BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

帰省

 

2月24日。

 

約4ヶ月住んだ福岡の街を後にした。

 

 

いつもなら飛行機で窓側の席をとって

雲から頭が出るくらいまで上がったところで

涙を流しているおかしな乗客だけれど

 

今日は一切泣かなかった。

 

その前に泣き果てていた(笑)

 

むしろ目のカピカピとの戦いだった。

 

 

 

 

ひとりで何も知らない土地に

「ホーム」を作るのはそう簡単じゃない。

 

「帰る場所」=ホーム

 

それがあるのとないのでは、安堵感は天と地。

 

 

それはとても簡単なことで

難しいこと。

 

とても難しいようで

簡単なこと。

 

 

バスで横に座った人が

「今度またこの国に来るならうちこいよ!」といったり

 

公園でアコーディオンを奏でていたら

「最高だ!ホテルに唯でとまっていいよ」といわれたり

 

一度すれ違っただけでフィーリングがあって同棲することだって。

 

 

 

 

 

 

 

「ホーム」とは「人」であり

自分がどこへ行っても

自分が笑っていても

自分が泣いていても

いつだって一定の体温で

「待って居るよ」と腕を広げてくれている

 

毎度連絡することがなくたって

何の近状も連絡していなくたって

時に「一人にして」とワガママなときだって

 

マックで集る高校生のように

どうなのどうなの?と無駄に踏み込んで来ることはない

 

 

ヤケドするほどあったかいのに

抱きしめてくれる手はなまぬるい

 

 

 

 

せっかくホームができたのに

 

この時代だから

 

連絡先を無くしただけで、

携帯が壊れたというだけで、

 

その国にホームがひゅっと消えてなくなることもある。

 

 

こんな時代だから

 

ホームを作るのはそう難しくもない

 

 

こんな時代だから

 

やっと作ったホームもどうなくなるかわからない

 

 

 

ただ携帯の有無に関わらず

 

連絡先がなくなっても安心してホームと呼べる場所

 

 

それは自分の中にひとつ、ふたつ、みっつ、

 

 

 

それはきっとレンガの家よりつよく

 

 

見た目はわらの家みたいなもんなんだろう

 

 

 

 

「一人」になってようやく気付く。

 

あんなに行きたくなかった「学校」も

当たり前のように通っていた「幼稚園」も「バイト」も

“組織に所属する”といった、

人脈を作る上でこの上なく簡単な方法だったこと。

 

それも一気に何十人、何百人、と。

 

 

 

それから自分が、

「ただの人間」であるということ。

 

 

高価でお洒落な洋服を身につけたモデルも

どれだけそれがインスタ映えしていても

裸になれば皆、ただの人間だということ。

 

 

今、自分がこの地でちかっぱ有名になったところで

スロベニアに行けば誰一人知らずに素通りするであろうし

 

オリンピックが各地で盛り上がっている今も

どこかの国は今日も戦争で盛り上がっている。

 

オリンピックで騒ぐ人の中には

世界中が今それに夢中だと思っている人もいたりする。

 

羽生結弦があれだけ素晴らしい演技をしても

全く情報が入ってこない人達もこの世界には沢山いる。

 

生死で争っている子供達が沢山いる。

 

だからといって

「氷の上滑ってる場合じゃないよ」という人はそういない。

 

 

同じ国内で震災や紛争が起きたときでは

「同じ日本人なのに何もしないの?!」という人もいれば

「自分は自分のことで精一杯だ」「他県のことは知らない」

色んなタイプに分かれてくる。

 

人々の「家族」の意識はどこで生まれ、

どこまでの範囲の人を腕に収めるのだろう。

その抱きしめる腕の長さはどこで決まるのだろう。

 

 

 

 

 

 

なんというか、

 

 

 

ちいさい。

 

 

 

 

自分が知っている、

と、“思っている”「世界」は。

 

 

 

 

そんなことを思うと

若い時は「有名になりたい!」という勢いがあったのに

 

それはただの自己愛の反映であり

今は目的はそこで終わりではなく、

 

有名になる⇨影響力を持つ

⇨より多くの人に自分の思考や論理を伝えられる

 

といった、「有名になる」というのが単なる手段であったことに気付く。

 

 

けれども「有名になりたい」というのも

必要な過程、感情であるから

それに備わる自己愛も備え付けてくれたのだろう。

 

あらゆる芸術面の才能や、

体に合わない環境に身を置くとすぐに体調を崩す、

そんな頭の良い身体も。

 

 そうでなければ体調を崩さないので

やりたくない仕事や環境に身を置いていたかもしれない。

 

 

 

 

 

自分はこれから様々なジャルで名前を出していく。

 

すべて「芸術」といえば共通点はそうだけれど

「バラバラなことをやっている」といえばそうとも言える。

 

ピアノをやる!といっていたのにアコーディオンに転向していたり、

モデルになる!と夢見たくせして今じゃ冷めていたり

歌を歌う!とちょっとギターを鳴らしたり

 

けれど結局、「やりたいこと」「思い」の本質は

どれも同じなのだ。

 

つまりは、

やはりどれも、

 

「手段」にすぎないということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の飛行機では、

 

隣のおばあさんが飴を4つくれた。

 

 

 

 

それがすごく美味しかった。

 

 

 

少ししか喋っていないけれど、

 

顔も覚えていないけれど、

 

品格のある女性はオーラがちがう。

 

 

きっとあの人は席が余っていたら

ビジネスクラスに誘導される人だろう。

 

 

ありがとう、おばさん。

 

 

おばさんのような人になる日まで。

 

 

 

 

今からできることは沢山ある。

 

 

 

先ずは目の前にある、

ちーずけーきを頬ばろう。 

 

 

ママのことば

 

究極に波が下がりきっていたとき

 

毎日家に篭って

 

何もする気も起こらず、

 

死にそうだったとき。

 

 

 

「帰ってきたら?と言おうとしてたんだよ」

 

と電話の向こうの声がした。

 

 

もう20年もの間、いちばん聞き慣れた声で。

 

 

 

今日、夢でみた。

 

 

 

 

「ママ」とは、

 

普通の人間よりも3倍ほど長く太い腕でいて

 

それでいて指も全部が同じ太さでやわらかく

 

到底まね出来そうにない、

 

お相撲さんのようなからだをしてる。

 

 

 

そしていつも微笑んで居て

 

腕全体で包み込むように子を抱きしめる。

 

 

 

生まれてからずっと

 

その腕の中であたためられて

 

 

 

やっと目線がママの胸のあたりになったころ

 

ママはさりげなく

 

子のからだに巻きつけていた腕をそっと放していく。

 

 

 

子はそれに気づかないでいて

 

ずっと変わらずあったかさを感じてる。

 

 

 

けれどいつか

 

ふとした時、

 

巻かれていた腕がないことに気づく。

 

 

それでもなぜかあったかいことも。

 

 

 

 

そしてまた

 

 

ママは子の背中にそっと手をまわし

 

子を自分の胸へと優しく誘導する。

 

 

 

 

そのときに

 

今までよりも一層

 

腕があったかいことに子は涙をする。

 

 

 

 

あたたかさは何も変わっていなのに。

 

 

今日

 

今死ぬのなら、

 

いったい何人の人にありがとうを

 

何人の人にごめんねを

 

何人の人にハグを

 

何人の人にナイフを

 

 

 

わかんない。

 

 

 

じゃあ

 

その全てをせずに

 

 

後悔してしまうのなら

 

 

 

一体今日は

 

どれだけ車を走らせればいいんだろう

 

 

飛行機に乗って

 

ハンガリーにいる友達にハグをして

 

それが終わったら

 

列車でドイツに行って

 

またハグをして

 

クロアチアに行って

 

ありがとうを告げて

 

と、

 

トルコにも行かないといけない

 

 

 

あーだけど

 

死ぬのにはクロアチアがいいなぁ

 

なんて思ってたらまた

 

バスでもどらなくてはいけなくって

 

 

とかんがえたら

 

まだこれが終わるまで

 

死ねやしないなぁ

 

なんて

 

 

してるあいだに

 

まただいすきな人間たちにきっと

 

出会ってしまって

 

 

またハグをするためにもどったり

 

行ったり来たり

 

きらいになったり

 

 

してるあいだに

 

また変な出会いがあってしまって

 

 

 

そうしてるうちに

 

きっと自然に心臓が果てるまで

 

死にゃあせんなー

 

 

なんて

 

 

 

 

本当に死んでみたら

 

そんなことしなくたって

 

大好きな人とあえてしまったり

 

 

わかんないや

 

 

 

 

 

 

 

終わり

 

先のことは一切考えずに

 

「今」だけを生きること

 

それを誰よりも

 

自由に楽しく実践しているように

 

思われてて

 

 

自分でもそのつもりで

 

 

 

だけれど

 

実は

 

誰よりも終わりを意識していて

 

 

それはもちろん

 

自分の死であったり

 

友達や家族の死であったり

 

 

 

申し訳ないことに

 

自分のイメージの中では

 

何人もの愛する人たちを

 

一度はころしたことがある

 

 

 

それくらい

 

誰がいつ死んでもいいくらい

 

自分に

 

そして他人に

 

常に素直でありたいということ

 

 

 

と思う日々の中、

 

 

時に終わりがあることへの

 

寂しさ、多くは切なさで

 

つぶれてしまいそうな時もある 

 

 

 

 

だからこそ今を“意識的”に

 

楽しもうと努力する

 

 

 

 

 

お笑い番組

 

何となく見てるようであって

 

 

そこには

 

「笑おう」「笑いたい」

 

という思いがある

 

 

 

それとおんなじく

 

「楽しもう」「笑おう」

 

という思いで

 

自分の人生のチャンネルを

 

自分で選んでいる

 

 

 

けれどもお笑い番組だけじゃあ

 

飽きてしまうから

 

自ら「泣こう」なんて思って

 

ドキュメンタリー番組に切り替えたりする

 

 

 

時には疲れて

 

放送休止で何も映らなくたっていい

 

 

 

ただ大事なのは

 

自分で選ぶということ

 

 

ただなんとなく

 

テレビをつけっぱなし

 

にはしないということ

 

 

 

 

 

でも自分の場合

 

 

日本にいる分にはやっぱり

 

いくらリモコンをいじくったって

 

「お笑い」「コメディ」

 

のチャンネルにはぴったり合わない

 

 

 

数年後にニコニコと

 

日本で暮らしている自分が

 

いるかどうかは誰も分からないが

 

 

“今の自分”にはどうも、出来ない。

 

 

 

自分の人生というテレビの前に

 

なんらかの障害物があるのか

 

リモコンの調子が悪いのか

 

それは分からない

 

 

 

 

でもひとつだけ確かなことがある

 

 

 

あの大好きなクロアチア

 

その他自分の好きな外国に行けば

 

リモコンを持たずとも

 

自動でチャンネルが切り替わる

 

 

いつも笑っていて

 

いつもハッピーな

 

 

 

 

それも知ってしまっている

 

 

 

 

だから

 

いくら自分の握りしめたリモコン次第で

 

テレビに映し出す映像を切り替えられる

 

といっても

 

 

リモコンを握る自分が

 

狂っていたら意味がない

 

 

だから

 

自分をどこに配置するかは

 

とてつもなく重要なこと

 

 

 

 

やはり自分には

 

 

海、港、路地裏、英語、クロワッサン、

 

カラフルな市場、スーパー、果物、

 

楽器の弾ける場所、おじちゃんおばちゃん、

 

 

これらは必要不可欠であり、

 

「人間くさい所」でないと

 

いつか死んでしまう

 

 

 

 

広すぎるこの世界

 

どこに行っても

 

同じ景色が広がればいいのに

 

 

 

そしたら

 

「ここにはない景色」を求めて

 

今ここにいる人たちと

 

お別れする必要などないのに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近はすこし疲れてる

 

 

 

誰に点数を付けられる訳でもない

 

真っ白なテスト用紙に

 

自分で問を書いては

 

ずっとその問とにらめっこしてる

 

 

 

この地球に生まれた意味は?

 

人が愛し合う意味は?

 

罪の意識はどこから?

 

なぜキレイに人を愛せない?

 

 

 

 

まだそのテスト用紙には

 

自分の名前しか

 

書けていないけれど

 

 

 

 

その愛しい問たちは

 

自分のしわしわになった右手が

 

ペンを持てなくなる時までずっと在る

 

 

 

どうか

 

 

 

最後の呼吸が終わる前には

 

何かひとつでも

 

解答欄の空白が埋まってると

 

いいな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

成人の日

 

今日は成人式。

もちろん、いつもと変わらない。

 

ジムに行く気分でもなく。

 

本屋に行く気分でもない。

 

気取ったカフェでもない。

 

 

とりあえず、外に出た。

 

 

 

雨。

 

 

マクドナルドに入り、

ホットコーヒーのSサイズ。

 

バッグの中のノートと本を出す。

 

本の名は「シンプルリスト」。

 

 

本に従い、自分についてのリストで

ノートを埋め尽くす。

 

 

 

今日、成人式に出てる大半の人に比べれば、

 

したいことや嫌いなこと、

居心地を感じる瞬間や場所、

嫌いな話題、付き合いたくない人、

自分に似合ったメイク、その他本当に細かいこと

 

「自分」のことはよく知っていると思う。

 

 

それでもやるべきことしたいことは

常に変わり続ける上に

案外自分では分かりきれていないもので

 

だから常にノートに書き出す。

 

 

 

飲み切れないコーヒーを片手にお店を後にし

慣れた景色を歩いていたら、

 

ロン毛のイカしたおじさんが

前から過ぎ去った。

 

 

 

いわゆる、

「ホームレス」なんだけど。

 

なんだかアイヌ人のようで

その独特の雰囲気がロックで格好良く見えた。

 

 

過ぎ去ったアイヌ人の彼を見ようと

後ろを振り返ると、自動販売機の横。

 

に置いてある数本の缶を手に取り

空を確認し、彼はまた歩き始めた。

 

 

 

心がザワザワした。

 

 

というか、居ても立っても居られなくなった。

 

 

 

何に対してもやる気の起きない

モヤモヤした今日だったはずが、

一瞬にして「やるべきこと」で

心の隅々まで充満して溢れかえっていた。

 

 

映画の中のヒロインが急に雨の中走り出すみたいに

他人にはよく分からないのだけど

明らかに本人の中では何か確信したようだった。

 

 

 

「ちょうどいい。このコーヒーあげよう。」

 

 

右手に持たされている冷めたコーヒーに

一瞬意識がいく。

 

が数秒留まり、やめる。

 

 

 

気がつけば、

彼が先ほど漁った缶が立ち並んだ横。

 

赤い自動販売機の

「あったかい」ゾーンが視界を支配している。

 

 

そこに綺麗に配置された

コーヒー達としばらく見つめ合う。

 

 

しかし、彼が漁っていた缶はジュースだった。

 

 

 

コーヒーは飲めるだろうか?

 

 

ブラックか?甘めか?

 

 

いや量が多い500mlの方がいいか?

 

 

 

 

考えていればいるほど

 

彼はどんどん遠ざかって行く。

 

 

そしてまた道端に置かれた缶を

一つ一つ優しい手つきでそっと浮かせては

そっと元の場所に置いている。

 

 

 

ここは微糖だ!

 

 

 

ものの一、二分だったんだろうが

脳みそはとんでもない数の回転をしていただろう。

 

 

この寒い雨の日に、何本の缶を手にしたら

「誰かの飲み残し」に出会えるか。

 

終わりの分からない長い歩道の途中に

「知らない誰か」から渡されるコーヒー。

 

それが甘く優しさを感じるものがいいのか、

苦く深く染みるブラックがいいのか。

 

はたまた、その両方を備えた微糖がいいのか。

 

 

 

そんな苦悩の末に選ばれた、 

左手が持つ買ったばかりのコーヒーは

 

右手に持っていた自分のコーヒーと

打って変わって暖かかった。

 

 

さっきまでピアノジャズを聴きながら

ゆっくりと歩いていた足は急に目的を見出し

地面を蹴るように歩き出す。

 

 

 

後ろから現れたらこわいよな?

 

 

と、ここでも「名前も知らない彼」のことを想う。

 

 

 

そして彼の背後についたところで、

コーヒーを右手に差し替えひゅっと突き出した。

 

 

 

すぐに彼は気づき、

 

「ありがとう!!!」と言った。

 

 

彼が何回ありがとうと言ったかは

あまり覚えていない。

 

 

少しくさかったのは

きっと彼の匂いではなく

目の前の怪しいガラクタ屋の匂いだろう。

 

 

なぜこんなにも衝動が底から湧き上がったのかは

自分でさえ分からないが

 

その時の自分にはそれだけしか

選択肢は見えていなかった。

 

 

すぐに蓋を開けてコーヒーを喉に流し込む彼。

 

 

それを見終えたころ、

 

ロウソクの火がふっと誰かに消されたように

やっと心が落ち着きを戻し、

 

さっきとは違う「何か」でまた

心が隅々まで充満されたのに気付いたので

お別れをした。

 

 

 

今思い出したら、

 

「またね。」と言った自分がいた。

 

 

 

そしたらすっかり

自分の中の曇りは晴れていて、

体は気持ちの良い雨に沢山打たれていた。

 

 

 

その後、

無性に「君の名は。」の主題歌が聴きたくなり

雨に紛れて泣いていた。

 

 

何でもなかった一日が

彼のお陰で意味の持てる一日になったこと

 

彼は知らない。

 

 

 

 

そして彼がホームレスかどうかなのかも

自分が決めつけたただのレッテルである。

 

 

ロン毛でジャンパーを何枚も羽織り

缶を漁っている人間が

すべてホームレスだとは限らない。

 

ひょっとしたら

 

豪華なマンションに帰る途中だったのかも

真実は分からない。

 

 

 

 

 

 

そんな今日。

 

 

 

 

ポイ捨てやゴミを道端に置くことは

どんな時だろうとしないのだけれど

 

 

今日だけそっと

 

まだ入っている“アイスコーヒー”を

赤い自動販売機の横に、置いてきた。