BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

オーラの出し方

 

昨日街を歩いていたら、もう描いている道を歩けてる自分がいた。

 

みなが振り向いた。

 

自分でもオーラの放ちを感じた。

 

くそなナンパなど寄せ付けなかった。

 

サングラスをしなくとも、

久しぶりに堂々とそれを味わった。

 

“ぼくはこんな所を歩いてる場合じゃない”

 

そう感じた。

 

 

けれどその次の日に、ジャージで少年のように歩き、颯爽と歩いて道行く人の目線を独り占めした昨日とのギャップを楽しむのが好物だ。

 

ぼくが他人を使って行う唯一のあそびは、この他人の目の操りだ。

 

 

365日46時中、「おんなじ女」にしかなれない女は好きじゃない。

 

常に色気しか出せない女も、常にキャピキャピしか出来ない女も、ぼくには飽きるし魅力を感じない。裏表がある、とは違う。

 

ジーンズを履きこなしてクールな女性かと思えば、ふわっとワンピースも着こなしてしまい、中身ですら運転が超上手いけれど忘れ物が多いだとか、ギャップのありふれた女性がいい。

 

 

今日も色んな人がぼくを見て、「めっちゃ可愛い」「スタイルよくね?」だのなんだの言っていた。

 

このレベルにくるまでちょっと時間がかかった。

 

ぼく自身、「街を歩いて振り向く女性」で更に「その後も目に焼き付いている女性」なんて外国を含めて3人ほどだ。

 

あとは、日本だとたまに垢抜けたおばちゃんを結構見る。けどぼくが“見惚れる”若い女性はいない。

 

 

街を歩くだけで、

面白くできた世界だと思う。

 

 

もしもぼくが似合わない、兼、自分のしたくないファッション(=見られることを気にしたファッション)をしていたら、このオーラは消えるんだ。

 

同じだけ露出のある服を100人に着させても、それを着てセクシーで美しくなる女性もいれば、だらしなくふしだらになる女性もいる。

 

唯、ぼくが美しいと感じるのはセクシーな女性だけれど、みんながみんなセクシーさを出して格好よくなる訳じゃない。

 

ふんわりファッションが1番その人の魅力を出す場合もあるし、そういう人がセクシーさを出そうと思えば不思議といやらしくなるように出来ている。

 

また、「私はとってもセクシーよ」とピタピタなワンピースを着ようとも、それが“自分がしたくてしている”場合と、“男性にこう見られたい”という心理で着ている場合とでは周りへの見え方も違ってくる所だ。

 

ファッションとは、「今日の格好変かしら?」と歩けば決して格好良く映らないし、自信満々で自分は美人だと言い聞かせて玄関を飛び出せば、ブスだとか美人ではなく、放つオーラは違うんだとぼくは思う。

 

誰にも、元々持った魅力があるはずだ。

 

 

でもまぁ、どんなファッションをしても8割は姿勢と歩き方で格好良さは決まる。

 

日本だとちょっと姿勢をよく堂々と歩いただけで、自分でも目立ちを感じるほどに目立つけれど、外国だと「溶け込む」だけでちっとも目立ちやしない。むしろ猫背やクールじゃないファッションをしていると悪目立ちする。

 

ぼくが次目指すのは、外国でさえも日本と同じように振り返られる女性になることだ。

 

といっても外人はフィーリングが合うから余裕かな(笑)

 

ただ「セクシー」というのが性の対象として(=ヤリたい)ではなく、男性も女性も“なんて美しいの”と感動させる位置に行きたい。

 

そこに行くには、ファッションだけじゃあどうにもならない。姿勢で誤魔化すことも、メイクで誤魔化すことも出来ない。

 

そんな値じゃない。

 

ぼくなら絶対いける。

 

すべてを解き放ちたい。

 

 

 

ぼくが汚いと思う女性は、あまり目に入れない。同じ空間に重なってしまったら、大人しく逃げること。

 

ぼくが惚れて仕方ない憧れの女性をスマホでもいいから目に入れるようにする。

 

ぼくが知らないだけで、きっと美しい女性はこの世に溢れている。

 

もうその女性達と同じ所にいて良いのだ。

 

人は似合う場所を自ら選んでいる。

 

目醒ます時

僕はこの平和ボケした、というより歴史や真実を知らないでアメリカの思うつぼに踊らされている日本が嫌なんだ。確かに土の下を剥がないで、綺麗な花だけを見ていたらこの国はとても平和だ。けれど引きこもりも自殺の数も、働く時間も働き方も、自己肯定感のない若者の数も、全部全部異常なんだ。

 

真っ黒に塗り潰された芸能界の闇すぎる闇も、3S政策*で洗脳された日本人も、天才が生まれないように抑圧された教育も、ある時から報道しなくなった人工地震も、隠されたHAARPも、ネットがある今誰でも真実を知れるのに。

 

僕は先週、こんな事を下書きしていた。

そしたら今、吉本興業のニュースだらけになっていて妙に繋がり、埋めていた文を掘り返した。

 

感情が込み上げまくった記者会見やそれを見て動くその先輩達、会社に対して何度も「不信感」という言葉を発する当人達。だけならぬ事務所の人々。

 

吉本興業の件についてを綴ろうとは思っていないので思うことは端折るが、「闇営業」という呼び名があほらしいし

 

そして僕は続けてこう書いていた。

 

ディズニーでも何でも、必ず悪者がいてそれに立ち向かうけれど何もファンタジーなことではなくこの地球がそうなっているから人ごとじゃない。

 

だが必死に真実を伝えようとする者は、悪の勢力に簡単に殺られてしまう。悪に立ち向かう人の絶対数が少なすぎるからだ。と言いたいが、「洗脳」されている状態ではそもそも自分達が誰に、何を、洗脳されているか気付いてないのだからそれが一番恐い。

 

世界を救うのは音楽か、愛か、言葉か。

 

 

まとめるのもめんどくさい、独り言のような下書きが溜まっているから上げておこう。

 

(7月22日)

 

 

 

 

そらと子供

 

空は知っている

 

ぼくたちが苦しむ必要のないことを

 

 

僕らは昔しっていた

 

この世は楽しいことしかないことを

 

 

それはどうかな

 

「ちがうよ、んな訳ねぇだろ」

と言う人が沢山いるのを余所に、

 

そうよ〜と楽しそうに生きる人がいる。

 

 

 

校庭ではしゃげる子供が

 

雨で騒ぎ遊べる子供が

 

学校から家の道のりで楽しめる子供が

 

何もわかっていないようで一番この世のなにか大切なことを知っている気がする。

 

景気がどうとか会社の仕組みも礼儀作法もなんにも知らないけど、大人が落っことしてきたキラキラした物を沢山だっこしている。

 

子供にそんな素晴らしい天使のような無邪気さがなければ、「子供」である必要がない。育てる者が人間じゃなくても、大人じゃなくてもいい。クソ真面目になりすぎた「大人」という生き物に大事なことを思い出させてくれるかのように、僕らは随分じじぃばばぁになった後に数十年も歳の違う赤ん坊を抱く。

 

未だに子供は無理やりしつけをするものだと思い込んで「共育」からかけ離れた育児をする親も沢山いるけれど、育児における学びは始まりも終わりも何も無い。親も、子も。

 

育て上げた後に気付くこともあれば、沢山間違えながら愛しながら傷つけながら育て方が変わっていったり、自分の生き方すら見直したり。どんなに偉い上司に人生観を述べられるより時に子供が大きな影響力を持ったりする。

 

大人が子に教えることはダメなことばかりではない。この国が戦争中で危険な国ならまた話が違うが、今の日本に生まれる子供達に何を大人が教えないといけないかって、「大人になるのはこわくないぜ楽しいぜ。」ということだと思う。

 

僕がここへ来るまで、何人もの爺に「大人になることのしんどさ」「仕事の大変さ」「金を稼ぐことの大変さ」を学校でも酒場でも聞かされた。

 

当然それを聞いて大人になんかなりたくない、と思うのが子供であるし誰にも触れられなければお花畑でしかなかった脳内の未来図は見事に枯れ地化する。

 

いつか自分の子供が出来た時、またはどこかの子供と遊ぶ時、遊び方の分からない大人にはなりたくない。

 

子供の目線とは、物理的にも全く違っているから公園の遊具ひとつすら遊園地に見えたりもするし、石ころひとつが大事な遊び相手になったりする。

 

そこにさらに自由な見方と発想があって、砂場には軽々とエジプトとピラミッドを創り上げたりできるんだ。

 

それを分からずに足で踏んずけたり、何それ?ただの山じゃん、と言う大人になりたくない。

 

いつまでもそれを忘れないように、石ころがあればたまに蹴ってみたり、空を見上げたり、星を数えたり、塀に登ったり、無意味に雨に当たってはしゃいでみたり、そんなヤバい奴でいたい。

 

子供じみた危なっかしさの中には、つまらない大人の世界にはない光った石ころがゴロゴロ落ちていたりもする。

 

けど僕はもっと大人の世界を知らないといけない。

 

建前も、フリも苦手で本当に嫌になるけれど生きていく術として身につけなくちゃいけないんだ。

 

でもやっぱり嫌だからその時こそ女優だと思うしかなさそうかな。

 

クロアチアは今日も雨かなぁ。

 

雨の日に滑る石畳でジャンプして遊ぶ子供たちが、光る水たまりよりずっとキラキラしていた。今日もそうだといいな。

 

休符

 

上手いピアニストは休符がある。

 

下手なピアニストは休符がない。

 

 

上手いピアニストには音の響きと、響いた空間の空気を感じられる余裕があるけれど、下手なピアニストは自分の音を聴くのに精一杯で休符すら感じられない。

 

もっと下手なら、自分の音すら聴く余裕がない。

 

僕はもっと間を作らないといけない。

 

 

 

ストリートピアノを弾いてきた。

 

帰宅ラッシュを狙えば余裕で人が集まったが、少し時間はズレた。

 

撮影してくれる友達を待っている間に離れた地べたにアグラをかいてずっと観察していたが、警備のおじさんに心配をされ仕方なく近くに寄ってアグラをかいた。まさかコイツが後からピアノを弾くとは誰も思っていない。

 

今すぐ席を奪って1時間も弾き続けてやりたいのを抑えて、何人ものピアニスト達を眺めた。ピアノの席が空くことは殆どなく、常に人が入れ替わっている。小さな子供、おばさん、サラリーマン、ヲタクくん。

 

そして色んなことを思った。

 

一つは、ピアノは、「ピアノが似合う」人が弾いているよりもペラペラしたヲタクくんや疲れ切ったサラリーマンの様な「ピアノが似合わない」人の方がカッコ良さが出るということ。おれ的に。すげー手つきがイッちゃってる女の子がいて上手かったけど、なんだか心揺さぶられるものがなかった。

 

 

もう一つは、観衆の集まり方だ。

 

上手い人が弾いてる時は素人も集まる。は当たり前だけれど、必ずしも“上手さ”が拍手や人を惹き付ける力の大小とは比例していなかった。

 

ひとり、ジャズを弾いた男性は間違いがない模範の様な演奏で素晴らしかったけれど、「楽譜従順主義!」って感じでBGMとして聴ければ最高に心地良いが、“観るもの”、“感じるもの”ではないなぁ、と思った。

 

帰り道はサーカスの人が大道芸をしていた。昔見た、同じサーカスの別のお兄さんのパフォーマンスはおれの涙と大勢の観客を自然に掻き集める程、素晴らしく心を揺らすものであったのに、観衆の中から聞こえる彼の声だけ聞いてもその違いは天と地だった。もちろん素通りする。

 

結局ピアノやら大道芸やら道端で何かパフォーマンスをする者は、流れるように歩いている人達を立ち止まらせる力がいる。

 

誰かが程よく客を集めてくれた後を見計らってピアノを弾こうとしていたおれがいたが、本物は0から1を作れる人だろうと強く実感した。

 

客はパフォーマンスが良ければ滞在し続けるし、惹かれなければさっさとまた足を歩かせる。本当に素直なのだ。一瞬一瞬が判断材料にされている。

 

ただ僕は今日、集まってくれた人達と温かい拍手でとても温まった。いつも家で一人で弾いているはずの僕のピアノが公共の場に響き渡るだけでロマンチックだし、会話もしたことのない知らない人たちが僕にスマホを向け、それをまた誰かに見せる…どこまでも面白い糸の在り方があるのはやはりストリートでしか出来ない。

 

僕はストリートライブだけで食っていくようなハングリー人ではないけれど、この温かみがパフォーマー達の心をうんと強く温かいものにする。

 

拍手が鳴る瞬間、振り返る景色は僕にはオレンジ色や黄色に見える。お互いに、温かさやありがとうという愛を受け取り合うのだ。

 

 

アコーディオン担いで、

街に繰り出すそう。

 

 

 

どうにもこうにも

 

一人になりたい時がある

 

 

朝でも夜でもなく

 

ずーっと夜の中で

 

 

終わらない夜に埋もれたい時がある

 

そこにあるのは夜の黒さに紛れて散らばった、黒い音符だけでいい

 

それら全てに優しく抱かれて

 

そっとそのままねむりたい

 

 

だれにも、たいようにも照らされず

 

そっと穏やかに微笑みながら

 

子宮にいた頃とおんなじポーズで

 

ねむりたい

 

 

ただただ

 

なんにも考えず

 

時すら止まって

 

だあれもいなくなって

 

けれど

 

本当は最初から既にそうだったことを思い出したい

 

 

みんな

ひとりなのだ

 

 

ぼくが自分のものだと大事に箱にしまっている愛しいぬいぐるみ達は、人間は

 

最初から誰のものでもないのだ

 

みんな、だれのものでもない

 

ぼくも、だれのものでもない

 

みんなが初めからひとりで

 

今もこれからもずっとひとりなのだ

 

ひとりぼっちとひとりぼっちが手を取り合って

 

また新たな生命を宿しても

 

ひとりぼっちが増えただけなのだ

 

 

けれど最初からみんな

 

ひとつ

 

 

 

だったんだ。