BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

バリ島行きます

 

もし、言葉が一番大切なのだとしたら

 

言語の異なる人間など創らなくてよかった

 

 

 

もし、肌の色が一番大切なのだとしたら

 

肌の色の違う人間など創らなくてよかった

 

 

 

もし、容姿が一番大切なのだとしたら

 

ブサイクな人間など創らなくてよかった

 

世の中全員、美男美女でよかった

 

 

 

そもそも

 

「ブサイクな人間」なんてのは存在していなく

 

 

 

犬が可愛いのも

 

赤ん坊が可愛いのも

 

カラスが怖いのも

 

ゲジゲジが気持ち悪いのも

 

また雨の日を天気が悪いというのも

 

 

 

そこには「事実」がただ存るだけで

 

それをあーだこーだ価値付けしているのは

 

人間だということ

 

 

 

 

日本ではついこの間まで

 

切れ長の一重まぶたが美しさであったのに

 

今は二重まぶたブームがきていて

 

みな必死でまぶたをいじっている

 

 

 

もう少ししたらきっとまた

 

一重まぶたが美しい

 

そんな時代がやってくるんだろう

 

 

 

 

時代が流れても

 

流行があっても

 

自分の中で不変の「美しさ」の基準は大事にしたい

 

 

 

 

 

話はもどり

 

 

 

こんなにも言語や容姿、文化の異なる人間を

 

この世界に放り込んだのは

 

“ゆるす”ということを

 

思い出すためなのだと思う

 

 

 

また世界が広いことを知って

 

自分がちっぽけなことを知るために

 

わざわざこんなに地球を大きくしたんだと

 

 

RADWIMPSの洋次郎の言葉を借りれば

 

誰かがはじっこで泣かないように

 

地球を丸くしたんだと

 

 

 

 

でなければ

 

 

 

地球は一直線の大地で

 

太陽も月も

 

みんなが同じ時間に

 

見上げることができる

 

 

それでよかったんだろう

 

 

 太陽や月

 

そして宇宙の存在を

 

認めざるを得ないように

 

 

自分は宇宙のたった一部でしかない

 

それを思い出すためのように

 

 

外国に行けば時間が違うように出来ている

 

朝と夜が繰り返すように出来ている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで

 

 

自分みたいな人間が日本にいたら

 

日本では「言葉」が重要視されてしまうから

 

「言葉」を巧みに使えない自分にとっては

 

本当に生きにくい

 

 

 

というか

 

上手く、使い「たくない」

 

 

 

 

言葉で人と人の間に線を引いたり

 

上と下の関係をつくったり

 

自分と自分の心の間にも線を引いたり

 

 

 

いつどんなときも

 

「人」と「人」で対話したい自分には

 

息が吸えないほど苦しくて仕方がない

 

 

 

 

ドイツにいた頃

 

共通の言語がないトルコ人

 

2ヶ月も一緒にストレスなく住めたのは

 

 

自分が言葉ではないところで

 

コミュニケーションを取る動物だから

 

 

 

 

じゃあなんで

 

日本語をたらたらと並べたブログを書いてるのかといえば

 

 

 

「文章」に関しては

 

やはり日本語は繊細で多彩な表現ができるから

 

より言葉と心との距離が近くなる

 

 

 

相手との呼吸も気にせず

 

自分の心理感情をこの世に生み出せる

 

 

 

 

曲を作ったり

 

絵を描く作業とおんなじような

 

 

 

そんなような

 

 

 

 

かといって

 

 

日本でも言葉が重要視されなくとも

 

生きていける(愛されちゃう)

 

 

そんな空間は自分で作っていけると

 

信じていればそこは在るので

 

 

 

今日本にいる間はそんなことだけを

 

意識して生きていようと

 

 

 

 

 

 

 

していた時、

 

トルコ人のカメラマンのお友達がまた仕事でバリ島に行っているみたいで、「5月までバリ島おるから一緒に仕事しよや!カメラ持ってる?いつくんの?はやくこいよ!I miss you!」とやたら急かされるので、2月末くらいに行こうかなぁ、と。

 

期間は1ヶ月くらいかな。

 

 

やたら海に惹かれてる今、この話。

 

 

 

 

そしてBOOKOFFに行って直感で本を選んだら、

 

この本。

 

f:id:jigsawww23:20180106181356j:plain

 

 

 

少し前にカフェでたまたま読んだ本の人とおなじ人。

 

 

 

そしてこの二冊も同じ著者だったことは

 

あとで知った。

 

 

 

 

 

バリ。

 

 

 

 

 

行くしか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死んだじいちゃん

 

8月20日。じいちゃんが死んだ。

9年くらい前の話になる。

 

雨の日。

 

小学6年生の自分は学校が終わったあと、友達と仲良く下校した。「ウチ(家)で遊ぶ」という幼き自分達にとっては珍しい行事を予定していた日だった。家へ帰ると、傘を被った母さんがいた。そこにいる意味は、傘にはなかった。傘を被っているはずのママの顔が、なぜ濡れているのか不思議だった。

 

「今日ウチで遊んでいーいっ?」

 

無邪気にそう言う子供らしい子供に母親は、「ダメ。家では遊べない」とまるで他の全ての言葉を忘れてしまったかのように、その台詞だけを頑固に言い張った。いつもとは違う母さんの気配に、何があったのかを友達の前で聞くのは無礼だと子供ながらに気を遣って取った言動だった。

 

よく分からないまま友達にバイバイを済ませ家に入ると、静かな雨音と母さんの泣き声だけが吹き抜けに響いた。いつもと同じ自分の部屋の、いつもと同じベッドの上。それなのに何故か家に安堵感はない。窓を見たら激しい雨が家を叩いていた。

 

 何度このベッドの上で母親と泣いただろう。

 

母の拙い喋りに依れば、「じいちゃんが死んだ」とのことだった。

それも自殺らしい。当然、理解はできなかった。

 

死んだことさえ脳の処理が追いついていないのに、ましてやその手段が自殺だなんて。映画やドラマの世界、でもあまり見たことがない。それも小学生の自分には未知の世界だった。頭の中には卑猥なことに「(具体的に)どうやって死ぬんだろう?」が浮かんだ。

 

 

––––「なぜ自ら死を選んだのか?」

 

こんなにもそこに疑問を抱くのは、昨日まで元気に笑っていたからだ。どこをどう探しても、自殺をする理由が見当たらない。

 

後から聞けば、「自分(子供)のいない場面では自殺を仄めかす言葉も吐いていた」とのこと。それでもまさか本気で死ぬとは誰一人も思ってもいなかった。「死んだ方がマシ」という軽視できない言葉を「そんなはずがない」と本気にしなかった大人達が憎たらしかった。自分が知っていれば、手を握って、ゆっくり話を聞いて、手紙を書いて、ハグをしたのに。自分の前ではいつもギャグを言って笑わせてくていたじいちゃんもまた、にくかった。

 

けれどそれと比にならないほど憎かったのは、たった一人、自分である。

 

じいちゃんは孫であるまだ小さい自分とチューをするのが好きだった。自分もじいちゃんが大好きだった。膝の上に乗ったり、キャッキャキャッキャと甘えていた。そうしたら本当に幸せそうにじいちゃんが笑うのも知っていた。チューはその中のひとつだった。でも、もうすぐ中学生。次第に恥かしがっては、甘えることもなくなっていた。あの日じいちゃん家に遊びに行った日も、周りの目を気にしてチューをしなかった。捨てられた猫のような、寂しそうなじいちゃんの顔は今でも忘れない。

 

 

ひいばあちゃん、ひいじいちゃんの仏壇の前。

体温を失くしたじいちゃんが眠っていた。

 

「大好きなじいちゃん」のはずなのに、ひんやりと冷めきったじいちゃんを怖がった。霊になって、今も同じ場所にいるんじゃないかと怖かった。「チューをしよう」と親戚の群れる一部屋でこっそりと決意したにも関わらず、ビクビクしながら頬に手を伸ばすのが精一杯だった。

 

 

鈴が鳴り、両手を合わせて目を瞑る。

 

 

 

「じいちゃんごめんなさい」

 

「死んだ体を怖がってごめんなさい」

 

「チューをしなくてごめんなさい」

 

「夢の中でチューしようね」

 

 

 

たったこれだけ、胸の中でそっと言った。

 

 

 

 

 

そして、その日の夜。

 

返事のない約束通り、夢の中でチューをした。

孫を抱きしめる手はいつの日よりも暖かかった。

 

じいちゃんは申し訳なさそうに「ゆめごめんなぁ」と言い、

抱き合って見える筈のないその表情は何とも言えなかった。

  

 

幸せだった。

 

 

 

 

 それから月日が経ち、中学校に入り部活が始まり、二年生、三年生と上がるうちに学校に正常に行けなくなってしまっていた。登校をしても屋上やトイレに身を隠したり保健室で泣き尽くしたと思えば下校、ひどい時は授業中も机の下に体を丸めて涙を流していた。いわゆる「鬱病」だったのだが、「死にたい」と本気で思った日もその勇気が死を越えることはなかった。

 

そんな時も、夢の中でじいちゃんに助けられた。

 

合唱コンクールの前日。

いつも隠れていた屋上に入る一歩手前の階段の踊り場で、「がんばって」とじいちゃんが言ってくれたお陰で翌日は学校に行くことが出来た。他にも何度か夢の中で助けられ、夢でなくてもこの頃は意識で会話が出来ている気がするようになっていた。

 

 

 

自らの手で死んでしまったじいちゃんを、「許さない」ということは選択肢としてなかった。純粋に“知りたい”が積もっただけだった。死に様がどうであれ、たとえば車にひかれたのか殺されたのか、大好きな人の最期の瞬間を見たい若しくは見たくない、けれど知りたい、と思う人間は冷血なのか。それとも、愛なのか。

 

生まれた瞬間さえ見たことがないのに、「死ぬ瞬間が見たい」という一見残酷な心理は、二十歳の自分にはどちらも同じことのように感じる。けれど、どこかの国のようにハッピーでカラフルなお墓を作る気のない死に対する念が黒い日本では、少し余所余所しい感じがする。

 

 

 

 

 

大好きなじいちゃんが“死んだ”と知ったとき、

大好きなじいちゃんが“生きていた”ことを知った。

  

 

「なぜ自殺したのか」

 

そんなのはここに書くつもりはない。

 

 

 

人が死んだとき、本当にその人が死んだのか、

そもそもこの世に生きていたのか、

その命は幻だったのかと思うことがある。

 

しばらく経って「天国に居るんかな?」と思ったり、

未だ幻だったのかと思うときもある。

 

 

寂しいのは、歳をとったじいちゃんの姿を

知らないということ。

 

 

今でも、回数は減ったものの、夢の中で出会う。

 

けれどそこに映るじいちゃんも、

ふと空を見上げて思うじいちゃんも、

自分が小学6年生の時のじいちゃん。

 

こちらは20歳の姿になっているのに、

じいちゃんの時は止まっている。

 

 

今じいちゃんが歳をとってどんな顔をしているのか、

シワが何本増えて、歯は何本減ったのか、

白髪が何本増えたのか、

今現在見ることはできない。

 

 

たったそれだけが、寂しい。

 

 

 

 

 

自分がこのクソみたいに自由な生き方になった理由の一つを答えるのならば、必ずじいちゃんの死を語る。

 

「死」という言葉、存在が今までで1番身近にあった中学生の鬱病時代、もしかしたらじいちゃんが自殺という形で死、そして生を教えてくれなければ今自分が此処に在るかどうかは分からない。少なくともこの生き方をしている自分はいない。

 

何故ならあの日、死という得体の知れない物体に小指一本、

いや片手でいざ掴みそうになった瞬間、

 

「…あれ??今、どうせ死ぬんだったら、、さ?」

 

 

と突然、悟りを開いてしまったからである。

 

 

それが今の、「好きなことしてりゃいいじゃん」主義に繋がってしまったのは今日までちょっぴり内緒である。とは言え、長いこと「好きなこと」「ワクワクすること」「したいこと」を忘れてしまった錆びた心を裸にし、また再びその裸体を磨き上げるのはとても容易ではない。今も、そして死ぬまで、“如何に心に服を着させずに可愛がってあげられるか”。それ自体もゲーム感覚で楽しんでしまおう、というのがこの人生のお役目。

 

 

 

大好きな人が死という手段を使って教えてくれたことを、次は自分が生きた姿でそれを伝える、又はその謳歌する姿こそが誰かの心を癒すのならば、今日も自分は好きなことをする。

 

 

 

ワクワクして生きてる人間を、人は応援したいから。

みんながワクワクだけで生きる世界は、もう少し先かな。

 

 

 

(追記2月21日)それから、多くの人間が試みようとも決して手を伸ばすことのできない「死」を自ら掴んだじいちゃんに、実は心のどこかで「格好良い」と尊敬の念も同時に抱いているということはきっと、誰にも理解されないであろうし、そこには「誤解」という言葉しか似合わないだろう。そこに道徳観念は存在しない。

 

 

www.youtube.com

戻らない昨日たち 本当にね ありがとね さびしいなあ
まだ見ぬ明日たち 今いくね よろしくね 嬉しいなあ

叶わない願いたち 本当にね ごめんね いつかきっと
叶えられた想いたち ありがとうね これからも ずっとともに

小さな鼓動 震えるたび 思うのは 僕があなたを守るから

今僕が生きているということは 今僕が幸せだということ
今僕が笑ってないとしても 今僕が生きている それだけで
幸せだということ

出会えない命たち 君の分も 僕はきっと がんばるよ
交わしたこの約束たち 離さないよ 忘れないよ 約束しよう

いつかこの 世の誰もが言えるのかな「僕はもう何も 望みはしないから」
小サな夢を次カら次に 描いては捨てていくのは 本当はもうこれ以上何もいらないから

今僕が生きているということは 今僕が幸せだということ
今僕の目に涙浮かんでても 今僕が生きている それだけで
幸せだということ

溢れる命たち 生きている 僕がいる 嬉しいなあ
消えていった命たち いつかはね 僕も逝くね その日まで

今僕が生きているということは 今僕が幸せだということ

今僕が生きているということは 今僕が幸せだということ
今僕が笑ってないとしても 今僕が生きている それだけで 幸せだということ
生きているそれだけで 幸せだということ

 

 

 

 

あいとわ

 

色んな人と出会い、付き合い、別れ、

 

恋人だけではなく全ての人と。

 

 

ふと、愛ってなんだ?

 

 

という疑問は誰かを愛している瞬間でさえ常に居座っている。

 

いつもは姿を現していないだけで、

空を見上げたり、星や月を眺めたり、

人と抱きしめ合った時、急に姿を見せたりする。

 

自分の中では決して消えることはない。

 

 

地球という一つの星に

人々が勝手に線を引き

「国境」という境目をつけ、

 

 

人間という一杯の血液を

人々が勝手に別々のコップに移し

「家族」という仲間わけをする。

 

 

人間でしかない人間に、

「友達」「恋人」「既婚者」「前夫」

 

勝手に名前をつけては

自らが決めた名前に沿って

感情をコントロールする。

 

「まだ好きだけど友達に戻ろう」

「本当はあなたが好きだけど結婚しているからダメね」

 

これらの言葉には自分は違和感を覚える。

 

 

“好き”というお互いの感情が生まれ、

手を繋ぐ。

 

とても自然なこと。

 

 

この自然な流れに沿って生まれた“関係性”を

後から名前をつけて呼ぶのであればいいが、

 

 

自然に生まれ出た感情を

「自分は結婚しているから」と、

「相手には恋人がいるから」と、

感情そのものを否定し、理性で固定し、

 

自分で「関係性」に名前をつけてしまう。

 

感情にも「浮ついた感情」「一時の誤り」なんて

自分の心に何とも失礼な名前をつける。

(本当にその場合もある)

 

 

確かに日本の法律上、

一人を愛することが善とされているが、

 

 

もっと広大な視界で見てみれば

 

「離婚して“今好きな人”と一緒に暮らす」ことも、

「関係上は妻がいるけど本当は違う女性が好き」

と感情を受け入れることも、

 

自分の心に従って生きる選択肢はありふれてある。

 

 

 

「恋人になったら嫉妬してしまう」

「友達に戻れば独占欲は生まれない」

「だから別れよう」

 

こういう人がいる。

 

 

果たして「関係性」に名付けをしたら

本当にその名前で呼ぶことができるんだろうか。

 

もしも名付けた名前の通りに愛せてしまうのなら、

名付けた名前の通り「にしか」愛せないのなら、

 

自分はあまり愛されたくない。

 

 

 

自分でコントロール(理性)した「関係性」の変化とともに、

好きという感情もコントロール(理性)できてしまうものなら

 

 

自分はあまり愛されたくない。

 

 

 

 

 

 

みんなが家族であればいいのに。

 

 

と思うがそれはそれで気持ち悪いのかな。

 

 

 

 

この話は書き出すときりがない。

 

 

youtu.be

 

原発が吹き飛ぼうとも 少年が自爆しようとも

その横で僕ら愛を語り合う

 

もうすぐ滅ぶというのに 明日は晴れるというから

それじゃ「まぁいいか」と目覚ましをかける

 

そんな僕らの日々

 

 

僕の 愛とは 向こうが透けて見えそうな

それは なんとも 頼りない姿で

 

仕方 なしに 赤い衣をまとい

愛の 意味の ぎりぎり端っこを

 

行ったり来たりで所在なさげに

恐る恐るあたりを見るのです

 

銃声が鳴り響こうとも 少女が泣き叫ぼうとも

その横で僕ら愛を誓い合う

 

もうすぐ滅ぶというのに せっかくの金曜日と

それなら「まぁいいか」と指を絡めあう

そんな僕らの愛

 

それでも信じていいかな

嘘と間違いを乗り継ぐ僕ら

 

それでも笑っていいかな 僕の何かで君が

笑ってくれたときは

 

君の 涙を いっぱいにためたその

笑顔は 何故に それほど美しい

 

身の丈 を遥かに 超える痛みの波

を浴びて それでもなお 笑うからでしょ

 

原発が吹き飛ぼうとも 少年が自爆しようとも

その横で僕ら愛を語り合う

 

もうすぐ滅ぶというなら なおさら強く握るよ

明日は晴れるというなら お気に入りの服で出かけよう

 

冗談みたいな悲劇 絆創膏だらけのメモリー

ありえない顔で明日はこちらを見るけどそれでも僕ら 手を握ろう

 

次の息を吸い込もう

 

原発が吹き飛ぼうとも 少年が自爆しようとも

その横で僕ら愛を語り合う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ケーキと猫

 

夜行性の自分にぴったりな喫茶店を見つけてしまった。

 

店員さんは女性一人。

 

猫が二匹いる。

 

流れているのは静かなクラシック曲。

 

コーヒーはブレンドのみ。ティーは色んな国のものが揃ってる。

 

 

 

猫は何も言わず、挨拶もせず、

 

それが自然であるように膝の上に乗っかってくる。

 

 

可愛がっていると、

 

ふと膝下を離れ自分の世界に入り込み、

 

その時間はもう寄ってこない。

 

 

こちらから手を伸ばそうとも、やめろと言わんばかりに拒否をする。

 

 

かと思えばまた、

 

何事もなかったかのよう甘えてくる。

 

 

 

そしてまたサラッと姿を消したり、

 

テーブルの上で寝ていたりする。

 

 

 

これはもはや猫の話ではない。

 

 

自分だ。

 

 

 

 

 

 

人間が同じことをしたらどうだろう。

 

 

 

嫌われることなど考えず、自由に行動を選択する。

 

人に甘えたいときは甘え、一人になりたい時は一人に没頭する。

 

一人の時間を阻害するものは愛想もつかさず振り払う。

 

しまいにはテーブルの上に乗っかって寝る。

 

 

 

 

こんな人間(自分)がいたら、

 

おそらく猫のように愛されないだろう。

 

 

 

それでも自分は猫のように生きる。

 

 

というか、「ように」という比喩が似合わないほどに

自分は人間よりも遥かに猫に近い生物だと思う。

 

 

 

そして猫は、

 

「それでも愛される」ことを知っている。

 

 

 

テーブルに乗っかることだって、

 

猫の世界には「行儀が悪い」なんて言葉は存在しないのだ。

 

 

 

ただ見た目上、自分は人間の身体を持って生まれているので

 

猫のように多数の人間に愛されるのは難しい。

 

 

それでも愛してくれる人がいる。

 

 

 

 

コミュニケーション手段を含め、

 

猫と居るのは世界観が同じで気が楽だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

猫が座るテーブルの横には、

 

食べ荒らしたケーキの下に敷かれていたアルミホイルと小さいフォーク。

 

 

 

 

全てオーナーさんの手作りの、

 

ケーキ屋さんを開けるほどの優れたケーキ達。

 

 

の中から選んだパンプキンケーキ。

 

 

 

 

最高に美味しかった。

 

 

 

それが「人生」や「出会い」「恋愛」に感じた。

 

 

 

 

ガラス越しに並ぶケーキはどうみても美味しい。

 

そして実際に食べても、美味しい。

 

 

 

 

 

「美味しい」ということを知っておいて

 

どうしてわざわざ食べるのか?

 

 

 

 

ケーキをオーダーしてしまえば、

 

それを口に運んでしまえば、

 

その“美味しさ(快楽)”は永遠ではない。

 

 

 

「美味しさ」と同時にそれに“終わり”があることも知っている。

 

 

 それを知っていて「一時の美味しさ(快楽)」を楽しむ人間。

 

それをお金を払って手に入れる人間。

 

 

 

 

 

 

 

至って切ない。

 

 

 

 

 

 

でも理由は一つ。

 

 

 

 

 

それを“感じる”という行為こそ、

 

しっかり“感じる”という行為こそ、

 

 人間がこの星に生まれてすることなんだろう。

 

 

 

 

 

 

でも人間は可愛いことに、

 

 

 

 

ケーキは素直に楽しめて、

 

恋愛は「別れが来るのが怖い」なんていう。

 

 

 

 

 

初めから終わりがあることは知っているのに、

 

ケーキとの別れは惜しまず、「手にする(買う)」ことが出来る。

 

 

 

 

「終わり」それが恋人との関係上の別れなのか、

 

死なのか、それは分からない。

 

 

 

 

 

それでも、

 

其れらを怖がって

 

 

「手にしない(ケーキでいえば買わない」

 

という選択をすることは、

 

 

 

 

それこそ最も切なく最も不幸なことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな変態的なことを

 

ケーキひとつから考えている自分は、

 

明らかに猫ではなく人間だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご馳走様。

 

 

 

 

f:id:jigsawww23:20171222215558j:plain

 

 

 

初めてビールを美味しく感じた日

 

12月13日。

記念すべき1日となった。

 

今、自分はほぼニートである。

 

だがしかし旅を終えた自分は、

「どうにでもなる」はたまた、

「思った通りになる」ことを知ってしまっている。

 

それはどんな状況であろうと。

 

 

だから収入源がなくなろうとも、怖くない。

 

不安がない。

 

生きているから。

 

たとえ借金をしたとしても、

ハッピーな毎日を過ごす人でありたい。

 

「問題」だと思えばなんでも問題になるし

「困っていない」と思えばなんだって困っていない。

 

 

でも人間だもの、少し前は、

「働かないと」思考になることもあった。

 

今はちっともやる気でないくせに、

「福岡 カメラマン 求人」や、

「福岡 バイト 単発」なんて調べてた。

 

本当はやりたくないくせに。

 

 

この一般的には〝やばい〟状況で、

「働かない」選択をすることは簡単ではない。

 

こわくて、こわくて、

 

不安で仕方なくて、

 

本当はやりたくもない仕事をはじめてしまう。

 

 

でも今回は「本当はしたくないこと」を“一切しない”

すると何が起きるか試してみることにした。

 

 

そしたら寝てばかりだった自分が今日、

珍しく一人で外に出る気になったので

「今日はハッピーバースデー。」と言って外に出た。

 

とことん自分の魂を喜ばせる日にしようと家を出た。

 

 

 

まずはずっと行きたかったネイルサロン。

 

両手ワンカラーでたったの2480円。

 

 

この2480円を払うのにとても勇気が必要だった。

 

これをすることによって、

「あ〜自分なにしてんやろニートやのに」

 

とか一ミリでも感じてしまうようなら

それはやめた方がいいけど、

 

 

結果、

 

とてつもなくハッピーやった♡

 

 

担当のお姉さんとごっつ仲良くなったら、

次行く予定だった近くのデパートまで送ってくれて。

 

 

自分のアコーディオンやら海外の話をしたら、

 

「絶対テレビ出ますね!」

「しかもあたしのお客さんってテレビ出る人多いんです」と。

 

 

 

そしてデパートではずっと欲しかったMACの化粧品を購入。

 

シャネルだのディオールだかなんだか、

ブランド店の並ぶデパートの化粧品の階なんて…

 

とか全く思わず、堂々とスニーカーで入る。

 

決して気取らず、かといって似合わない格好はせず。

 

「どの商品がいいか相談したい」ていうのもあるけど、

ネットやその辺の薬局で買うのと何が1番違うかって、

 

接客。しっかり人から買う、という行為。

 

またまた店員さんと仲良くなり、いいパワーをもらいました。

 

 

 

 

 

そして次は今日の最後に、日焼けサロンに行こう。

 

とまたMACのお姉さんが入り口の外まで送ってくれる。

 

 

 

 

サロンに着く3分前。

 

 

ポケットに手を突っ込むと、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ない。

 

 

 

 

 

 

 

財布がない。

 

 

 

 

 …ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

またしても、やりました。

恒例の、“財布失くし”。

 

 

 

焦りはあったものの、

「日本だろ、あるだろ」

 

と、こういう時だけ突如現れる日本への信頼感w

 

 

 

 

 

「お金ないくせに使ってんじゃねーよ!!」

 

っていう天の声かとも思いましたが、

 

 

「いや、これは試されている。」

「この状況でどう上機嫌でいられるかだ。」

 

とゲーム感覚に陥った自分はどうにか思考をイジくりました。

 

 

 

結果、交番に行くと誰もおらず。

 

「不在なのでこちらにおかけください」の

指示に従って交番から電話をかけたところ、

 

「…あ、警察署に届いてます。」とのこと。

 

 

さっき受け取りました♩

 

 

 

 

 

受け取るまで自分が何したかというと。

 

もちろん、最初は歩き回りました。

 

 

 

でもないことがわかりすぐに「明らめ」ると、

交番に行くしか方法はないので交番へ。

 

 

その際、

 

財布をなくしたのにも関わらず、

バッグに残っていた小銭入れの存在を頼りに

コンビニで大好物のクロワッサンとシュークリームを買い、

 

「これは自分に何をわからせたくておこったんだろう?」

 

と少し考えた後、

「よかった〜あったわー!お祝いのシュークリームや!」

 

なんてもう財布が見つかった気持ちでシュークリームを頬張っていた。

 

 

ただの変人。

 

 

 

 

この時、一人じゃなかったら、

「は?何やってんの??そんなん食ってる暇じゃないから。」

 

と冷静にマイナスな言葉や力をもらって見つからなかったでしょう。

 

 

 

そんでこの記事のタイトルはなんじゃ、というと。

 

 

その後日焼けサロンはキャンセルして、

不動産の人にもらった「銭湯無料券」を使い、

露天風呂で今日一日とこれからの人生を瞑想。

 

それプラス銭湯で使える

「ドリンク一杯無料券」を使い(これももらったやつ)、

いつもならメロンソーダのところ、

 

珍しくビールにしました。

 

 

ノンアルコール。

 

ですけど、ね。

 

 

 

 

アルコールの有無はどうでもよくて、

 

このビールの味を美味しいと思う、というか

「体が求めた」のは割と初めてな感じ。

 

 

おめでとう、自分。

 

そしてお疲れ様。

 

 

 

 

 

 

明日からまた何が起きるんやろ。

 

 

警察曰く、

「財布を拾ってくれた人は女性で、

名前を言わずにパッと帰った」らしい。

 

 

 

なんそのカッコよさ、自分じゃね??

 

 

 

と思ったけど今回は落とした方だった。

 

 

 

 

 

財布を拾われる喜びを存分に味わったので、

今後どんなに自分にお金がない状況でお財布を拾ったとしても

嬉しい気持ちで警察に届けるだろう。

 

 

 

戻ってきてくれてありがとうよ、

ペラッペラな財布よ。

 

 

 

 

 

 

 

乾杯。

 

 

f:id:jigsawww23:20171214014519j:plain