BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

寝ても覚めても、いやむしろ寝ないで料理したい。

 は嘘で、どっぷり一日中、仕込みや長時間何かを煮込んで出汁を取ったり、合間に料理本を読んだり、大好きなステンレスと「作業」の空間と音だけに囲まれたい。それだけで疲れ果てて一日を終え、ベッドにダイブしたい。誰かに食べてもらうのは翌日でも良い。(出来たてで)

 

少し前まではBGMとして音楽が必須だったけれど、今は「曲を流す時間が待てない」くらいにさっさと調理台や料理本に食いついている。洗い物は誰かやってください♡

 

そんな今でも音楽を意識的にかけるとしたら、バレンタインのお菓子だったり、大切な誰かにあげるプレゼントの場合だ。「音楽を聴かせたコーヒー豆は味が違う」なんて話もあるように、それを受け取る人の好きな曲を食材に聴かせたりする。

 

 

朝方、5時。

 

自分が料理を好きだなんて知っていたけれど、経験や知識が無い状態では恥ずかしくて言えなく、ようやく堂々と「趣味は料理です」と言えるようになった今。「はっ!」とする様に気付いてしまって眠れない。

 

‘趣味’ や ‘好き’ を通り越して、

料理への熱意や愛は「変態的だ」と。

 

 

先日バレンタインがあり、2週間前から前々日まで、「まじいらないよなほんと気持ち悪いもういらなくね」と100回くらい嘆いていたのにも関わらず、前日になると目の前は本屋さんのお菓子作りコーナー。「家でできる!」とか「オーブンで簡単!」みたいなのには一切触れずに、家で再現出来んのかも分からないどこかのケーキ屋のお洒落すぎた本を買う。

 

操られたかのように菓子材専門店に行き、操られたかのように厨房(家のキッチン)に向かう。ケーキの土台は勿論、中の層やクリーム、全部で5つくらいパーツを作る。しかも生地を寝かせるやら凍らせるやら、まるで自分の子を妊娠してるかの如くどこまでも愛情と手間がいる。

 

ばちっばちに恋してる恋多き乙女達に「これを好きな人に作ってください」といってもおそらく2割くらいしか残らない気がする。それくらい大変だった。

 

結果は綺麗に出来たけれど、生地を寝かせている間に夢でもケーキを作っている自分がいた。料理は多少のミスは後からどうにでもリメイク出来るけれど、お菓子作りは半分が算数だと思うくらい、数字の正確さの勝負だ。

 

そして今日まで、また風邪をひいたのに(多分ケーキ頑張りすぎてw)またすぐにキッチンに立って包丁を握りたくなっている自分をぼんやり見つめていると、この忙しいバレンタインを思い出し…。

 

 

「…あ。小学生の頃から、“子供っぽい”、“手作りくさい”チョコレートはう〇こだと思って、高級感あるお店みたいなチョコを作ってたな」

 

「あの頃から母の“これでいいしょ!”には耳も傾けずに完璧にこだわってたな」

 

 

と、あの頃から既にそうだったことを今知った。

 

絵が好きピアノが好き運動が好きとか他のことはよく知っていたけれど、料理は「凝り性」という方が幼い頃は強く出て、そりゃ知識も経験もないし幼い子がスピーディに出来るはずがないのだが、僕の性格からして「凝る」=「大好きじゃないと出来ない」ということを気付いてあげたかったなぁ。

 

ただ、今こうして自分の家で自分好みのキッチンで調理が出来るというのは最高に幸せだ。

 

一時期副業になりそうだった似顔絵やイラストが「好きな人じゃないと描けない」と分かったように、ひょっとしたら料理も「見知らぬ人にはここまで凝れない」と思うかもしれない。僕の料理がどこへ、誰へ向かうかは分からない。今は目の前にいる大好きな人へ(自分を含め)、同時にその食材や死んだ生き物達への為にある。

 

次から次へと、僕の料理で感動してくれる人がいる。

 

ピアノと料理の「好き」を比べることは出来ないけれど、僕のイメージではピアノは「この曲は絶対弾けない!」と思っても時間を費やせば必ず弾ける努力の鏡のような存在。というのは今回のお菓子作りにも言える。

 

ピアノと料理に言えることはそれを弾けた(作れた)からと言って終わりではなく、20回30回と弾けば弾くほど味が変わったり安定したり、「ここにはこれが合うかも?」と自分の感覚を混ぜて自分の曲(レシピ)が出来る所だ。例えるならば楽譜通りの正確さが求められるクラシックがお菓子作りで、知識や基盤がしっかりある上で柔軟な発想で遊ぶジャズが料理。(知識のあるパティシエは遊べると思うけど)

 

僕の好きなことは結局同じだなと思うのは、料理好きなら当たり前だがお皿や本当なら食べる空間までデザインしたい。それはピアノでも同じで、一人で黙々と練習してきた物を人様に差し出す時は、その物が最も美しく在れる姿が良いと思うので、自分に似合わなかったり絵的に美しくないストリートピアノはあまり弾きたくないのだ。

 

どれも似ている。

 

「料理好き」といって驚く人はもう飽きた。こうやって見たら、全部同じことだ。だから僕は「料理好き」と言っても納得してくれる人が好き。単にギャップとして扱われるのは良いけれど、料理出来る?とか料理=家庭的とか意味わかんない風習はやく消えて欲しい。

 

優秀なピアニストにしたら、ピアノの世界が何より奥深いと言いそうだが、僕にしたら料理の方が終わりも正解もなく、それは食材1つにしてもそうだし、蒸し方、焼き方、盛り方、そして国や文化、お皿、空間。知識にも作り方にも食べ方にも果てがない。

 

一緒に食べる人だって大事だし、死んだばあちゃんが作ってくれた煮物だとか、母の味、ピアノと違って生まれながらにして万人の生活に“入っている”ものだから色んな色がある。また一つ一つ産地なんて見たら感謝しきって食い始まらない。

 

毎度の食事をすんばらしくしなくても良いし、僕だってピアノに夢中な時は食べなくてもいい。ジャンクフードを食べたい時もある。けれど「一食」にお金や愛や時間をかけられることは、またそれを愛する人と分け合えることはどんなに美しいだろうと想像する。

 

人間の胃袋の大きさは何故このくらいになったんだろう。なぜ食べ過ぎると太り、太ると醜いと思うのだろう。

 

そうでなければ果てしない食欲に、果てしない植物や動物の命が連鎖しまくる世界だったかもしれないが、まぁ一日に1回でもテーブルに並ぶくらいの量を丁度いいとするこの胃袋のサイズでありがとう、と思いたい。制限があるからこそ工夫をしてより美味しく、美しくしたり、食べるまでの景色を大切にしたいと思うのだ。

 

まぁ、日本人の多くは食べ過ぎだと思うけど。一日一食の人ですら、数えきれない日数を生きるのに「毎日好きな物食べて良いですよ♡」って、神様優しすぎね?て思う。

 

そしたらこの地球という大地で生まれ育った植物だったり動物だったり、○○さんが作った○○だったり、国産国産と謳いすぎずにたまには日本の反対側「オーストラリア産」を愛してみたり、とか。地球に生まれたのを楽しもうぜごっこをしたい。

 

結果、料理ってまじ素晴らしい。

 

かかるのは食費と時間だけで、同じ材料を使ってもそれぞれの食べ物達の「活き方」や「最大限の魅力の出し方」(個性)を知ってあげていれば、みなが最高級に魅力的になって裸、またはレタスのドレスにくるまって決めちゃったりする豪華なパーティーだ。

 

みんなの衣装替えの時間はたしかに「手間」であるが、それを“めんどくさい”という意味で手間と呼ぶのは僕の中の料理に対する手間の意味とは真逆の位置にある。

 

なんでこんな変態的になってしまったのかよく分からないけれど、僕にしたら「料理を好きにならない方がどうかしてる」ってくらい(笑)、生きる喜び、生きさせてもらってる喜び、一緒に食べられる人のいる喜び、として、当たり前のことに感じてしまっている。

 

沢山の食材の「在り方」の知識をたくわえながら愛でるように料理をする人や、テーブルに出てきたお皿一つからありとあらゆる奥深さを感じられる感性のある知識人、狭い食卓と厨房から深い美を感じざるを得ない食美人を僕は「知性のある」と表現します。

 

好きなことをまた一つ思い出せて良かったです。大好きだ。