い、とは思うがそうじゃない女性も沢山いる。
けれども、女性だけの世界でも、更には自分しかいない世界でも、女性はファッションやメイクを女として生きる悦びにするのだろうか?
ふと疑問が湧いた。