BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

羊と鋼とモノクロ

 

ねむりを妨げるものより

 

この世で一番はらがたってかなしいのは

 

ぼくからぴあのがいなくなることだ

 

それもおれがまだ

 

かきくけこ

 

の き すら上手く発音できない頃から

 

この手にずっと馴染んだモノクロと

 

その中で音を創り出す羊と鋼

 

調律だってしばらくしていない

 

そのピアノに慣れた耳など

 

絶対音感から外れているかもしれない

 

けれど他のピアノには決してまねできない

 

音も匂いもキズも呼吸の仕方も

 

 

本当に心からの心友なのだ

 

 

どうか

 

いいや

 

どうして

 

こんなにも美しいピアノというものの居場所がこの街にはないのだろう

 

すっかり居場所をなくしたピアノとぼく

 

ぼくには沢山居場所はあるけれど

 

ぼくが「帰る場所」は

 

ピアノがあるところだ

 

いま僕にそれはない

 

 

ピアノにヘッドホンをつけるなんて

 

あいつが唯一持った声という表現を

 

押し殺すようなもんだ

 

迷ったけれど

 

やっぱり妥協できない

 

誰かがこのピアノへの愛を

 

分かってくれるだけで

 

楽になる

 

 

おれの家が見つからないというより

 

あいつの居場所がないことが

 

あいつが思い切り歌える場所がないということが

 

そんな世界が最高に哀しいのだ

 

 

中学時代は

 

あんなに朝から晩まで

 

みんなで楽器を鳴らしまくってたのに

 

 

どうしてこんなに外にはビルがそびえるのに

 

どうしてこんなに人は一人一人家に住んでいるのに

 

ピアノが弾ける場所はあまりにないんだろう

 

 

ピアノはだれのために生まれたのだろう

 

 

防音室に憧れもあったけれど

 

防音室もいやだ

 

いやだ

 

 

楽器達が苦しそうだ

 

人間が生み出した楽器達が

 

みんなに愛され思い切り歌をうたえる

 

そんな場所がほしい

 

 

人間が増えすぎたから

 

人間の量を少し殺(へら)して

 

楽器の為に部屋を作りたい

 

 

それか人間の耳というものを

 

もっと機能的なもの若しくは

 

半径1mほどの音しか聞こえない

 

そんなものにしたい

 

 

待っててくれピアノ。

 

 

 

 

 

人間模様の正解

 

人間関係全てに正解があればいい。

 

人間関係のはじまりは自由やファンタスティックなもので構わない。

 

よくわからなくたって構わない。

 

けれど人間関係のオワリはそっと誰かに道筋を照らしてほしい。

 

人間関係のオワリとは連絡が途絶えたりLINEがブロックされるとか小さなものではなくて

 

その二人が死へと向かう時に果たしてそれが最良の関係の在り方なのかどうか、またそれまでに一旦終わらせたであろう関係が再び出会う時、それでもあの時はこうして良かったねと言えるオワリ方をしていたのか、そんな所である。

 

もう会わなくなることを終わりと呼ぶか、嫌われて顔も見たくなくなられる関係を終わりと呼ぶか、死を終わりと呼ぶか、そもそも定義にすら正解がない。定義がないから正解がない。

 

喜怒哀楽という言葉があるが、実際人間の感情はとても数字では分けられない数の、色の、蜘蛛の巣のように張りめぐされた鮮やかな感情がある。もっと人間の感情が蜘蛛の巣でいえばたった5本ほどから成るシンプルな構図であればよかったに違いない。

 

そんな複雑にひしめき合った僕らの感情。同じ景色でも多様な表現の出来る日本語ですら、間違いなく人間の感情に追いつく事はないだろう。意味も、種類も。

 

 

僕は随分人との距離が上手くなってきたけれど、僕が人を好きなあまり、今もまだ心地よい二人の間(ま)の感触を忘れてしまうことがある。

 

しかし、やはり大好きな人の胸に飛び込んで行くまでには一時停止や止まれの標識も、〜注意の標識もぜんぶ無視して走行したい。人間関係の正解は誰も教えてくれないと書いた通り、おそらくそれらの“標識”は誰かが僕を安全に走行できる為に作ってくれたものではなく、僕が僕自身で既に生まれた感情を抑制しようとしたり受け止めないようにした場合に見えるものだと思う。

 

この世の人間関係という名の道路は非常にくねくねしているし、全員に共通した標識もない。夫々が好きなスピードで走り、怖くて未だエンジンを踏めてない人もいれば、大好きな人に煽り運転をして嫌われている人もいる。

 

「カーズ」を思い浮かべてみて、車一台を人一人だとするならば。片方が怖くてスピードを出せない場合、それに合わせてしまえば何の美しい景色も見ることは出来ない。かといって無理に手を引っ張っても、相手は辛いだけだ。お互いが気持ちよく仲良く走る為には、お互いが同じスピードで走る必要がある。

 

時に、スピードをMAXにして追いかけっこをしてもイイ。ゆったりと走行してもイイ。ただ相手をよく見ることだ。相手のエンジン音に異常がないか、疲れていないか、自分にはない標識が相手には見えていないか。そして相手にのみ集中して自分を忘れるべからず、二人にのみ集中して周囲を忘れるべからず。

 

そうしていれば、自分の走行次第で防げた自分と相手の命は少なくとも大いに守ることが出来る。

 

まぁ、そんな安全運転をしててでも暴走車や誰も殺す気のなかった初心者マークの老人車は誰も止めることができないできない。となれば、余計に好きな人との距離やスピード感を大事にしたい。というよりか、楽しみたい。

 

全く、人間とは車社会と似ている。

 

 

 

 

はだかになりたがった少女

 

自分が生まれた日。

 

裸だった。

 

みんなが裸のぼくを抱きしめた。

 

今日はどうだろう。

 

服を着ている。

 

もうパパもママもおばあちゃんも

 

おじいちゃんも友達も

 

布を剥がしたぼくの裸体には触れてくれやしない。

 

いっそ今日まで

 

誰も服を着させてくれなきゃよかった。

 

そうしたらいつから

 

この裸体は

 

「はしたない」「みだらだ」

 

と言われるようになるだろう。

 

いつからそれは

 

「性的に誘惑している」

 

と言われるようになるだろう。

 

 

今日も様々な性的ニュースでこの世界は溢れている。

 

僕には本当に本当にわからないことだらけだ。

 

そこそこ普通に学校には行っていたのに、この世の仕組みやこの国の文化や常識というものに対する僕の脳みそはからっぽだ。

 

誰よりもわからない。

 

 

ロシアの女性教師が水着姿をネットに投稿して解雇→数千人の教師が水着姿を投稿して抗議する (2019年4月4日) - エキサイトニュース

 

ロシア人の教師が水着姿をSNSにアップして解雇されたニュースは、事故で誰かが死んだニュースよりも胸が痛かった。

 

普段ニュースに興味のないおれが、激しい怒りを覚えるのはこういった性に関するものだ。

 

といっても、少女を強姦したニュースよりも、人それぞれの性癖なのにこうした「水着姿は性的な興奮を掻き立てるものだ」とかくだらぬただその人だけの主観でその人の持つ女性美やファッション性を奪われるのが一番腹が立つ。

 

小学生を強姦した人間も、ミニスカートの中を盗撮した人間も、世間は「気持ち悪い」「おかしい」というけれど、じゃあ一体ぼくらは何に興奮をすれば“正常”なのだろう?

 

水着、ビキニが、性的興奮を掻き立てるものとしてあるのならば、性にこんなにうるさい日本のビーチで当たり前に着られているのはなぜだろう。同じ格好で街中を歩けば変人?水着を着る女は男への誘惑?

 

今日まですっかり布や革やあらゆる物を身につけるようになった人間だが、銭湯には疑問を抱かず素っ裸になるのに(それも昔は混浴だったのに)、「ヌーディストビーチが好き」というと多くの場合引かれてしまったり「危ない」と言われるこの日本は、自分がその土地の文化の色に染められていることに気付いてない。他国に行けば、銭湯が異様な光景でありビーチで裸になるのが普通、ビーチでパーカーを羽織る日本が異常だ。

 

ぼくのいう女性らしさや女性美はヨーロッパ人の感覚に近いけれど、最近は同じファッションでも「いやらしさ」の出る出ないの違いは結局その“人”にあるのだと思う。ハリウッド女優のようなほぼ裸のドレスをその辺の女の子がしたら…と言うことだ。

 

けれどやはり人それぞれ美を感じる部分もいやらしさを感じる部分も違って、またそれが混ざりあって正解がないから、いっそどこかのイスラム教徒のように布で覆われてみたい。

 

それでも黒いベールに包まれていたら、かえってそれに興奮をする人間もいるのだから、少数派の性癖を考慮してたらぼくらはもう街を歩けない。多数の人間の性癖に法律や常識の矢を合わせるのが正解なのだろうか。

 

けれど旦那にのみ女性を魅せるイスラム教徒が、今はなんだかとてもシンプルでわかりやすく思える。

 

ぼくはこの国での「女性らしい」と言われるファッションやメイクが自分の体に合わないのは別にどうでも良いが、ぼくが思う「女性らしい」ファッションが街の色や顔、そこを歩く人間の感性とキレイに混ざり溶けないのが非常に嫌なのだ。

 

もっと街に溶け込みたい。

 

けれど街は変わらない。

 

好きになれない。

 

ならば好きな街に行きたい。

 

街にも女性にも惚れていたい。

 

 

 

 

 

鼓動

 

 

大好きな人がまたひとり死んだ。

 

ドラムを叩いている彼はいつも体の底からリズムを生んでいた。

 

その鼓動がそのまま、今もみなの記憶の中で彼らしく動いている。

 

 

彼の育ちも好きなものもぼくは特に知らない。

 

会った回数もそれほど多くない。

 

それでもぼくは彼が好きだった。

 

そしてぼくと同じように

 

もしくは一度しか会っていないのに

 

すっかり彼の虜にされてしまった人が沢山いる。

 

 

「太陽みたいな人」

 

と誰かが言った。

 

 

フェイスブックの彼のページに寄せられた、

 

それぞれの人がそれぞれの言葉で表現した彼は

 

要約すればすべて"太陽みたいな人”だ。

 

 

くしゃっと笑った顔や真面目に考え込む顔が思い浮かぶ人もいれば、

 

"笑っている〇〇さんしか思い浮かびません”という人もいる。

 

 

少し前までは自分が死んだ時はみんなの記憶には

 

笑っている自分しか焼き付いてほしくなかった。

 

 

けれど命の炎を燃え尽くしたその人を思い浮かべたとき、

 

"色んな表情を思い浮かべられる人”もまた素敵だと思った。

 

 

フェイスブック上で何人かが言葉に記した彼のどの表情も

 

誰が読んでも想像がつくような彼の愛おしい表情だった。

 

 

 

 

よく、Aさんから見たその人と、Bさんから見たその人の印象が

 

全く違うことがある。

 

 

実際に、そのような人がいる。

 

 

誰かにとっては太陽みたいにいつも照っているけれど

 

公の場や初めて会う人間には光を放たない人がいる。

 

 

光を放たないだけならまだ良いが

 

黒いオーラや見えない棘を出す大人がいる。

 

 

 

けれど僕は数十時間前に死んだ彼みたいに

 

みなが口を揃えて"太陽みたいな人”と

 

言うような、そんな人間になりたい。

 

 

太陽じゃなくてもいい。

 

誰と会っても光を埋めない人になりたい。

 

 

 

 

 

家に飾っていた花が、ちょうど枯れた。

 

確かに人間は老いて死んでいくが

 

 

花でいえば

 

突然花瓶ごと倒されるように

 

ついさっきまで華麗に生きていたのに

 

突然人間に花びらを毟られるように

 

 

人間もまたそのようなことがある。

 

 

 

そんな突然死たるものがあるのなら

 

いっそ人間を老いていく生き物になんか

 

しなければよかったのに

 

 

ちゃんと老いていく生き物にするのなら

 

ちゃんと死までの経過を目で見れるように

 

ゆったりと死んでいく生き物にしてくれりゃ良かったのに

 

 

そんなことを思うが

 

どんなにゆったりとした経過で死を遂げたとて

 

人間は「急すぎる」というだろう。

 

 

ガンだろうと今にも死にそうなおじいちゃんだろうと

 

結局その人が死ぬという心の準備など

 

できやしないのだ。

 

 

どんな死に方だろうと

 

それが愛する誰かなのであれば

 

受け入れられないのが普通なのだと思いたい。

 

 

 

数日前、「死んだじいちゃんのことがまだ癒えていない」

 

と言ったぼくに誰かが

 

"簡単に癒えてしまったらそれは人の死ではないでしょう”

 

そのようなことを言った。

 

 

そうだよなぁ、と思った。

 

 

 

 

枯れた花の横に死んだじいちゃんの写真をおいて、

 

死んだ彼のことを想って線香を焚いた。

 

 

ただ切ないのである。

 

 

 

 

ただ、今までとは違うのである。

 

 

 

 

誰かが死んでいくたびに

 

今までのぼくは「もっと伝えておけばよかった」とか

 

「あのときこうしとけばよかった」という悔やみがあった。

 

 

今日のぼくは、なにも、ないのだ。

 

 

 

沢山寄せられた彼へのメッセージだけれど

 

その中でそこにそんなことを書かなくとも

 

私は僕は彼に想いをいつも告げられていたよ!とか

 

いつ死んでもいいように愛してました!とか

 

言える人はどれくらいだろう。

 

 

 

人の死とは、自分の命や家族や友達の命、

 

「人はいつ死ぬか分からないのだな」

 

そんなこの自然の摂理で最も当たり前なことを

 

何時も学ぶものである。

 

 

 

ぼくは今、彼との最後の時間を思い出しても、

 

別れ際の顔やスキンシップを思い出しても

 

何も後悔することはない。

 

 

そしてそれが誰に対しても、

 

特に後悔することはない。

 

 

 

ただ、「あの人は明日死ぬ」とか

 

「〇〇さんは明後日死ぬ」とか言われたら

 

今すぐ飛んで行きたい人は沢山いる。

 

 

けれどそんな風に考えたら

 

仕事などしてる暇も遊んでる暇もなく

 

常に世界中に散らばった愛する人に会いに行かなくてはならない。

 

 

別れ際には日が暮れて登るまで

 

首を絞めるようにハグをしなければいけない。

 

 

 

そうしているウチに

 

次から次へと大きく囲んだ腕の中でぽつぽつと

 

愛する誰かが死んでいく。

 

 

次々、死んでいく。

 

 

 

結局、その人との「最後」はくるのだ。

 

 

その最後がいつか分からない、というならば

 

結局、「今」になる。

 

 

いつもから、毎日、毎度、誰かと会うたび

 

しっかり愛していないと、

 

一番辛いのは

 

変えられない"その人が死んだこと”ではなく

 

"死んだその人を愛せなかったこと”だ。

 

 

上手くなくても良い。

 

間違っても良い。

 

ただ素直になりたい。

 

 

好きだ、と言いたい。

 

キスがしたい、ハグがしたい、

 

あなたは最高です、

 

 

そう言い放って、言い散りばめて、

 

死ぬときには遺書なんて必要ないくらい

 

体内にある愛を言葉でも音楽でも文章でも

 

吐き出し切って死んでいきたい。

 

 

ということは今から吐き出し切って生きなければならない。

 

 

自分のためにも。

 

 

 

ゴメイフクヲオイノリシマス

 

 

なんて、

 

 

 

散々に人のために愛と光で生きあげてきた彼に

 

必要ないだろう。

 

 

ご冥福=死後の幸福、なんて、

 

祈らなくたって彼には当たり前に用意された未来だろう。

 

 

ぼくはずっとずっと大好きです。

 

 

 

一度もセッションをしたことがなかったから、

 

もっとピアノの腕を磨いて天国に行きます。

 

 

ドラムと鳴りのいいピアノを用意しておいてください。

 

 

 

数回しか会っていないのに、

 

奥さんを心から愛していることが

 

ドラムではなくライブ後のキラキラした瞳から妙に伝わる人でした。

 

 

世の中にあんなに美しい瞳で奥さんを想う人もいるのだな、と

 

感じた日でした。

 

 

それぞれ彼を想う人の中で、それぞれ彼とのストーリーがありますが

 

そこに映る彼の表情や愛はみなに共通したものだったと思います。

 

 

本当にありがとう。

 

 

安らかに、なんて感じではないから

 

天国でもはしゃいでてほしいな。

 

 

 

なんて。

 

 

 

 

またね。

 

 

 

f:id:jigsawww23:20190404102758j:image

See you again.

 

 

100人の村

 

村の人口が100人だと決まっていてもう減ることも増えることもないとするならば、そして99人のことをよく知っているのならば。

 

少なくとも5.6人は好きになれる異性がいるだろうか。それともたった1人だけ誰にも譲れないほど恋に落ちる異性がいるだろうか。はたまた恋とは違う1人のパートナーとして一緒にいたい異性が存在するだろうか。

 

そして村の男の人の中で、自分を好きな人は何人いるだろうか。何人かに好かれることで、自分を憎むメスが何人現れるのか。

 

そして自分が好きになった5.6人みんなを愛することで、自分を嫌いになる人はどれくらいいるだろうか。

 

自分がこの人!と1人に愛の的を絞ることで、自分を愛してくれているはずだった誰かの顔を下に向けることもあるだろう。

 

自分があなたしかいないのよ!と1人に愛を告げることで、喜ぶ者は容赦なく喜びを得、それにより愛せたであろう数人の村人を愛から弾いたりする。

 

99人のことをよく知っていたとして、それでいてこの人!と1人に絞ったところで、その思いを変えられるのはたったひとり、「時間」である。

 

時間と共に人が成長をしていくのだから、食って寝て食って寝るだけの生活をしていても、人は人と関わり、何もない一日が何日も何十日も何百日も募れば、人は気付けばシワや脂肪が増えているのである。人間関係の話だ。

 

そうなれば、人の心はそれぞれ変化する。

 

ある事柄を経験して思考が変わったり、ある人と会って価値観が広がったり、そうなれば昔の脳みそではキライだとかバカだと判断していた誰かを好きになってしまったり、若しくは「馬鹿がすることだ」と浮気を全否定していた者が「浮気は文化だ」と裸の自分を世に生ませる許可を出したりする。

 

そうして村では今日も一人を好む人、誰かと寝ないと気が済まない人、好きではないけれど同じベッドで寝ている人、本当はあの人と寝たい人、あの人と寝れているあの子が許せない人、そんな人間でぎゅうぎゅうだ。

 

あつくるしい。