BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

「人」接客業を辞めた理由

 

もう大分まえだ。ある人に「パーシーのどこが好きなん?」と聞いたら、限りなく語彙力を削り落とした舌足らずの状態で十分に間をとった後、「…人。うん、人。常に“人”って感じなんだよね。」と言った。その後、彼は首を傾げて何か言葉を足そうと試みたが、足される言葉は見つからなかった。“人くさい”。それがこの世に生まれた自分にとって最も嬉しい言葉であった。

 

 

高校生になり、初めてのバイト先はチェーン店での接客業。マニュアル通りのロボット人間しか求められない職場は、自分にとってまるで酸素がなかった。その後カレー屋、居酒屋、アメリカ料理屋、と新たな飲食店に移る度にマニュアルというものから離れて行き、面白い具合に「自由度」が上がっていった。

 

最後に経験したアメリカ料理のお店では、本当に「そのままの自分」でホールに立たせてもらい、変にかしこまることもなく肩の力が入ることはなかった。お客さんにもスタッフからも愛され、最初の某チェーン店での泣きながら商品をパックに詰め込んでいた自分など忘れさせてもらっていた。

 

しかし、だ。それでも自分が「店の人」でありバーカウンターの向こう側に座る人間は何がなんでも「お客様」だというのが心地よくなかった。

 

せっかく、そこのお店という空間がなければ出会っていなかった人間達が同じ空間でお酒を片手に腹を割って話せるようになり、友達のようになっても、せめて営業時間中は「店員」と「お客さん」でないといけないのだ。それがゆるせなかった。

 

スナックで働いたこともあるが、店員と客との間にあるのはあくまで"お酒を置く”ためのテーブルであり、なぜ心までテーブルで遮らなければいけないのか本当に理解ができないのだ。というか、悲しいのだ。

 

もちろん、これは仲良くなった時の話であって、場所と料理だけを提供するお店もあっていいし、自分もそういったお店を利用したい時もある。

 

けれど僕らは人間だ。

 

場所と料理だけを提供する店なら、ホールに立つのはロボットでいい。ロボットですら、客に愛想をつかしてかわいそうだ。

 

僕はどんな時も人間であり、"人間同士”でいたいのだ。

 

人が好きだから接客業から自然と離れなかった。

 

でも人が好きすぎるから接客業から離れることになった。

 

でも僕はやっぱり人間がすきなのだ。

 

飲食店の良くない点としては、初めてきたお客さんと交渉したり注文を断ったりすることができず、新規のお客にはしっかりと平等に誰でも接客しなければいけない点だ。

 

カメラマンであれば、こちらが「撮りたい」と思う魅力のある人間以外は、最初からお断りする。けれど飲食店に足を運んできたお客には、よほどイッてしまった態度でない限りは席へ通す。「どうしても食べさせてたい!」と思わない客に対しても最大限のいつも通りの料理を提供しなければいけない。

 

そして厄介なのは、また来るかどうかは客が決める、ということだ。

 

"客”であるのだからどんな職でさえそうではあるが、お店側にも客を選ぶ権利はある。というより、それくらいお店や食に対する意識レベルが同等の者のみを厳選したい。

 

ところが、客に対して「食に対してどうお考えですか?」と聞くことはないし、お店側はある程度「こういう思いで、熱意で料理を提供しています」と熱く訴えたところで直接的に客とそんな会話が初めから生ませられる訳ではない。

 

店のコンセプトや料理やこだわり、熱意を受け取った者だけに料理を提供できたら、それはどんなに嬉しいことだろう。

 

なにも知らない客にも、最初から「合わない」のに勘違いして来た客にも、味の彩度も優しさも分からない冷めた舌を持った悪口を言いたいだけの客にも、「お店に来たら接客する」というのはあまりにも全てがムダだ。その間、お店を本当に愛している人にだけ接客をしたい。食べてもらいたい。

 

料理なんだから、「一度食べないと分からない」のは当然であるけれど、どんなに舌とは相性が良くたって、店の雰囲気や店員と合わないのであれば僕は行きたくないし、来て欲しくもない。

 

「味はビミョウだけど、〇〇ちゃんが可愛いから」

 

というのも嬉しくない。

 

そこに存在する全て、また背景までもがピッタリと合うもしくは刺激し合える者同士になって、はじめて喜べる。

 

 

だって、互いにとって良くないのだ。

 

店に入って思っていた雰囲気と違ったのなら帰ってくれたらいいし、既に「ちがうな」と思った客に対して「うちの料理を食ってから言え!」といった熱意も情もさらさらない。むしろ店に入って、「なにここ素敵すぎる!!」と感動をしてくれるくらいのお客が愛おしくてたまらない。

 

それくらい、もし自分がお店を開くのなら料理だけでなく空間、照明一つ一つを「こだわり」で固めたものにしたい。場を提供するような店ではなく全てにこだわっているのだから、その全てのこだわりを"感じて”くれる人間しかいらないのだ。

 

 

 

 

人間が好きで接客業をしている人は、口角が上がらなくなったコンビニの店員とは違い、一人一人のお客を一人の人間としていつも見ている。接している。そして自分自身も、他の誰かになったり嘘の愛想を尽かすことなく常に自分でいる。

 

だから愛してくれるお客さんがいれば素直に嬉しいし、悪口を言ってくるお客さんがいれば素直に傷ついてしまうのだ。でも面倒なことに、直接悪口を言ってくる人は稀でみながその場では笑顔を取り繕い、ネットや裏の世界で悪口を言うのだ。

 

接客業とは、本当に色んな人間の、色んな人間の顔を観る職業である。

 

そんなときどうするかと言えば、そこで僕らを元気づけるのもまた人間であり、結局人間に傷つけられては元気をもらい、同じように知らず知らず自分も誰かにそうしている。

 

だから結局、誰よりも人がキライで、誰よりも人がすき。

 

ノーマルな接客をして、例えば「お客様のネイル、素敵ですね」とか「今日はお休みですか?」なんてマニュアルからはみ出した言葉を口にするのは一切しないのなら、敵も味方も大した熱がないだろう。

 

まだまだ僕は強くないから、敵なんか鬱陶しいと思うのがきっと素直な気持ちだろうし、同時に強い敵がいることで人気者としての僕を認知できている僕もいる。というのは、人気者には必ずそれがいるからだ。

 

 

もしスーパーのレジをするなら、どんなに並んでいても尚みんなが長蛇の列を作る一番のレジ打ちでいたいし、横にセルフレジがあるのにも関わらずみんなが僕から買いたがる。そんな人間になりたいが、横のレジに並ぶ人からは「あの人の何がいいの?」「わざわざ並ぶ必要なくない?」と分からない人にはさっぱり理解出来ない魅力は、カッコイイ。

 

 

 

独りでに観に行った風変わりなピアニストの映画で、ファンが沢山いる彼が、

 

「もっと憎んでくれ!!!」

 

と叫んでいたシーンが忘れられない。

 

 

語るだけでなく結果を出して、羽生君の様に圧倒的なオーラと敵を寄せ付けない鋼のバリアを手に入れたい。その為にはここで語ることも重要であり、もっともっと圧倒的な努力と経験を積みたい。なぜなら夢や思考、脳みその中身を他人に晒す人すら、限りなく少ないからだ。

 

 

結局僕は、人を嫌いになれないまま人がイヤになり、

 

結局僕は、人が大好きでありみんなと手を繋ぎたい。

 

 

けれど

 

通じない人は

 

通じない。

 

わからない人は

 

死んでもわからない。

 

いらない。

あの日、ぼくのお父さんは見たこともない顔をした。

あの日、ぼくのお父さんは見たこともない顔をした。

 


こんなにずっと一緒にいたはずなのに、見たこともない顔をした。

 


こんなにずっとひとつ屋根の下にいたはずなのに、そうでもなかった。

 

それは春の雪をキラキラと

照らし溶かす太陽のように。

 

またその輝いた雪のように。

 

極めて美しく、目に留まっていた透明の涙は太陽が照らす水溜まりのようだった。

 

あぁこんな表情も見ないまま、人は一番近くの人を知らないまま失っていくのだと思った朝だった。


あんなに美しい表情を見てしまったけれど、見れて嬉しい気持ちと同時に、死に際にその表情が思い浮かぶのだと思うと、見たくなかった気持ちもあるのだ。


それほどにかつてなく、言葉とはかけ離れた所にいる表情だった。

 

 

 

 


ぼくはパパが大好きだった。

 


いまもだいすきだ。

 


でも知らない顔がたくさんある。

 


家族は一番ちかくにいて

 


一番理解があって

 


何でも知っていると嘘をついたのは

 


だれだろう

 


だれも嘘なんてついていないのに

 


家族がそういうものだと

 


思っていたのはつい最近までだ。

 


ひょっとしたら

 


職場の人の方が

 


家族のことをもっともっと

 


知っているのかもしれない。

 


ひょっとしたら

 


浮気相手の方が知っているのかもしれない。

 


なにを切り取って

 


その人を知っているというのか

 


ぼくにはわからない。

 


その人の子供であれば

 


その人が男、や女として機能している顔や体を知らないし

 


けれども浮気相手はそれを知っていたとしても

 


父、や母としての顔は知らない。

 


その人の明も闇も理性もエロも

 


全てを知らないのにも関わらず

 


人は今日も好きだ嫌いだと

 


野菜の好き嫌いのように

 


人を区別する。

 


でも

 


別にいいのだ。

 


全て知る必要はない。

 


全て知ろうとしたって

 


知ったと思ったって

 


どんなに全方位からその人を見渡しても

 


知れるのはその人の一部でしかないのだから。

 


本人すら、一部しか知らないのだから。

 


わからないのだから。

 


だれも知らない。

 

 

 

 

 

 

死んだ魚の目は死んでいない

 

今まで、魚にとっても失礼なことを言っていた。

 

生きる喜びや目的を失っている人や社畜の人間の目を、「死んだ魚の目」とよく聞いたり言ったりすることがあったけれど、それは間違いでした。

 

昨日、居酒屋の食卓に出てきた活エビの目は、とっても愛おしくてかわいらしかった。そもそも魚でもないし、死んでもいないけれど、あと数秒で人間の手により殺されるエビの目はあまりに円らであり、頭を撫でたくなるようだった。

 

実際には、飛び跳ねるエビを目の前に、ぎゃーぎゃー騒いでいたわけであるけれど、自分の意思とは関係なく声をあげることも出来ない状態で人間の食卓に出されてはきゃーきゃー騒がれるエビの気持ちといったら、考えることもできない。なんて残酷な人間だ、と思う。それでもエビが人間の前に座れて、間近に人間を見られて喜んでいる可能性もなくはないので、エビにならないと分からない。

 

 

エビの心臓は頭にあるときいた。

 

そんなことも知らず、水もなく皮を剥ぎ取られても尚ピクピクと生を生きているエビに対して、「なぜ死なないの?」と不思議がったり、気持ち悪がったり。

 

心臓が胸元にあることすら人間だけの常識であり、それでも誰かを解剖して自分の目で見たこともない心臓が果たして本当に胸元にあるのかすら、100%と言い切れないのが僕である。愛しい誰かの胸に耳を寄せつけて、どくんどくんと音がしたところで、それは一生懸命生きている精巣の音かも、子宮の音かも分からないのである。

 

もし僕が子供を産んだとして、「胸から聞こえるどくんどくんは子宮の音だよ」と教えこめば、その子は胸元に手をあて子宮の音だと想いながら死んでいくのだ。

 

それとも本能的にそこが大事な心臓であることを、僕らは無意識的にわかっていたりでもするのだろうか?腎臓がどこかは勉強しなくては分からないのとは違って、何か無意識的に心臓を守ろうとしているのだろうか。わからないことがたくさんある。

 

 

本当に光を失った魚の目を、光を失った人間の目と重ねるのはよく言えているが、なんだかエビの目を見ていたら違うような気がしてならなかった。

 

死んだ魚の目は確かにしんでいる。けれど僕たちが今まで見たことのない美しい海の中の景色や魚達の狩りの様子、僕たちが知らない海の中の沢山の生物を確かに映してきたその眼は、生きる目的や喜びを失い切った大人達よりもずっとずっと美しいものに僕は感じる。可能なことなら、その目ん玉を一分だけでもはめてみたい。

 

 

この日本には様々な人間がいる。

 

どこにいったってそうなわけであるがしかし、日本の外に行って実際にその空気や情熱や人間や生や色をその手で目で鼻で感じたことのある人間には、より"様々”であり、あくまでも日本人がこの広い地球の中のたった一部の文化や組織でしかないことが分かっている。料理を手で掴み食べることがマナー違反の日本の外では、料理を手で掴み食べることが当たり前の国が存在する。でもそのことを知らず、その国の人間が日本に遊びにきた際に手で料理を頬ばろうなんてしたら。きっと"内”しか知らない日本人は怒ってしまうだろう。

 

僕は街中を歩く多くの人間よりも興味が外にあって、そのスケールは壮大なものだけれど、それは同時に内を知ることでもある。内に興味があるのである。

 

日本という狭い内しか知らないで光を失った大人達は、光を失っていない輝いた子供達の目まで針を、いや槍を刺す。まるで人間の血を吸い取るハチのように。

 

僕は一人でも多くの子供、といっても20代でも30代でも40代、はたまたそれ以降でも、まだ心の中に小さな小人状態でも泥遊びをした子供の頃の心や記憶を持った大人達(子供達)がいるのならば、救いあげたいのだ。その人を助けたいというより、その人の中に何十年も蓋をされ窒息されてしまっている"子供”の目、心を再生したいのだ。

 

これがきっと、僕が日本にいることでどうしようもなく息苦しくなって、けれどどうしても息苦しいそこで、息苦しいそこだからこそ、体の全てを使ってでも表現したくてしたくて変えたくて変えたくてウズウズして、たまに爆発する理由だろう。

 

「変わりたくない」と思っている人間を変えたい意思も意味もない。

 

 

でも、気づいてない人が多い。

 

知らず知らず、人は自分を何かで縛り付け、それが仕事なのか時間なのか、なにであるかはそれぞれだけれど、日本では仕事がほとんどだ。それから女性として生きることへの、躊躇、ならぬ、押さえ込み。

 

僕が言いたいのは、「自分の顔をみてよ」。ただそれだけだ。

 

なぜ僕が日本人の目が死んでるだとかオワッテルという表現をしてしまうかは、顔が、目が、生きていないからだ。もちろん全員じゃない。けれど街を歩いても、地下鉄を乗っても、そこに流れ出す空気は僕が今まで歩いてきたヨーロッパの各国よりも、人間くさいアジアよりも、はるかに、「さみしい」のだ。

 

そして僕がこういう考えや「日本のここ、おかしいよ(かなしいよ)」という台詞に異常に反応したり抵抗したりしてくる大人の顔で、美しかった顔はひとつもない。あくまで僕自身の感じ方だから、僕の捉え方に正解も不正解もないけれど、僕の目には"なにかに囚われている”、"なにかで自分を縛り付けている”様にしかいつも映らないのである。

 

ピアノが弾きたい。

 

浸かりたい。

 

まだ売れずにいる。

 

家を失くした少女

 

家にかえると、ぼくのものはすっかり、いやほとんどなかった。

 

ぼくは泣いてしまった。

 

洗面所のコップも、ふとんも。

 

ぼくは悲しかった。

 

もう引っ越しているし別になにもおかしいことではないけれど。

 

ほっとするために家にかえってきたのに、僕は悲しさとストレスで泣いてしまった。

 

僕は僕の身体に本当にワガママなのだ。

 

他に誰も先に入っていないお風呂と、ココナッツのお線香、スピーカーから流すジャズピアノ、広いベッド、ぬいぐるみ、バスローブ。

 

もしも長い旅行の帰りにその時間と空間を奪われて、つまり「いってきます」をした拠点となる愛しの場所に「ただいま」を言えなくなってしまったら。

 

僕はただただ、悲しくなる。

 

津波で家を失くした人の前で、こんなことが辛いと言えるかといったら、僕は言える。

 

物理的に家というものがなくなる辛さも、思い出のある家に見知らぬ誰かが住むことも、家はあるのに家族がいなくなることも、其々別の辛さなのだ。

 

僕は実家を失うことになるが、それは、僕に、実家があったということ。

 

実家があったということは、家族がいたということ。家族は今でも僕の中にいる。

 

最初から家族すら、いないものもいる。

 

そんな世界で、おぎゃあとへその緒から離れた瞬間に街の大人達みんなが家族のように抱きしめてくれたらどんなに平和なんだろうと思う。

 

大人になってから家、や家族を失ったものにも、辺りの人間みんなが手を広げてくれたら。

 

家とは、「あなたはそれでいいんだよ」と言ってくれる人や場所である。

 

みんなが、みんなに、そう言えればいいのに。

 

みんなが、じぶんに、そう言ってあげられれば淋しくないのに。

 

外人が友達のことをブラザー、とかファミリー、と呼ぶ感覚が僕の中には荒々しくどっしりと座っているから、僕は時に悲しくなる。「困ってるんだから、助けるのが当たり前でしょ??」という家族の間に流れる温かさと同じ空気を持つ友人関係を、日本ではあまり感じない。

 

僕はいちいちハグを交わしたいし、キスだって挨拶のように愛情表現でしたい。

 

なんの話か分からなくなった。

 

ぼくは強くなる。

 

 

 

 

 

 

ぼくが雪だとするならば

 

今日しぬのなら

あんなにうざかった大雪もぜんぶ

雪粒ひとつひとつが愛おしくなるんだろう

 

革の手袋を脱いで

こどものように手の温もりで

そっと雪を溶かすんだろう

 

雪玉を作って誰かにぶつけたい心理よりも

初めて雪をさわったあの日のように

ただ触れて味わいたいと思うんだろう

 

 

雪がとけて

うざかった雪かきとのお別れを喜ぶ者

 

雪かきしかやることがなくなっていた者には

ぽっかりと時間と空白

 

 

誰もがはしゃいだはずだ

 

小さい時から雪が嫌いだった子はあまり聞かない

 

 

日本では毎年毎年雪が地に降りてくれるけれど

姿形を変えていないのにも関わらず

 

なんにもしてないのに

 

ただ降っているだけなのに

 

自分の意思と関わらず寒くて積もったり

暑くなって溶けて消えてしまったり

 

なのに

 

空から舞い降りた瞬間から

自分の誕生を飛び跳ねて喜んでくれる者と

 

重い溜息をついてカーテンを閉める者がいる

 

 

なんて可哀想なのだとおもう

 

 

ぼくが雪だとするなら

 

毎年毎年空から降りることはしたくない

 

 

みんなから好かれる程度に

何十年かに一度のレア感を抱かせるように

 

いくら空から地上から降れ、降れと言われたって

僕はたまにしか姿を見せない愛され者でいたい

 

 

だけど毎年毎年

 

僕を大喜びしてくれる人たちのために

それは雪の降らない国の人のためにも

子供のためにも大人のためにも

 

ただ僕で大喜びをしてくれる人

 

それだけのために

 

僕は来年の冬も空から舞い落ちるだろう

 

 

僕は「こう使ってね」などと一切声を発せないのに

 

僕の長所を最大限に使って遊んでくれる子供達

僕が愛される、僕の居場所のスキー場

ただ眺めて「美しいね」と言ってくれるマダム達

 

その人たちがいれば

 

僕は地上に降り立つまでに

涙を流さずしてやっと地に着ける

 

 

僕を見たくないという大人達は

決して窓のカーテンを開けることはないけれど

 

ただそこにいるだけで

 

ただそこにいるだけで

 

愛されたり

 

憎まれたり

 

まるで人間のようだ

 

人間同士のようだ

 

 

どんなに嫌いな人間も

 

その人が今日死ぬとわかったとすれば

 

 

「よっしゃあ!」と言える人間の方が少ないと思う

 

 

それくらい

 

誰かを嫌いになって悪口を言ったり

誰かをいじめるような人間もまた

 

いじらめられる人間同様に

 

いや

 

いじめられる人間よりも遥かに

心はちっぽけなのだ

 

 

みな

 

みんな

 

誰かに愛されたいの

 

 

 

ママに

 

 

パパに

 

 

 

自分自身に。