BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

たいよう

 

今日も太陽は昇った。

 

真っ白な部屋。天井から流れる穏やかなピアノと女性の歌声が、ぼんやりとした朝日と優しく共鳴している。

 

この穏やかさとは正反対の、変な夢ばかり見た。

 

感情が爆発、というより静かに激しく啜り泣いている僕を、どこにも安堵させる場所がなく、一人で悶々としている夢だった。本当は知人や友達に泣いた声を抱きしめて欲しいのに、俺の弱みなど入っていく隙もないテンションの高い女の子についていく俺だった。

 

地球がおかしくなったり破滅に向かわない限り、不変的にいつも居てくれるのは太陽や月、星、空、雲。けれど夜を歩く大人達で、「星が綺麗だね」「満月だね」と気付ける人はどれだけだろう。真っ黒な煙が続く戦争中や、闘病生活の簡素な部屋にいれば、一日の朝日の美しさは生きている大きな喜びとなるのに、だ。太陽がいなくなんなきゃ、あいつがどんだけ凄いか、分かんない。

 

僕らはいつも。いつも、いつになっても失わなければ解らない、愚かで愛おしく、馬鹿な生き物だ。

 

それでも、「いなくならないと私の価値が分からないのね!」と不貞腐れずに毎日燦々と照り続ける太陽に僕はなれるだろうか。

 

死ぬ間際、沢山の人間に感謝をする人ばかりで、地球や自然に感謝する人はどれくらいなんだろうか。分からないけれど、家族や友達が「今日も明日も生きている」と当たり前に何も疑わないのは、ひょっとしたら「太陽が登る」くらい本当は奇跡で、あまりにいつも居てくれるから自然に感じてしまう、おんなじような存在なんじゃないかな。

 

太陽はまだしも、夜空にどれだけギラギラと輝きを放っても注目されない星でさえ、何も文句を言わずにただいてくれる。なにも僕達の為に生まれた訳でも輝いてる訳でもなく、「ただそこにいる」のかもしれないけれど、星がない夜空より星がある夜空の方がずっと美しい。

 

枯れていく落ち葉や真っ白な雪は無くても困らないけれど、あった方が美しい。「僕が雪だったらたまにしか降らずにみんなに喜ばれるくらいがいい」と前に書いたのは、子供の頃は誰でも喜ぶ雪でも、降りすぎたり雪かきの必要な人には邪魔な存在になるからだ。

 

そういった意味では、日焼けで嫌われても物理的に誰にでも必要な太陽と、喜んでくれる人は大いに喜んでくれて嫌がる人には唾を飛ばされる絶対的に必要ではない雪なら、僕は雪を選ぶかな。

 

いやいや、多くの人に溜息をつかれて避けられるのなら、「今日は天気がいいね」くらいでも多くの人が微笑む程度の姿を静かに見守る太陽の方が良いかな。

 

でも僕はひねくれてるから、ワンシーズンしか姿を出さない「珍」な生き物でいたがるんだろうなぁ。

 

なんて書いていたら太陽が隠れてしまった。

 

僕の大好きなコンクリートの壁の向こうに。