BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

鼓動

 

 

大好きな人がまたひとり死んだ。

 

ドラムを叩いている彼はいつも体の底からリズムを生んでいた。

 

その鼓動がそのまま、今もみなの記憶の中で彼らしく動いている。

 

 

彼の育ちも好きなものもぼくは特に知らない。

 

会った回数もそれほど多くない。

 

それでもぼくは彼が好きだった。

 

そしてぼくと同じように

 

もしくは一度しか会っていないのに

 

すっかり彼の虜にされてしまった人が沢山いる。

 

 

「太陽みたいな人」

 

と誰かが言った。

 

 

フェイスブックの彼のページに寄せられた、

 

それぞれの人がそれぞれの言葉で表現した彼は

 

要約すればすべて"太陽みたいな人”だ。

 

 

くしゃっと笑った顔や真面目に考え込む顔が思い浮かぶ人もいれば、

 

"笑っている〇〇さんしか思い浮かびません”という人もいる。

 

 

少し前までは自分が死んだ時はみんなの記憶には

 

笑っている自分しか焼き付いてほしくなかった。

 

 

けれど命の炎を燃え尽くしたその人を思い浮かべたとき、

 

"色んな表情を思い浮かべられる人”もまた素敵だと思った。

 

 

フェイスブック上で何人かが言葉に記した彼のどの表情も

 

誰が読んでも想像がつくような彼の愛おしい表情だった。

 

 

 

 

よく、Aさんから見たその人と、Bさんから見たその人の印象が

 

全く違うことがある。

 

 

実際に、そのような人がいる。

 

 

誰かにとっては太陽みたいにいつも照っているけれど

 

公の場や初めて会う人間には光を放たない人がいる。

 

 

光を放たないだけならまだ良いが

 

黒いオーラや見えない棘を出す大人がいる。

 

 

 

けれど僕は数十時間前に死んだ彼みたいに

 

みなが口を揃えて"太陽みたいな人”と

 

言うような、そんな人間になりたい。

 

 

太陽じゃなくてもいい。

 

誰と会っても光を埋めない人になりたい。

 

 

 

 

 

家に飾っていた花が、ちょうど枯れた。

 

確かに人間は老いて死んでいくが

 

 

花でいえば

 

突然花瓶ごと倒されるように

 

ついさっきまで華麗に生きていたのに

 

突然人間に花びらを毟られるように

 

 

人間もまたそのようなことがある。

 

 

 

そんな突然死たるものがあるのなら

 

いっそ人間を老いていく生き物になんか

 

しなければよかったのに

 

 

ちゃんと老いていく生き物にするのなら

 

ちゃんと死までの経過を目で見れるように

 

ゆったりと死んでいく生き物にしてくれりゃ良かったのに

 

 

そんなことを思うが

 

どんなにゆったりとした経過で死を遂げたとて

 

人間は「急すぎる」というだろう。

 

 

ガンだろうと今にも死にそうなおじいちゃんだろうと

 

結局その人が死ぬという心の準備など

 

できやしないのだ。

 

 

どんな死に方だろうと

 

それが愛する誰かなのであれば

 

受け入れられないのが普通なのだと思いたい。

 

 

 

数日前、「死んだじいちゃんのことがまだ癒えていない」

 

と言ったぼくに誰かが

 

"簡単に癒えてしまったらそれは人の死ではないでしょう”

 

そのようなことを言った。

 

 

そうだよなぁ、と思った。

 

 

 

 

枯れた花の横に死んだじいちゃんの写真をおいて、

 

死んだ彼のことを想って線香を焚いた。

 

 

ただ切ないのである。

 

 

 

 

ただ、今までとは違うのである。

 

 

 

 

誰かが死んでいくたびに

 

今までのぼくは「もっと伝えておけばよかった」とか

 

「あのときこうしとけばよかった」という悔やみがあった。

 

 

今日のぼくは、なにも、ないのだ。

 

 

 

沢山寄せられた彼へのメッセージだけれど

 

その中でそこにそんなことを書かなくとも

 

私は僕は彼に想いをいつも告げられていたよ!とか

 

いつ死んでもいいように愛してました!とか

 

言える人はどれくらいだろう。

 

 

 

人の死とは、自分の命や家族や友達の命、

 

「人はいつ死ぬか分からないのだな」

 

そんなこの自然の摂理で最も当たり前なことを

 

何時も学ぶものである。

 

 

 

ぼくは今、彼との最後の時間を思い出しても、

 

別れ際の顔やスキンシップを思い出しても

 

何も後悔することはない。

 

 

そしてそれが誰に対しても、

 

特に後悔することはない。

 

 

 

ただ、「あの人は明日死ぬ」とか

 

「〇〇さんは明後日死ぬ」とか言われたら

 

今すぐ飛んで行きたい人は沢山いる。

 

 

けれどそんな風に考えたら

 

仕事などしてる暇も遊んでる暇もなく

 

常に世界中に散らばった愛する人に会いに行かなくてはならない。

 

 

別れ際には日が暮れて登るまで

 

首を絞めるようにハグをしなければいけない。

 

 

 

そうしているウチに

 

次から次へと大きく囲んだ腕の中でぽつぽつと

 

愛する誰かが死んでいく。

 

 

次々、死んでいく。

 

 

 

結局、その人との「最後」はくるのだ。

 

 

その最後がいつか分からない、というならば

 

結局、「今」になる。

 

 

いつもから、毎日、毎度、誰かと会うたび

 

しっかり愛していないと、

 

一番辛いのは

 

変えられない"その人が死んだこと”ではなく

 

"死んだその人を愛せなかったこと”だ。

 

 

上手くなくても良い。

 

間違っても良い。

 

ただ素直になりたい。

 

 

好きだ、と言いたい。

 

キスがしたい、ハグがしたい、

 

あなたは最高です、

 

 

そう言い放って、言い散りばめて、

 

死ぬときには遺書なんて必要ないくらい

 

体内にある愛を言葉でも音楽でも文章でも

 

吐き出し切って死んでいきたい。

 

 

ということは今から吐き出し切って生きなければならない。

 

 

自分のためにも。

 

 

 

ゴメイフクヲオイノリシマス

 

 

なんて、

 

 

 

散々に人のために愛と光で生きあげてきた彼に

 

必要ないだろう。

 

 

ご冥福=死後の幸福、なんて、

 

祈らなくたって彼には当たり前に用意された未来だろう。

 

 

ぼくはずっとずっと大好きです。

 

 

 

一度もセッションをしたことがなかったから、

 

もっとピアノの腕を磨いて天国に行きます。

 

 

ドラムと鳴りのいいピアノを用意しておいてください。

 

 

 

数回しか会っていないのに、

 

奥さんを心から愛していることが

 

ドラムではなくライブ後のキラキラした瞳から妙に伝わる人でした。

 

 

世の中にあんなに美しい瞳で奥さんを想う人もいるのだな、と

 

感じた日でした。

 

 

それぞれ彼を想う人の中で、それぞれ彼とのストーリーがありますが

 

そこに映る彼の表情や愛はみなに共通したものだったと思います。

 

 

本当にありがとう。

 

 

安らかに、なんて感じではないから

 

天国でもはしゃいでてほしいな。

 

 

 

なんて。

 

 

 

 

またね。

 

 

 

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See you again.