BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

ものもらい

 

目に麦粒腫がポツ、ポツとふたつできた。

 

夜中に異物感が凄く起き、瞬きが痛くて涙が出たが、こうなって初めて“目”という機能を通して自分がこの世界を“見る”という作業が出来ていることを知る。

 

もしも目が見えなくなれば、僕が行きたがっていたまだ行ったことのない様々な景色は見れない。それでも僕はそこに行くだろうか。

 

僕は目で感じたいのだろうか。

 

五感のうち視覚が人間の感覚のほとんどを占めているのだから、

 

「外国の匂いを感じるために」とか「外人の身体に触れてみたいんだ」とか、視覚以外の理由で人がどこかに行きたがる人は少ない気がする。

 

「死ぬまでに見てみたい」

 

という理由がとても大きい気がする。

 

 

目が見えなくなり、耳でもっと世界を体感せざるを得なくなれば、もっと音楽を聴いたり、街を歩くだけでも今まで聞こえなかった様々な音たちが真っ暗な視界に広がるのだきっと。

 

 

ものもらいは麻酔をして潰してもらったが、もしこれがもっと酷い病気で今日失明なんてしたら、今までの人生、どれだけ視覚を雑に使っていたか分かるのだ。

 

もっと見たかったものがある。

もっと大事に見つめていたかったものがある。

うざかったあの瞬間のあの人の顔でさえ、もっと脳が記憶してしまうくらい凝視してやるべきだった。

 

なんていうように。

 

 

目でこの世のキレイな部分も嫌な部分も見れてしまうからこそ、僕は色んなことを無駄に考えてしまうが、目の見えない人が今日目が見えるようになったってこの世のキレイな部分だけを切り取って見ることは出来ないのだ。

 

それでも、自分が妊婦になれば街の妊婦が増えたように感じるように、自分がピアノ弾きであれば「ピアノ」という文字に過剰に反応するように、視界に映っていてもそれを心で“感じる“という作業も、“感じない”という作業も出来るのが人間だ。感じないということは「見ていない」と同じだ。

 

 

24時間の一日で、たった2時間しか目を開けられる生き物ではなかったとしたら。

 

たった2時間しか耳が聞こえなかったら。

 

たった5言までしか話せなかったら。

 

僕らは何を選ぶだろう。

 

少なくとも嫌いな人間の顔も声も感じたくはないし、大事な5言は大事な人と愛や冗談を交わす為に使いたい。

 

1mmにも満たないプツプツからこれだけのことを考える。