BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

家を失くした少女

 

家にかえると、ぼくのものはすっかり、いやほとんどなかった。

 

ぼくは泣いてしまった。

 

洗面所のコップも、ふとんも。

 

ぼくは悲しかった。

 

もう引っ越しているし別になにもおかしいことではないけれど。

 

ほっとするために家にかえってきたのに、僕は悲しさとストレスで泣いてしまった。

 

僕は僕の身体に本当にワガママなのだ。

 

他に誰も先に入っていないお風呂と、ココナッツのお線香、スピーカーから流すジャズピアノ、広いベッド、ぬいぐるみ、バスローブ。

 

もしも長い旅行の帰りにその時間と空間を奪われて、つまり「いってきます」をした拠点となる愛しの場所に「ただいま」を言えなくなってしまったら。

 

僕はただただ、悲しくなる。

 

津波で家を失くした人の前で、こんなことが辛いと言えるかといったら、僕は言える。

 

物理的に家というものがなくなる辛さも、思い出のある家に見知らぬ誰かが住むことも、家はあるのに家族がいなくなることも、其々別の辛さなのだ。

 

僕は実家を失うことになるが、それは、僕に、実家があったということ。

 

実家があったということは、家族がいたということ。家族は今でも僕の中にいる。

 

最初から家族すら、いないものもいる。

 

そんな世界で、おぎゃあとへその緒から離れた瞬間に街の大人達みんなが家族のように抱きしめてくれたらどんなに平和なんだろうと思う。

 

大人になってから家、や家族を失ったものにも、辺りの人間みんなが手を広げてくれたら。

 

家とは、「あなたはそれでいいんだよ」と言ってくれる人や場所である。

 

みんなが、みんなに、そう言えればいいのに。

 

みんなが、じぶんに、そう言ってあげられれば淋しくないのに。

 

外人が友達のことをブラザー、とかファミリー、と呼ぶ感覚が僕の中には荒々しくどっしりと座っているから、僕は時に悲しくなる。「困ってるんだから、助けるのが当たり前でしょ??」という家族の間に流れる温かさと同じ空気を持つ友人関係を、日本ではあまり感じない。

 

僕はいちいちハグを交わしたいし、キスだって挨拶のように愛情表現でしたい。

 

なんの話か分からなくなった。

 

ぼくは強くなる。

 

 

 

 

 

 

ぼくが雪だとするならば

 

今日しぬのなら

あんなにうざかった大雪もぜんぶ

雪粒ひとつひとつが愛おしくなるんだろう

 

革の手袋を脱いで

こどものように手の温もりで

そっと雪を溶かすんだろう

 

雪玉を作って誰かにぶつけたい心理よりも

初めて雪をさわったあの日のように

ただ触れて味わいたいと思うんだろう

 

 

雪がとけて

うざかった雪かきとのお別れを喜ぶ者

 

雪かきしかやることがなくなっていた者には

ぽっかりと時間と空白

 

 

誰もがはしゃいだはずだ

 

小さい時から雪が嫌いだった子はあまり聞かない

 

 

日本では毎年毎年雪が地に降りてくれるけれど

姿形を変えていないのにも関わらず

 

なんにもしてないのに

 

ただ降っているだけなのに

 

自分の意思と関わらず寒くて積もったり

暑くなって溶けて消えてしまったり

 

なのに

 

空から舞い降りた瞬間から

自分の誕生を飛び跳ねて喜んでくれる者と

 

重い溜息をついてカーテンを閉める者がいる

 

 

なんて可哀想なのだとおもう

 

 

ぼくが雪だとするなら

 

毎年毎年空から降りることはしたくない

 

 

みんなから好かれる程度に

何十年かに一度のレア感を抱かせるように

 

いくら空から地上から降れ、降れと言われたって

僕はたまにしか姿を見せない愛され者でいたい

 

 

だけど毎年毎年

 

僕を大喜びしてくれる人たちのために

それは雪の降らない国の人のためにも

子供のためにも大人のためにも

 

ただ僕で大喜びをしてくれる人

 

それだけのために

 

僕は来年の冬も空から舞い落ちるだろう

 

 

僕は「こう使ってね」などと一切声を発せないのに

 

僕の長所を最大限に使って遊んでくれる子供達

僕が愛される、僕の居場所のスキー場

ただ眺めて「美しいね」と言ってくれるマダム達

 

その人たちがいれば

 

僕は地上に降り立つまでに

涙を流さずしてやっと地に着ける

 

 

僕を見たくないという大人達は

決して窓のカーテンを開けることはないけれど

 

ただそこにいるだけで

 

ただそこにいるだけで

 

愛されたり

 

憎まれたり

 

まるで人間のようだ

 

人間同士のようだ

 

 

どんなに嫌いな人間も

 

その人が今日死ぬとわかったとすれば

 

 

「よっしゃあ!」と言える人間の方が少ないと思う

 

 

それくらい

 

誰かを嫌いになって悪口を言ったり

誰かをいじめるような人間もまた

 

いじらめられる人間同様に

 

いや

 

いじめられる人間よりも遥かに

心はちっぽけなのだ

 

 

みな

 

みんな

 

誰かに愛されたいの

 

 

 

ママに

 

 

パパに

 

 

 

自分自身に。

 

 

 

数十年前の数週間後、ぼくのおじいちゃんは生まれた。

 

今まで沢山の人と握手をしていたけれど、その感触も冷たさも鮮明に記憶している手は、じいちゃんのだけだ。

 

今まで沢山の人の顔を触ってきたけれど、そのひんやりとした冷たさを手が思い出せるのは、じいちゃんの右頬だけだ。

 

ぼくはいつまでも愛している。

 

ぼくの手はいつまでも覚えている。

 

実家から盗んだじいちゃんの写真を財布に住ませしばらく経っていたけれど、財布を開いた今、妙に目が合ったのでテーブルに出してみた。

 

その瞬間からじわりと涙があふれでた。

 

写真の中のじいちゃんは生きていて、目はこの世の誰よりも澄んでいて美しくて、歯の見せない微笑みはこの世の誰よりもやさしかった。

 

決して言葉は発しないのに、目は「大丈夫だよ」とやさしく強くうったえている僕のじいちゃんの目を、僕の目は受け継いだのだとおもう。

 

 

教えてほしかった釣りも、一緒に乗りたかった船も、

 

「またしようね」と言ったバーベキューも、

 

「見つけたらしあわせになるよ」と双葉で作った四葉のクローバーも、

 

この先も一生果たされることのない約束の中で僕が唯一ゆるせるのは、これらじいちゃんとの約束だけだろう。

 

 

あの日、自分がまだ中学生の時に大好きな誰かを亡くしていなければ、今のぼくの中にいる「素直なぼく」はもっとちいさかった。

 

ハンバートハンバートの曲を何曲も流しながらじいちゃんの写真を永遠に眺めていたら、"それでいいんだよ”と。果たしてそれがじいちゃんの言葉なのか自分の言葉なのかは定かではないが、確かに胸の奥でそう響いた。

 

誰に対しても、どこにいても、いつも笑っていて、いつもニコニコしているのが僕だと思っている人もいれば、反対に、ワガママで自分勝手で、他人のことなど考える余地もない生意気な小僧が僕だと思っている人もいる。

 

僕はどう思われたって構わない。

 

といったら嘘だ。

 

ぼくは常にどんなときでも素直に生きたいだけなのだ。

 

 

どう生きたって、自分のことを批評する人間は様々なのだったら、

僕はせめて自分が愛せる僕でいたい。

 

どう生きたって、好き勝手に自分のことを批評するクソ人間のために、

嫌いな人にイエスと、大好きでたまらない人にノーという

愚か者の取る生き方だけはしたくない。

 

目立たないように、荒波を立てないように生きて、

誰の心も動かさないまま死んでいく人生にはしたくない。

 

どんなに懸命にこの地球で足掻いたって

小さい日本という国で有名になろうが

アメリカで大スターになろうが

この小さい地球のわずか数ミリの範囲しか動かせないのだから。

 

 

なにか嫌なことがあったら、

ひたすら「死」を想う。

 

 

じいちゃんの死、両親が死ぬ時、自分が死ぬ時。

 

それらを考えたら、ぜんぶがどうでもいい。

 

ぜんぶがくだらない。

 

 

僕はこれからあと何回できるか分からない食事も、睡眠も、

 

好きな人とのキスもセックスも、

 

いつ死んでしまうか分からない人間とのバイバイも、

 

1回1回を味わいたい。

 

 

素敵な家に住んだら、誰かが「もったいない」と言うけれど、

 

それは今を生きていない人間のセリフだ。

 

 

家にお金をかけるもかけまいも個人の自由だが、

 

すっかりお金に操られた人間達が向かう先はどこだろう?

 

 

「今」を節約している人に、具体的な未来の計画や夢がある人を

 

僕はまだみたことがない。

 

 

「価格が高い」という理由で僕はこの世を楽しむことを怠りたくない。

 

 

すっかりお金に操られた人間界なのだとしたら

 

どんな人がお金持ちで

 

どんな人がお金に愛されていて

 

どんな人がお金に嫌われているのか

 

僕はこの目で体で見尽くしたい。ダイブしたい。

 

 

 

これからは毎朝、毎晩じいちゃんに挨拶をして

 

改めて一日一日をしっかり生き切りたい。

 

 

それは一生懸命生きることではなく、

 

勿論それはそうだけれど

 

ムカつく、もさみしい、も悲しい、も

 

あの人が嫌い、もあの人が好き、も

 

 

誰かの僕への好意も、悪意も、

 

ぜんぶぜんぶ「そうだねぇ」と受け取りたい。

 

 

受け取るというより、この宇宙に手が生えたような大きな大きな偉大な存在になったつもりで、広い広い大きな愛でまるく、ふわふわと包み込みたい。

 

でもたまにはぷかぷかと煙草をふかしながら「あいつうぜぇ」という自分もいて構わないし、それを許してくれる自分と親友の中ではそんな自分も抱きしめてあげたい。

 

みんなみんな、だきしめたい。

 

 

たんじょうびけーきとパインハンバーグ。

 

なんでもない日にケーキを買った。

 

閉店していたのに、「いいよ」とお店に入れてくれた。

 

全部自分で食べるつもりなのに、

家族の人数分を頼んでいる自分がいた。

 

4つ頼んだのに、

「シュークリーム入れておくね」とおじさんは言ったけれど

ショーケースにはまだ沢山のケーキがいた。

 

選ばなかったケーキ達を眺めていたとき、

僕の顔はとても悲しかった。

 

「残ったケーキ、どうなるの?」

 

子供のような声でそう言うと、

「うーん。明日もお休みだから廃棄しかないねぇ。」

 

明るく派手に彩られたケーキ達の終末は暗かった。

 

 

今でさえ、特別な記念日でなくても

昼間のカフェに顔を出すケーキだけれど

 

誰か分からない今日が誕生日や記念日の人の為に

いつくるか分からないその人の為に

ひたすらショーケースから顔を見せるケーキに

 

僕は一日もなれないだろう。

 

せっかくお客さんがきたのに

「買って買って!」と

身動き一つ取ることすらできないケーキに

 

僕はどう頑張ってもなれないだろう。

 

 

ケーキのように

みんなに愛されて当たり前のみてくれで

 

どんなに美しく生クリームを羽織ったって、

どんなに格好良く真っ赤なイチゴを頭にのせたって、

 

売れ残る者は、売れ残る。

 

 

でもそれは「まちのケーキ屋さん」という

あまりにちっちゃい土俵に立っているからであって

 

そのケーキがこの世界中だれにでも手に届く位置にあれば

きっとそのケーキが欲しくてたまらない人は沢山いるのだ。

 

ショーケースに静かに居座ったままのケーキを

この世界中の「あいしてくれる人」の手に渡せたら、

しあわせがハミ出るくらいの笑顔で食べてくれたら、

 

どんなにしあわせなことだろうと思う。

 

ケーキを産み出した親も、ケーキも、みんな。

 

 

 

僕をケーキでたとえるなら、

モンブランなのにイチゴがのっていたり

ちょっと、いやだいぶ捻くれた万人受けするケーキではない。

 

びっくりドンキーでいうと、

パインのハンバーグ。

 

でもパインのハンバーグが好きな人の

パインのハンバーグへの愛は、

 

チーズハンバーグが好きな人の

チーズハンバーグへの愛より

 

はるかに大きいと僕は思う。

 

 

レギュラーバーグで万人に好きでも嫌いでもなく

真顔で「おいしい」と言われるくらいのものなら、

 

パインをのっけて「まず!」と叫ぶ人が10人中8人いて

「なにこれ超やっばい」と涙流して感動してくれる人が

ひとりふたりいた方がイイ。

 

なぜならそれくらいの感動でやっと、

人を動かせるからだ。

 

パインとハンバーグ。

 

合わないと思って食べて、

「合わない」と思った人はごめんなさい。

 

でも試そうと思うのは自由なので、

返金したりは決してしません。

 

わたしはわたしのまま

いつも通り万全の状態で食卓へ出ます。

 

わたしの味が、舌に合う人がいれば

どうぞこれからも好きに味わってください。

 

けれどきっと毎日は飽きるから

 

レギュラーバーグ8割の

パインはたまにでいいです。

 

 

人間と同様に、

味わってから分かることでも

そもそも見た目で「ありえな!きも!」と

拒否反応を表したりキライを感じるのも仕方ないのです。

 

それも立派な嗅ぎ分け能力だと思います。

 

 

でも味わったことのない人間が、

味わったことのある人間に対して

パインとハンバーグのキモさやありえなさを

必死に訴える姿が一番恥ずかしいと思うのです。

 

一番なりたくない大人の姿です。 

 

僕はできるだけ自分の眼でこの世の中の明も暗もみて、

できるだけこの舌で世界の至る所を味見程度でいいから

どんなに人々が「まずい」と口にする場所も

一度は舐めてみたいのです。

 

 

 

なんていって

 

自分は次もチーズハンバーグを頼みます。

 

 

 

 

人をころすような人ではありません

「人をころすような人ではありません」

 

なんて容疑者の家族や容疑者の知り合いは言うけれど

 

人を殺しそうな人が家族や知人にいる人の方がよっぽど珍しい

 

さっきカフェで美味しそうにコーヒーを飲んでいた女の子も

 

高級イタリアンを食べていた素敵な女性も

 

その後に人を殺してしまう可能性も

 

自殺をしてしまう可能性もあるのだ

 

この世界はそんなもんだ

 

自殺をする人の心理は様々だが

 

想像をするのだ

 

私が

 

ぼくが

 

いなくなったらこの世界はどうなるだろう?と。

 

これでぼくの痛みがどれほどだったか分かってくれるだろうか?と。

 

自殺をする人が最後に求めるのは

 

痛みをわかってほしい、

存在をわかってほしいという

 

愛なのだ。

 

自分で首を絞めてでも

 

それで周りの人がわかってくれれば

 

それが首を絞める理由なのだ

 

死を成し遂げてでも

 

その目標が達成されなかった場合

 

彼にとってその死は

 

生きている人にとってその死は

 

とても淡白で一瞬で

 

ひらひらと舞ってはすっと地面で消えてしまう雪のようだ

 

誰かが

 

この世界の生きているものが

 

一人でも死のメッセージを受け取ることが出来たのなら

 

暖かい地面にそっと降り積もることが出来る

 

 

そっと一人で死んでゆく人もいるが

 

自殺にどうして

 

遺書やメッセージ性のある何かを残そうとする人が多いのかは

 

最後に伝えたいからだろう

 

そこに世の生きづらさを綴る人もいれば

 

家族への感謝だけを述べる人もいる

 

生きづらさは死という形で見せればとても早いからだ

 

薬でキレイな遺体になるよりも

 

電車の下じきになってみたり

 

首を吊った方がはるかに遺体はひさんな姿になる

 

もしかしたら

 

そんな所にも死者のメッセージはあるかもしれない

 

 

ほら、このひさんなすがたのぼくを見てよ、と。

 

 

 

人身事故のニュースを見て人は言う。

 

最後くらい人に迷惑かけんなよ。

頭つかって死ねよ、と。

 

でも僕には分かる。

 

特にそれが会社での過労の場合や

恋人を失った大きなショックの場合

 

伝えたいのだ

 

こんな酷い会社があるんだよ

おれだけじゃないよね

酷い会社たくさんあるよね?

 

おれはこんなにお前を愛していたんだよ

弱虫なおれが

ホームに飛び込むほど愛していたんだよ

 

そんな風に。

 

 

最後に死ぬという自分を犠牲にした表現で。

 

 

彼らの身体は消えてしまったが

魂はさけんでいる。