BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

寝静まった街を見れば

夜の寝静まった街を見れば

この街が人間の物(ぶつ)ではないことがわかる

この星が人間の物(ぶつ)ではないことがわかる

人間がこの星に住まわせてもらっている身だということがわかる

 


真昼間の街にお出かけすれば

人間の街にしか見えないのに

 

 

 

田舎に行けば

人間が暖かかったことを知る

 


海に行けば

海の偉大さと太陽の生を浴びる

 


山に行けば

自然が生きていることを知る

 


夜の星は

どんなに激しくぶつかったり

ものすごいスピードで落ちていったって

 


地球の人間はあまり見てくれやしない

 


花がどんなにキレイに花を咲かせようと

ライオンがどんなに華麗な狩りを見せても

深海魚があれほど美しく深海の海を照らそうと

 


ビルで生きている人間たちは

なにも気づかなかった

 


彼らは別に構わなかった

 


けれど彼らの仲間は

何人も人間に殺されてしまった

 

彼らの住んでいる秘密基地も

次々とられてしまった

 

戦う選択すら与えられずに

 


彼らはやさしいから

それでも今日も綺麗に生きるけれど

 


青い人間はどんどん

大きな手で掴み潰し

大きな足で踏み潰した

 


ぼくはそんな人間がきらいである

 


でもおかしなことに

このぼくもまた

人間の体を頂いて

この地球に生まれてしまった

 


ぼくの使命はこの地球を

愛と情熱に溢れた赤い人間で

いっぱいにすることだ

 


だれかひとりを愛することにより

他の大勢を青く塗りつぶしてしまう愛ではなく

 


だれかひとりを愛しても

好きなものは次々と赤く塗りつぶしてしまう

 


やさしい愛しかいらない

 


好きがぶつかり合ってきらいが生まれる幼稚な愛はもういらない

「知らない」という恐れ

海外へ行く時に、異常に危険ばかり心配する大人はもう消えた。

 

なぜなら、海外を知っているのはその人ではなく、もうこちらであるからだ。

 

僕が海外を経験したからこそ彼らは何も言わなくなったけれど、僕にしたら彼らの方こそ普段の生活に危険はないのかい?と問いたい。あの時のあの人たちにこう言いたい。

 

車を運転する時に毎度毎度「死ぬかもしれない」と思って運転していますか?と。

 

あんなに何でもかんでも危険やリスクを並べるのなら、日常に危険は数え切れないほど沢山あるものだ。事故に遭うリスクがあるから家にいよう、と思ったって突然家に車が飛び込んでくるリスクも地震が起きるリスクも、ナイフを持った不審者が入ってくるリスクだってある。となれば、家でリラックスすることすらできない。外を歩いていても人を殺せる車が沢山走っているのだから、常にヘルメットや重装備をして歩かなければいけない。

 

どこにいたって危険はあるのだ。

 

そりゃあ、まだ戦争が行われている紛争地に行けば死ぬ確率はぐんと上がる。でもそんな場所に行くといっている訳ではない。彼らの心配は、僕が行くといっている現地の街並みも気候も治安も知らずに言ってくる場合が9割。つまり「知らない」未知の世界なのだ。かえって、海外に行ったことのある友達の方がよく知っているから「〇〇には気をつけてね。」と知った上での具体的な注意をくれることがある。それはとても有難い。

 

 

「知らないこと」=「こわい、危ない」

 

と思っていることが非常に多い。

 

 

 

たとえば投資。仮想通貨。AI。

 

知識もなく、つけようともしないのに関わらず、テレビや雑誌での名前や悪いニュースだけを鵜呑みにしてそれら全てを「キケンなもの」扱いする。彼らが悲しい人間なのは事を判断する為の情報の少なさと、少ないのにも関わらず決めつけてしまう貧相な脳である。

 

 

今はスマホで簡単に世界中のニュースも、名前の知らない個人の思考も見れてしまう。なんてえろい世界だ。アダルト動画よりも、遥かにヌードだと思う。他人の脳みその中をタダで見れてしまうのだから、成功している人や真実を暴露している人の脳内を是非覗きまくってみたい。

 

 

様々な情報を目にし、どれを信じるかは自分次第だ。未だに「テレビで言うことはぜんぶほんとだ!」と言い切る人はテレビの言いなりになっていればいいし、「テレビで言われることは嘘かもしれない。真実を知りたい。」という人は本やネットで情報を探せばいい。大事なのは情報を見極める目と、知ろうとする心だ。その両方とも持ち合わせていない人、特に後者の心を持っていない人の多さには落胆する。

 

 

けれど両方を持ち合わせている人間と今年は繋がっていきたいし、次第に自然に繋がって行くと思う。

 

 

とりあえず、“戦後の日本について”の本がアイパッド内に何冊もねむっているので、お勉強を続けたいと思います。

 

 

おやすみなさい。

 

 

ちなみにヨーロッパまで片道5万で行けるということも知らないで損している人が多い。

 

「とまと」

 

とまとは、赤い。

 

 

でも、青いとまともいる。

 

いつかは赤くなる青いとまともいれば、

黄色いままのとまともいる。

 

 

色のちがいだけかと思い、

赤い子どうし

青い子どうし

黄色い子どうし

 

あつめてみたけれど

 

 

青い子たちをよくみたら

 

でっかいとまとがひとりぽつん

小さいとまとはふたりでなかよく

ヘタのないとまとはげんきがなく

虫にたべられたとまともいた

 

みんなちがっていた

 

 

 

そんなトマトをぱくぱく食べていたら

 

ひとりひとり味までちがっていた

 

 

 

そしてこのあいだ食べたトマトのパックを見たら

 

おんなじ味がしたなとおもってたトマトは

今日食べたトマトと生まれた畑がちがっていた

 

 

 

みんなちがった

 

 

 

けれどもぼくらは

ひとりひとりに名前をつけなかった

 

 

 

名前をつけるまえに

 

ほおばった。

 

 

 

めんどくさくて

 

みんなまとめて「トマト」とよんだ。

 

 

 

 

そんなぼくたちにんげんたちが

じぶんたちにんげんには

 

ごていねいに

ひとりひとり

名前をつけた。

 

 

でも

 

 

そんなにんげんたちの集まりを

どの集まりもまとめて「かぞく」とよんだ。

 

どの家族もぜんぶちがうのに 

みんなまとめて「かぞく」と呼んだ。

 

苗字はあるけれど、

ひとそれぞれ「こいびと」や「かぞく」には

描くイメージがちがうのに

 

みなそれを同じ名でよんだのだ。

 

 

まるでとまとのように。

 

 

 

 

 

 

じぶんなんか特に世間一般的な感覚とはちがうから

 

「彼氏いないの?」「うそでしょ?」

 

というやりとりには少々疲れることがある。

 

 

あなたが彼氏と呼ぶような関係の人間はいないけれど

Bさんからみたら彼氏のような関係に見られるかもしれないし

 

自分の中で「彼氏」という値の人間はいないけれど

人間の関係性を表す言葉があまりにも足りていないのだから仕方がない。

 

 

恋愛感情のない異性はおともだち。 

セックスをしてしまえばせっくすふれんど。

告白をして承認されたらこいびと。

プロポーズをして頷かれたらふうふ。

離婚をしたら元〇〇。

 

そんなに人間の関係性ってシンプルですか?

 

 

こんなに沢山の色も形もあふれたトマト(人間)界で、

なにひとつとして同じ関係はない

 

むしろ関係性に名前があることすら不思議なくらい

複雑に怪奇した関係性を

 

あらわす言葉がたったこれしかないのが不便すぎる。 

 

 

 

そもそも

 

 

●関係性のできかた

友達 → (なんかいろいろ) → セフレ・ソフレ等々

友達 → 告白 → 恋人 → プロポーズ → 夫婦

 

●関係性のつよさ

友達 < セフレ等 < 恋人 <  夫婦

 

 

 

この図式が頭にある時点で発想が乏しいと個人的には感じるし

(日本人には多いけど)

 

仮にその人の中ではこういうプロセスを歩んでいても

友達と恋人の間をあらわす言葉は他にないの?と思う。

 

 

実際、世の中には、というか日本語にはそれに値する言葉がないのだけれど

それに値する言葉がないせいで

 

あまりにも

 

恋人とダメになった→「じゃ、今からともだちね」

告白がOKされた→「じゃ、今から恋人ね」

告白して振られた→「はい今からおまえは友達だ」

 

 

とか、動かせないであろう「感情」までも

むりやり名前通りに呼ぼうとしているのが見ててイタイ。

 

 

少し前、樹木希林内田裕也の夫婦を“独特な” と

メディアが報じていたのも、多様性のなさを表している。

 

そもそも一般的な夫婦像ってなんだよ、と思う。

 

 

いつかみんなが描いた「幸せな夫婦像」は

人間には少しファンタジーすぎる。

 

ファンタジーの世界から目を覚ます前にどちらかが死を遂げることは

ふたりが出来なかったかもしれない“永遠”を生み出すことになる。

 

「ずっと好きだよ」と思っているそのあいだに

その人が死ぬことはよっぽど辛いことであるがしかし

 

 

同時に

 

その人をいつか嫌いになるかもしれない、

いつか嫌いになられるかもしれない、

という未来の可能性から見事に避けれることになる。

 

 

いつか愛しあえなくなる時がくるくらいなら

愛しあっているその最中に死別することは

最も不幸であり実は幸福でもあると思う。

 

 

でも人はなぜだか試したがる。

 

というより永遠を信じたがる。

 

 

野田洋次郎が著書で結婚はある意味で「人間らしい」と表現していたが

ほんとうにそうおもう。

 

更に彼は「いとおしい」とも表現していたような気がするが、

今は大の大人が結婚というごっこ遊びを

大人のフリをしながらしているのは

ちっともカッコよく映らない。

 

一人の異性に人生や恋心や時間やお金を賭けるのは

勝者の少ないギャンブルにしか見えない。

 

カップルや夫婦に存在する「所有」という感覚が本当にきらいだ。

 

 

ぼくは好きなものは次々あいしたい。

 

けれど数日後に、そんな大きなギャンブルをもしたくなる異性に出くわす可能性も落ちているのがこの地球だろう。

女性が女性を思い出すために、子供への性のために。

 

海外へ行くのに細かい理由なんてないけれど、「すきだから」とか「気分で」という真っ当で最大限の素直な表現をしても通じない“うるさい人間”の為に、今まで何度も文字や言葉にしてきた。今だから思うが、その必要はなかった。もしそこに必要性があったとするなら、その人が僕という存在を知ったことで今まで何かに縛られていた脳ミソや手足は「自由に動かしていいんだ」と世界を広げられたとき。その可能性のない、ただ僕という人間や僕という人間の生き方を否定したり「変なイキモノ」扱いをしたいだけの人間にはわざわざ思考や感覚を言葉にする、という変換作業は時間と労力の無駄だ。

 

今まで"通じない人”の為に言葉に変換してきた時間を、これからはただ自分が思ったままの世界をここで言葉にして、僕と「同じ世界観を観ている人」のために、その人の生きづらさや孤独に寄り添うようにブログを書いていきたい。「誰宛」という意識もなく淡々とひとりごとを綴っていたブログだが、これからは宛先に「同じ世界観を観ている人」と書こう思う。その結果、あちらの世界にいた人の中からも次第にこちらへやってくる人も出てくるかもしれない。

 

この世界に存在している決まりや道徳観のほとんどは人間が勝手に創り上げたものであるのだから、それに「おかしい」と思うことがあっても何らおかしいことではない。人を殺すという行為ですら、それが好きだとかもっと言えば人肉を食べることに興奮する人間もいるくらいであるのだから、僕が「日本の結婚理念や性の意識がおかしい」と声を上げることがどんなに自然なことであるか今ならよく分かる。きっと日本に対して違和感を抱えているのは自分だけではない。なのに今まで服を全部脱いでまで強く言えなかったのはきっと、こんな自分もどこかで恐れていたからなのだと思う。自分と同じような考えの人間を本やネットで見つけては、安心していた。

 

だから次は、安心させてあげる側にまわりたい。

助けてあげたくて、言いたくて、仕方がない。

「それって、おかしいよね???」と。

 

たとえば結婚制度。まじで大人のおままごとにしか見えないけれど、中には本当に死ぬまで2人で愛し合っている人、上手くいっている人もいる。その人たちはそのままその世界を貫いてほしい。それでいい。ただ一夫一妻という自分からすると「無理だろ」という制度に何の疑問も感じずハマってしまい、見事に上手くいかずに尚、"それがなんでか分かってない”悩んでいる人にはまず「そもそも」を考えて欲しい。世の中、男女の脳の違いも身体の違いも性欲のリズムの違いも愛がどんなものかも分からず結婚する人が多すぎるのだ。最近は若くして嫁さんがガンでなくなってしまう物語を観ると、「ガンにならずに長生きしてたら2人は上手くいかなかったかもね」と思ってしまう。結婚制度に疑問を抱かず次々と結婚して上手くいかない男女の多さは違和感を感じている部分でも大部分だが、長くなるので今日はやめる。

 

 

さて、僕が今、もっとも「おかしい」と思うけれど世間ではだぁれも「おかしい」と口にしていないその話題すら出ない、よって最も孤独感を感じているのはやはり、"日本の性”のことである。本当に理解出来ない。通りで結婚制度に対しても長々語ってしまう。

 

"だぁれも”と書いたけれどネット、特にフェイスブックやブログでは今や本当に堂々と性の壁を破っている大人が増えてきた。その人たちにとっては初めから「性の壁」たる物は存在していなかったのだけれど、よくぞまぁ「世の性の壁」を次々と乗り越えて、、というか透明人間になって華麗に通り抜けてる感じ。今僕の目にはその大人達がこの世で1番かっこよく映っているし、どんなインスタ映えよりずっとキラキラしている。

 

彼女達、彼らは実に様々な活動をしている。性教育を変えようと講演会や動画で説明している人もいれば、具体的なセックスの仕方や解説をユーチューブで配信している人、更に女性が女性に実践(裸になって)して体の仕組みを教えている人、など。そんな性を堂々と語っている人たちが自分のフェイスブックには毎日ころころ転がっているから、「神から受胎しましたっ♪(本当にそういう妊娠もある)」「女の子に性欲なんてないわよ♪」みたいな性が存在しないものになっているこの社会が、女性像が、本当にまじでカッコ悪いというか気持ち悪い。

 

特に「女性の性」がないものになっている。なぜだか、いつも男性ばかり「性欲」で生きている生き物扱いされて、よく女性は「ヤ“られた”」とか"〜された”という表現をする。いやいやいや、「おまえもその気があったから行ったんだろ?」といつも思う。何故かどんなシュチュエーションだろうと女性はいつも被害者顔だ。強姦でない限り、そのような言い方をするのは断れない弱さというよりは、大半は「女性もその気があった」場合が多い。こんな違和感がもう日常に有り触れている。

 

今の日本の女性は"性を隠す”。言い方を変えれば「セクシーさは見せない」「性欲なんてありませんよ♪」みたいな、まるで昔のアイドルのように「おならはしません」といったのと同じに見える。今はアイドルだっておならのひとつやふたつはする。けれどファッションは何歳になっても可愛いだとかフリフリだとか、ファッションやメイクも昔のアイドルより遥かに幼いものになっている。街中の女性も、外国を歩いていては決して目に映ることのないファッションばかり。ピタッとした服を着る人はおらず、ファッション業界や下着業界はいつも「体型を隠す〇〇」「胸を大きく見せるブラ」「胸を小さく見せるブラ」なんかもう、飽き飽きする。

 

ではあのバブル時代はなんだったのか?

まずはファッションで事を見る。

 

ボディコンやパンツ見え見えの意味のないスカート。

 

よく国の経済や女性の経済的自立が「女性の露出度」と比例するという。確かにそう言えるとは思うが、ここでいう露出とはいわゆるエロを感じるものだ。いわゆる"ファッション”としての露出だ。反対に、環境的露出といえばヨーロッパの夏の女性やアメリカの太った女性のように、"暑いからキャミソールなんです”という暑いから最大限の薄着をしている場合も存在する。今の日本ではそのどちらとも、優しく許容はされていない。せめて後者の"暑いからキャミソール”事情は切実に解放されてほしい。

 

かといって、もし日本が性に寛容な国だった場合、日本の女性がセクシーなファッションをしたいか?といったら、大半は今のままのファッションだろう。一昔流行った森ガールや、如何にも無印良品の服を買っていそうな女性の多さ(自分は"無印良品系”とよんでいる)、レザージャケットを着る時は下はスカートで甘さをミックスしようとか、やはり日本人女性には欧米のような「自立」「強さ」という言葉は合わないのであろう。実際、森ガールや無印良品系のファッションの方が多くの日本人には似合うような気がする。

 

では何が言いたいかと言えば、「それぞれしたいファッションをしたらいいんじゃない」てことだけれど、問題は自分のようにしたい"日本では好きなファッションがしずらい”人たちだ。自分は体系的にも自分のセンス的にもピタッとした服が好みであり、更に暑がりなので冬でも薄着を好む。「周り気にしないで好きな服着たらよくない?」と言われたことがあるが、自意識過剰ではなく同じ格好をしてもヨーロッパと日本じゃ歩きやすさが遥かに違う。なぜ日本ではこうも街を歩くにも地下鉄を乗るにも他人の目が冷たいのだろう?痛いのだろう?

 

違和感を感じる部分は以下だと思う。

 

"性を隠す”文化が女性だけのものではなく、文化として今の日本、つまり男性にも馴染んでいるからだ。エロを見せない清楚系の女性が男性に人気があることから分かるように、AV動画も清楚系であふれているように、男性も「女性の変貌」に興奮していることが分かる。"普段大人しい女の子がこんな〜で”的シュチュエーションが大好物だ。もちろんセクシーな女性が好きな男性も中にはいるが、その女性を恋人にしたいかと言われたら彼女にはしたくない人が多い気がする。欧米女性をキレイと思うことはあっても、最初からセクシーさがさらけ出されているアンジェリーナよりも無名の清楚系女子がエロを見せてくれることの方が価値も性欲も上がるのだ。そして日本でセクシーな女性がいたら、すぐさま「いやらしい」となる。

 

かといって、「あまりにも」日本の女性が日常からエロを隠すもんだから「性」をさらけ出して生きている"夜のまちの女性”に男はオトコになる。当たり前だ。なんせ隠すもなにも、「子供を産んでから妻が"お母さん”になちゃった」とか、「妻がすっぴん裸で家を歩くから女として見れなくなった」とか、本当に女じゃなくなっている場合もめちゃくちゃ存在する。余計男は、オトコになるために男は行く。オトコであることを確認するためにも。夜のまちの女性は女性を解放している。それを売りにしていることもあって「演出」している女性もいるだろうが、彼女たちもまた、オスを誘うメスのように歩いている。世の女性達みんなが、こうなってしまえばどうだろう?妻は子供を産んでも女であり、高いヒールにピチピチなワンピースで街を歩く。ご想像にお任せする。

 

 

さて、「それぞれしたいファッションしたらいいんじゃない」と書いたけれど、ほんとうに多くの女性たちは今のファッションで満足しているのだろうか?そこに「女性」としての喜びは含まれていないのだろうか?ここでいう女性とは日本でいう可愛らしさとかピンクだとかの話ではなく、「性」としての女性である。

 

自分がこう書くには理由がある。なぜなら自分が20歳の頃に体のラインが分かるような黒いワンピースを着て知人のレストランを訪ねた時、周りにいた女性が私に与える言葉はすべて褒め言葉のようであり、つまるところ「嫉妬」から生まれた言葉であったからだ。また、「若いのにいいわね」と若さに対する嫉妬も多く含まれた。こういう事例が山ほどある。この女性達の口から出る言葉に、"すべて”が現れている。

 

「スタイルよくていいわね(嫌味っぽい言い方)」

「私色気出せないわ〜どうしたら出せるの〜」

 

彼女達の心底にどんな感情があるかというと「ほんとはそれ、私もしたい」だ。それがなぜ出来ないかというと、「自信がない」。そう自信がないのだ。

 

「本当はちょっとセクシーな格好いいファッションがしたい」けれど、自分の体型に自信がないという理由でそれをしない女性は本当に多い。でも欧米を見渡せば、体型に関係なく太っていようが肉が積み重なっていようがおばあちゃんだろうが、平気で露出している。海ではビキニを着ている。

 

「それぞれしたいファッションをしたらいいんじゃない」と思う割に違和感を感じるポイントは、きっとここにある。日本の女性が今のファッションをしたくてしているのなら本当にどうでも良いけれど、「自信がない」という理由で体型を隠すファッションをしたり下着を選んだり、「自分のカラダがきらい」という理由で今日もその隠すための服やメイクを選んでいるのなら、はやくやめてもらいたい。そのようなファッションをしている人はその自信のなさまでもファッションとして映っているし、だからこそ自分の目には「本当はそういうのより、こういうのが良いんじゃないの?」と感じているのだと思う。

 

自分が好きだと思えるカラダになるために努力するのも、お金をかけて整形するのもアリだ。それくらいカラダの一部が気に喰わない辛さはよく分かる。けれど隠すことだけはやめようぜ、と言いたい。自分としてはあまりにも作らすぎたもの(豊胸しすぎた胸とか)には魅力を感じないが、それでその人が堂々と街を歩けるようになればそれは素晴らしい変化であり選択だ。だから整形して堂々とステージを歩けるようになった女性は輝いているし、そのままのカラダで堂々と海でビキニになっている太ったおばちゃんは輝いてるのだ。隠れていないのだ。

 

この、「痩せていないとタイトやセクシーな服装はだめですよ」という日本の若い女性が洗脳されてしまった“痩せなきゃ教”も過度に痩せたモデルたちが本当に彼女らのモデルになってしまっているからだ。そして街中に堂々と歩くモデルのような女性がいないから余計に、“過度痩せモデル”だけがモデルになってしまうのだ。外国のようにどんな体型の人間も好きなように服を着てみな堂々と街を歩いていたら、きっと痩せなきゃ教からは秒で離脱できる。そういう意味もあって日本では街を歩くだけでも完璧でないと落ち着かないのだろう。ちなみに髪型をまるで美容室に行ったかのように毎朝きれーいにキメるのも外国人からすると驚くところだ。

 

 

長くファッションについて語ったが、女性の性の意識のみならず自信や生き方、それら全てが簡単に映るのはファッションにある。そして、そこには流行りだとか「これが普通」「それはかっこわるい」という文化的背景も関係する。ビキニだって生まれた当初は「なんだあれ汚らしい!」と批判殺到だったのが今では普通になっているし、人前で裸になるなんていうカオスな光景も温泉では当たり前にみな脱いでいる。昔は混浴だってしていたし、女性が上半身裸でも気にしていない時代もあった。

 

またこれについては次の記事で書こうと思うが、その人にとってのファッションと「性欲」はリンクすると思うのだ。これこそ、海外では女性も性欲があって普通だと誰もが認識している感覚があり、女性同士がセックストイについて語り合うシーンが映画に出てきたりもする。中には恥じらいを抱く女性もいるであろうが、日本は異常だと思う。何が異常かって、まるで女性に性欲がないかのような世界になっていることだ。女性が性について話すことすらキモがられるし、自分が問題を感じている部分は"女性自身が自分の性欲を認めていない(知らない)”ということである。そもそも男も女も異性の前に自分の性への知識がなさすぎる。

 

よって自分がしたいことは、「女"性”の解放だ」。

 

こんな自分も学生時代は誰よりも男っぽかったし、学校で早くに"性に目覚めた”女子たちは本当に苦手だった。中学時代はスカートめくりすら拒絶感があってひとり輪からハミ出ていたし、その時からなぜ日常から最も隠されている“性”であるのにそういう遊びはみんな楽しそうなのか、テレビでも下ネタがウケていてそれが茶の間でもウケているのか、コンビニのアダルトゾーンは隠されていないのか、さっぱりだった。今もわからないけれど。

 

 

自分が今までブログに書いてきた日本での生きづらさ、またヨーロッパでの生きやすさ、は言葉にすればこれが大きく影響している。自分の目に映る世界では、外国の女性はベビーカーを押している女性も、すっかり白髪に染め上がったおばあちゃんも、みんな「女性」なのだ。みな女性であるから、自分が男だったらずっと魅力を感じるなと思う。家でその女性達がどんな姿をしているかは分からないけれど、外の容姿や振る舞いを見ても日本の女性よりずっと女性を感じる。子供の前でも「女性」であるから、子供はお母さんがオンナだということは自然に分かっているし、子供の前でも夫婦が「男女」であるから、"赤ちゃんはどうやってできるの?”という疑問をママやパパが教えてくれたって、他から聞いたって、どこかそれとなく納得できる。受け入れられる。

 

でも日本の場合はママは生まれてからずっと「お母さん」でしかなく、お母さんはお父さんの前でしか「オンナ」にならず、ましてやお父さんの前ですら「お母さん」になり、ハグもキスもしないお父さんお母さんから本当に自分が生まれてきたのかも分からないのだ。

 

そして学校は上から定められている規定で具体的な性教育は教えられないし、どこから情報を手に入れるかと言えば友達やネットしかないのだ。じゃあその友達はどこから情報を仕入れたかと言えば、親が性に対してオープンな家庭の子か、大半はネットだろう。ネットに正しい性の情報があるかと言えばあるのだが、それよりも汚らしいアダルトサイトやアダルト動画サイトの方が勝るだろう。子供が「性行為とは」なんてお堅い検索をかけて有り難く心優しいサイトに巡り会えば良いが、それはほぼないだろう。

 

 

www.youtube.com

 

彼女は「女性ポルノ監督」だ。とてもカッコ良くて理想の女性だ。

 

先ほど書いたように日本の性教育を変えようと様々な大人が"真面目に”活動をしているが、真面目に活動をしたところで多くの子ども達はもっと早いスピードでネットの世界に足を踏み入れている。間違った知識はもちろん、"普通のセックス”をネットの動画で知ったつもりになっているのだ。AV動画が男性の為のエンターテインメント(作り物)だとは分からずにそれが普通だと思い込んでしまう。そして厄介なのは、これは女性にも同じことが言えるということだ。だったら盗撮動画でも見た方がよっぽど本物をしる分には良いんじゃないかと思うほどだ。だからあえて"ポルノ”に目をつけてポルノ業界に女性が記号化されていない、女性にも男性にも感情のあるポルノを制作した彼女がひたすらカッコイイ。

 

日本の今の性教育は本当にオワッテいる。

 

「自分の感覚はおかしくない」と知る大きな自信になるものは、日本の昔を知ることや世界の感覚、世界の昔を知ることだ。こんなに違和感を感じる日本ですら、江戸時代はまったくもって今とはかけ離れた性生活があったのだ。じゃあそれより前は?縄文時代は?アフリカの先住民族の場合は?そう世界の様々な文化や歴史を知ることによって、いかにこの狭い島国、そして「今」の日本での常識や文化が一瞬であり小さいことかよく分かるだろう。今の日本の常識に一ミリも疑問を抱かないでいる人は、それは誰かが創り上げた幻想だということも知らずに、それを疑う人を排除する。だけど恥ずかしいのはどちらかお分りだろう。

 

僕は「日本での違和感」をただぐだぐだと口にする子供ではなく、日本のことも世界のことも男女のことも人間のことも、人が知らないでいること(興味のないこと)を勉強して自分の感じる違和感により自信を持たせたいし、知らない人にそれを知ってほしい。みなが当然のようにそれを知っていたら平和かもしれないが、みなが知らない今だからこそ物知りな自分に価値が出来、やれることが沢山ある。

 

 

まずは自分と同じ感覚を抱いている子に、ひとりでも届けばいい。

 

 

と思いユーチューブも始めようと思います。というブログでした(笑)

 

 

 

 

一人映画の果て

 

今日でこのすっかり住み慣れた家と、そこの唯一の同居人であった年季の入ったピアノとまたねをする。人間は本当に慣れてしまう生き物で、この家に到着した日は子供のようにはしゃぎ喜んだのを鮮明に覚えているが、それから今日までは至って普通の毎日だった。正直言えば、初めて到着した日の映像も今日まで思い出せなかった。念願であった「四六時中ピアノが弾ける」「何時でもスピーカーで好きな音楽聴き放題」「裸でリビング」…等、あげれば欲張りなほどにお望み通りのお部屋だったことがよく分かるのに。

 

だけれど今、あと数時間後にこの家を、この街を旅立つぼくは壮大であり美しいジブリの曲に浸りながら「美しかった日々だなぁ」と勝手に感じている。では音楽がなければお願い事が叶ったことに有難味も抱けない冷たい人間かというと、時に冷たい人間だ。なんでもない街の朝に、出勤を急いでる訳でもないなんでもない朝に、フランスのアコーディオンの音楽を耳に流し入れるだけで一瞬で街の彩度がぐんと上がったり、なんでもない家族の団欒や、なんでもない今までの人生も、ひょっと美しい音楽を添えただけでどうしてこんなにも全てが美しく観えてしまうのだろうと思う。

 

きっと映画とおんなじだ。

 

人を殺し合って血を流すシーンでも、必死な顔の表情にカメラを寄せて更にそれをスローモーションにしてそれっぽい音楽を流せば、それは感動的なシーンに見える。もちろん、それを激しいアクションに見せることもできる。それが出来るのはプロデューサーやカメラマン、舞台裏と言われる人たちだ。演じる役者が同じ演技をしても、それのどこをカメラに撮して、どこを切り取って、どこを強調して、そして最後に音を添えてあげられのは"その人たち”に懸かっている。

 

では、"その人たち”は誰かというと、自分だ。

 

演じる役者には沢山の人間がいて、もちろん自分もいる。けれどそいつ(自分)を「町人B」にすることができるのも「主人公」にすることができるのも、いつもそいつを離れた視点で見ているもう一人の自分、つまり監督やプロデューサー、カメラマンといった席に座っている自分だ。

 

"監督のぼく”は自分の好きなようにシナリオを作っていいし、途中で飽きたら全然違う結末に向かわせてもよし。

 

監督が自分であるのだから、

 

"兼カメラマンのぼく”はどんなシーンでも好きなように撮ればいい。「こう見せたい」と思うように撮ればいい。

 

また、大事なのは"音響スタッフであるぼく”。

 

カメラマンがいくら美しいシーンに作り上げても、音一つでそれを最悪なシーンにも、もっと素晴らしいシーンにも変えられる重要なお仕事だ。

 

 

けれども現場にいる全員がそのストーリーを撮るには欠かせない、一人一人が大事な役割を持っている。だから一人一人が「その映画」に没頭することだ。たとえそれに莫大な時間をかけたのにも関わらず、出来上がったそれをみんなで鑑賞したらたったの2時間しかなくたって。

 

 

でも没頭する上で忘れちゃいけないのは、数ある仕事の中で最も没頭するべき"ぼく”は「役者であるぼく」なのだと思う。だからといって、"監督であるぼく”を忘れたり、日常のどこを切り取ってどんな音をつけて、最後に自分の人生をどうスクリーンに写すかも最初から最後まで自分の仕事だ、ということも忘れたくない。

 

 

現実は、すっかり監督の声も指示も何も聞こえなくなってしまった「役者」に入り込んでしまっている人間が多いと監督のぼくは言う。そんな状況でも、「ディレクター」いわゆる監督である自分は常に役者の人間に指示をしようとしてくれている。それに加え、常に舞台裏の人間も含めて客観視して現場をまとめている。そんな監督に応えるために、大前提として、役者は、「自分が何の役であるのか」をしっかりと把握する必要がある。そんなの当たり前なことだ。今この瞬間も"人間”という体で役を演じている僕たちはただ、それを思い出せばいい。

 

 

 

 

 

昔々、映画製作を"監督”が喋り出した頃。

 

 

「全体のストーリーはこうで、最後はこう終わる。

君にはその中で最も目立つカッコいい役柄を与えよう。

 

泣くシーンも、笑い転げるシーンも、怒るシーンも、

キスシーンも濡れ場も、恋人と別れるシーンも、

"ぜんぶ”が大事なシーンだ。全力で演じてくれ。」

 

 

"役者のぼく”は"監督のぼく”に

きっとこう言われたはずだ。

 

 

 

そして続けて監督はいった。

 

「好きに演じて良い。台本もいらない。

けどおれからの指示は聞いてくれよ。」

 

と笑いながら。

 

 

この"おれからの指示”というのが、

近頃「ワクワクすることをしよう!」とか

「直感に従おう」と呼ばれているものに値する。 

 

 

監督はいつも「ワクワク」 とか「ピンとくる」

という形で僕たち役者にサインをしている。

 

スクリーンの中には立てないから、

「人間」という登場人物を作って

その役柄にそうして伝えている。

 

 

問題は僕らが監督の声を聞いていないではなく、

聞いているのに、殺してしまっているのだ。

 

長い間、役に夢中になりすぎて

本当に声が聞けなくなっている役者も中にはいる。

 

けれど大丈夫。

 

監督はいつもその場にいるし、指示をやめない。

総責任者である"プロデューサーのぼく”

もその場を離れたりはしない。

 

 

きっと"プロデューサーのぼく”は

役者のぼくが現場を出て行ったり、

監督の声を無視して演じ続けることに

悲しさを抱いてるだろう。

 

プロデューサーは、きっとはやく

映画を宣伝して、公開したいに違いない。

 

 

 

 

きっとこの世界で、自分が自分で創り上げた夢の世界を生きていると気付いている人はまだまだ本当に少ない。自分が監督であり、いつだってストーリーを描き変えられることを知っている人も。一生懸命に与えられた役柄を演じるが為に、入り込んでしまって本当にその気持ちになってしまうのは素晴らしい俳優だと思う。けれど監督の声を聞いてほしい。一番、物語を知っているのも物語の行方を知っているのも、"彼”なのだから。なぜなら物語を創ったのが、彼なのだから。

 

そして一生懸命に役に入り込むには、監督の描いた世界はもちろん、与えられた「役柄」についてもっともっと知らなくてはいけない。これを怠る俳優がこの星にはありふれている。役柄の生まれた背景、時代を知らずに演じてしまったり、その役柄が「どんな家が好き」かも「どんな食べ物が好き」かも知らずに演じている人も中にはいる。

 

自分が演じる役だ。

 

もっと監督の意図を、声を、聴いて、聴き続けて、

自分を知って、知り続けて、知り尽くして、

 

その上でどのシーンを選んでどう上映するかを

好きなように作ればいいのだ。

 

 

 

 

そして、役柄を演じ切ってスクリーンの前に座るとき。

 

横にポップコーンがあるのか、

横にだれが座っているのか分からない。

 

もし横に誰かが座って同じ映画を観ているのなら、

それはきっと一緒に演じてきた他の役者達だろう。

 

 

一人で始めた映画製作なのに、

最期にはそれを一人でも一緒に観られる人がいたら

そんな幸せなことはないと思う。

 

 

そして一人でスクリーンを眺める者と、

沢山の人と一緒に眺める者のちがいは、

 

やはり常にどんなシーンでも、

カメラが回っていない時でも、

一生懸命でいて、

他の役者に愛や笑顔を絶やさない役者だったかどうかだろう。

 

 

 

どうせなら、ぼくは後者を選びたい。