BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

【Piano Man】22日間で変わったアーティストの定義

 

二人分のシートに横になる。

 

腕の中にはグレムリン

 

視界には10cmヒールの革スニーカー、

折り曲げた膝、ジーンズ、濡れた窓。

 

この景色は僕の数々の旅で未だそうそうない。

 

あの日、裸足を愛していた僕の足元はいつもKEENのサンダルだったからだ。

 

雨の中バスに乗る事もそうそう多くはない。

 

けれど耳の中には雨の日ご定番、Jack Johnsonが駆け巡っているから僕の耳にとってはいつもの雨の日らしい。

 

 

僕はこの先この地球のどこに身を置く時間が多いのか、さっぱり分からない。

 

ただ、「これから死ぬまで一生日本から出ては行けません。」と言われたら、僕は生きられるか心配である。

 

食糧など何一つ不自由なく、愛する家族と最も近くになれるこの場所なのに、日本という小さな小さな島の空気だけを吸っていると僕はどうも「生」に情熱と生々しさを感じられない。

 

僕の小さな心臓が身体の隅々にまで血を送ったり神経が正常に動作する為には、酸素やら二酸化炭素やらの元素では表現出来ない、別の何かの空気が足りないのである。

 

僕のホームシックはいわゆるホームシックでは無い。僕が示す「ホーム」とは僕がまだ知らない地であり、そこに行くと故郷の様に感じる場所。僕の魂のおそらく少ない生まれ変わりの中で、初めの方に僕が住んでいた場所。

 

 

クロアチアは随分天国だったが、天国の様な国いたら僕の創作性は死んでしまう。

 

僕がアーティストでは無くなる。

 

そんな天国の様な街にアーティストは必要無いし、僕にも必要じゃないからだ。

 

歌手やミュージシャンは要るだろうが、皆がただシンプルで幸福な生活をしている街に表現者という名のアーティストが生まれるとは思えない。もし生まれたとしたら、そいつは外の世界も見ている孤独な奴だ。もしくは、幸せそうに見えるその街の中のゴミや糞やハエを見逃さずに一人でそれを見つめている少年だ。

 

僕の中でのアーティスト性、は今はこういう思いだけれど正解もうんこもなければ明日にはなんと言ってるか分からない。

 

でもそういった「独り」という孤独感や疎外感を持たずして周りと同じ考えを持った大多数と同様の価値観を持つ者に、何が喉の奥から生まれると言うのだろう。

 

(2020年10月10日)

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(以下2020年11月1日)

 

しかし、この数日で実際に「アーティスト」という概念が既に変わりつつある。

 

Billy Joelの「Piano Man」のせいである。

 

世のクソさを音や文字に並べるよりも、その人の“人生”を音や文字に産み替えした方が、曲にもその人が乗って、聴いている人もそれに乗るんではないかと思った。まるでその人自身が音符になり五線譜に乗っかかっている様な。

 

もっと言えば、あんなオッサン格好良さのある「Piano Man」を若くして歌っているビリー君よりも、歳の取ったビリー君が歌っている「Piano Man」の方が遥かに染みる。それは誰にもカバーなど出来ない、またビリー君でさえ当時の自分のカバーも、未来の自分のカバーも出来ない歌だと思う。

 

そんな人生そのものの様な音楽は、「音楽」という乏しい囲いに閉じ込めずに「芸術」という広い囲いで感じざるを得ないのであり、それをする人を「芸術家」というのかもしれない。

 

そうなれば僕は逆に皆が日常的にアーティストなんだとも思う。食器を洗う時の口笛や、喧嘩をした後に奏でるイビキのハーモニー。そんな自然に産まれるもの。

 

確かに僕は生きづらさを強く感じているのだから、生きづらさを歌っても良いだろう。別になんだって良いだろう。ところが僕が感じたいのはその真逆であり、愛の音色だ。

 

???

 

いいや、読み返すとよく分かる。生きづらさを感じている人が、最も「愛」を求めて生きているんだから当たり前だ。

求めるという事は、それがどんなモノか知っているのだろうか。覚えているから、求め歌うのだろうか。

 

今までは「作曲」とはうんこみたいな物で、体にたまった老廃物を出さざるを得なくなった状態だと表現していたが、それには多少なりとも踏ん張りが要る。今表すならそれは呼吸の様に自然に在り、「人生そのもの」。分かりやすく言えば「その人生を映画にした時の挿入歌、主題歌」。

 

と大袈裟に言うと何か壮大な経験を語らねば、と思うけれど例えば今日だけの出来事だって歌に出来る。むしろ「今日」だけを語れば、忘れ去られて行くだけだった何でもない一日がとても愛おしくなる。僕がカメラをしていた頃、「誰にも撮られたことの無い物や風景」を収めたかった心と似ている。

 

「洋楽の歌詞は日記みたいでハラタツ」とシンプルさに腹を立てていた俺だけれど、頭をひねり出して出る難しい表現など、裸の音楽には要らなかった。個人の体験を歌っても、思えばドラマや小説だって、経験した事の無いはずの他人が感情移入している。

 

勿論、カッコイイ音が恋しくなれば、たまにはファッションを楽しんだ音楽でも良いよ。だけど僕は楽器の声も聴いてやらんといけないから、ピアノが「たまには格好よく僕を魅せてよ!」と言うのなら、僕はジャギジャギな音を奏でる。

 

※僕に巨乳ピアノYouTuberになれば?と言った人は僕の乳はともあれ、ピアノと音楽に死ぬほど失礼なのでドロンしてください。

 

 

こんな事を言っておきながら僕が他人の作ったPiano Manを歌いたいのは、そこにストーリーがあり僕の人生に大きく関与したからだ。

 

「流行ってるから」だけで、「うまさ」だけで、ハエを集めるのはもういいよ。僕は美しい蝶がひらひらと舞う花になる。色んな動物が共生する森でもいい。そして僕が死にゆく時は、美しい朝日と雪解けと共に地面に還りたい。(月に帰りたがっている夜行性の僕がこんな発言をするのは良い意味でヤバめ)

 

僕の心を動かしたすっかり愛着のある「Piano Man」も、僕が歌えば僕の歌。だけど、ビリージョエルのカバーではない。本家が良いとか本家には叶わないとか、そういう言葉が生まれるのはクソみたいに格好つけて歌うアホがいるからだ。

 

本当のアーティストは「上手い!」よりも先に違うものを感じさせるんだ。何を感じさせてるかも分からせずに、静かに涙を流させたり、口をぽかんと開けさせたり、微笑ませたり、踊らせたり、後から湧き出す生気、やる気だったり。

 

人生を歌えば、それはもう裸で色んな人の耳や心に入り込む事になるのだから、クソみたいなブランド物で身を固めても音楽する時には意味が無い。だから裸の心をしっかりと温めて俺は今悲しみも綴った愛の歌を書く。

 

 

 

俺が花だったら

 

美しい花には棘がある

 

といわれる薔薇かと思えば

 

道路に独りぽつりと強く生えた

 

雑草や素朴でキレイな花かもしれない

 

 

僕は「美しい花には棘がある」という言葉は

 

あんまり好きではない

 

それは棘が酷く、鋭く、痛い物と指しており

 

棘を美しさと対義させた表現だからだ

 

棘が美しくないなんて僕は思わないし

 

「棘のある花は美しい」

 

の感覚の方が僕には合致する

 

 

それにもしも「棘」を痛い物だと表現するならば

 

薔薇の様に派手やかで艶やかな女性より

 

百合みたいな女が一番棘しかねぇよ

 

おれは知ってる

 

薔薇の様な美しく繊細で棘を持った女が

 

一番心が他人に刺された棘の傷だらけだということ

 

身を守る為に棘を身につけざるを得なかったということ

 

 

実際の薔薇がどうかは知らないが

 

それはそれは「美しさ」を持ってしまったが故に起こる苦難を経て強く、またそんな他人に理解されない独りぼっちの心を守る為に棘は生まれたのだ

 

 

向日葵の様な女性に裏表はないかもしれないが

 

人間でいえば土の下を剥げば棘だらけかもしれない

 

 

棘を隠すこともせず

 

堂々と凛と繊細に聳える薔薇が

 

僕は好きで

 

それがまるで自分自身の様だ

 

 

 

 

 

愛する人がチョークで描いた“しあわせ”という頼りない丸の中に自分が描かれない事はとても心憂いけれど、それでも本当に哀しいのは、その丸の中に違う誰かの名前を描かれる事ではなく、誰の名前も無く空っぽになる事だろう。自分の恋心を除外させれば。

 

頑丈に鎖で繋がれていたと思われた手の強度は余りに脆く、その脆さも強さも、確かめるようにぼくらは誰かを抱きしめる。

 

確かなのは手の温もりだけであり、握りしめる一生を誓うような強さは思うより刹那的で、嘘みたいに儚いものだ。

 

だけどその繋いだ手が一生離れないのが当たり前の世界なら、僕らは誓うことも、本気で愛そうとすることも忘れてしまうかもしれない。

 

「死」はすっかり遠い国の事の様に思えるこの世界。それでも笑いあっていようが、ぶつかる事すらしなかろうが、二人の手の温度も強さも常に揺らいでいる。それが人間同士。

 

すっかり衰えた手の触覚は、その手が離れてから気付くのだ。

 

繋がれていたことを。

 

繋いでいたことを。

 

 

 

(2019年7月)

 

 

さみしい景色

 

またもや、亀のようなスピードで長い階段を手押し車と共に下るおばあちゃんがいた。地下鉄だ。

 

誰も助けやしなかった。おれはすぐさま落ち着いた様で少し駆け足で「持ちますよ」と言った。とても笑顔の可愛いおばあちゃんだった。

 

またとっても感謝された。

 

とっても感謝されたけどその嬉しさはどこえやら、それより遥かに、素通りしていく人間達のひんやりさで心が哀しい。そして隣に座ってきた女性が臭くて、また悲しい。

 

 

数日前は大雨だった。風も強かった。

 

そんな日にJRのホームで倒れている男性がいた。

 

沢山の人がそこで下車したけれど、みんな素通りだ。みなに共通した認識は「酔っ払いが倒れてる」それだけであって、気付いてない人間と興味のない人間が雨の中に消えていった。

 

ぼくと四十代ほどの女性二人組だけが、ホームに残った。

 

案の定、ただの酔っ払いだったけれど、これがもしただの酔っ払いじゃなかったら。

 

三人で一個先の駅まで歩いていく彼を見送り、「奥さんだったら嫌だけど、なんだか親心みたいだねぇ」と僕が言う。「あなたまだあの男性より10も20も年下でしょ!」と返され、みなで「誰もなにもしないんだねぇ」と言いながら。僕の心と目には素通り人間達の歩く冷色の景色が焼き付き、モヤモヤしたまんまだった。

 

 

家に帰ると、母がいた。

 

「もし主婦二人もいなくておれだけだったら、その人をタクシーに詰め込んで、かるくお金を渡して、住所を言わせていたかもしれない」そう言うと、「も〜どんだけ男気あんのさ」と苦笑いだった。

 

 

ぼくが外国へ行った時、このような景色が広がりまくってる冷たい国と、どちらも混ざった国と、誰もが助けてくれる天国があった。

 

こういう時に、自分がドイツの駅で助けられたことを思い出す。トルコ人の彼があそこの現場にいたら、この間や今日自分がしたことは当たり前に過ぎない自然な光景だと心で知る。

 

まだまだ、酔っぱらいで倒れた彼をスマホで撮影する人間がいなくて良かったと安心するのである。

 

 

 

 

(去年の記事)

 

ぼくなんか生まれなきゃ良かった

 

そう思ったことは

 

学生時代の鬱だった頃くらいだが

 

みんな死ねばいいのに

 

とは今でも思うものだ

 

それは冷たさからではなく

 

ぬるく大きな愛からである

 

一度

 

もいちど寝て

 

もいちど目を醒ませ

 

そう言いたい人が沢山居る

 

おれも誰かにそう思われているかも

 

わからない

 

 

僕は結局だれよりも

 

人間を愛したいのに

 

だれよりも愛を信じているから

 

愛を忘れ切った人間には

 

暗になるのだ

 

 

ぼくの愛を感じ取れない人間は

 

しねばいいし

 

今世で持つべき愛の器を割ってしまい

 

それを再構築も出来ない人間は

 

申し訳ないが

 

しんでほしい

 

 

ちがう

 

 

おれがしんでほしいなど

 

書いてしまう人間は

 

単純に愛を忘れた人ではなく

 

愛を忘れ切ったそのぶっきらぼう

 

顔、下がりきった瞼、口角、態度

 

それらで愛の人間を殺した人の事だ

 

 

この世に死んで良い人間などいない

 

人間はこう言った

 

けれど自分の子を殺したあいつのことは

 

生きてる価値がない

 

と言った

 

愛する人の不倫相手には

 

しね

 

と言った

 

 

その人達にはまた愛する人がいて

 

同じ様にしんでほしいと思う人が

 

いるかもしれないのに

 

人間は愛する者に傷をつけた人は

 

みなゆるせないという

 

 

 

人間がこの地球に舞い降りた何億もの命を平等に「生きてほしい」と願えるかと言えば

 

おれは嘘だと思う

 

 

みな都合よく回ってほしいのだ

 

みな己の回りを回ってほしいのだ

 

我が大きな星でありたいのだ

 

 

おれは今一人になって

 

音と引き篭もりたい。

 

 

誰にも聞こえない音と二人きり、三人きり、四人きりになりたいかと思えば、

 

ある日突然気が狂った様に街中に繰り出し、蛇腹を破裂させたい。

 

おいらの感情が音に変化する瞬間を観たい。声を上げる瞬間を手伝いたい。

 

 

世界は疲れたって 僕にはもう無理だって

宇宙の寂しさを一人で背負う

創り上げてはみたが

世界は疲れたって あとはもう壊れるだけ

親が子を殺める時の作法を

お目に見せてあげましょう

カイコ / RADWIMPS