BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

地震

 

地震が起きる理由はよくわかってる

 

小学校で勉強した

 

理由はよくわかってる

 

 

 

だけどそもそも

 

この偉大な宇宙

 

宇宙という空間にこんな

 

めんどくさい生き物をわざわざ創っておきながら

 

わざわざ多くの死者を出す災害を起こす必要があるのか

 

 

 

そもそも偉大な宇宙の存在を

 

「人間」という形をした自分達の存在を

 

存在の有無を

 

不思議ではないものとするのなら

 

大きな“誰か”の意思で出来ているとしか思えない

 

今もその誰かの意思でコントロールされているとしか思えない

 

 

 

人間という動物は便利になりすぎた

 

発展しすぎた

 

発展することは悪いことではないけれど

 

幸せを感じるための発展でなければ

 

やがて人間は老いていく

 

 

今の発展国は物が溢れ人が溢れお金が溢れ

 

発展しているように見えながら

 

多くの人間の心に「ゆとり」という

 

ふわふわとした愛おしい空間はあまり見えない

 

 

 

人間は自然があって生きてきたのに

 

今も助けられているのに

 

今も自然をたくさん殺していく

 

都会に住み慣れてしまうと

 

この星に自然があったことすら忘れていく

 

最初から高層ビルの立ち並んだ星だったかのように

 

 

 

 

さて地震がなぜ起こるかは分からない

 

科学的な根拠も都市伝説もここでは置いておく

 

 

 

もしもこの宇宙を創り上げたのが大きな何かであるとして

 

それが人間の言う「神さま」であるとして

 

自分がその「神さま」だった時

 

 

 

わざわざ大すきな人間を殺そうとはしない

 

愛で生まれた人間を殺そうとはしない

 

 

10ヶ月も歳月をかけてなお

 

痛みに耐えて我が子を産む母親のように

 

 

 

そんな母が我が子を殺める時とは

 

一体どんな時かというと

 

「愛」で殺すか

 

「愛」がなくなって殺すかのどちらかだろう

 

 

 

じゃあ地球はどうなのかと言えば

 

この星に愛が全くなくなってしまえば

 

おそらく地球という星自体を消滅させるだろう

 

それくらいの力があるんだろう

 

 

 

けれどもそれをせずに

 

地球という星全体で見たときに

 

わずか一箇所で地震やその他の災害を起こすのは

 

 

便利になりすぎた人間への警告であり

 

サインなんだと

 

 

物が溢れているのにも関わらず

 

まだ足りない足りないと手を伸ばす人間への

 

サインなんだと

 

 

 

物欲は決して悪いものじゃない

 

行動をするときの原動力になる

 

 

問題はいつしか人間は

 

「満足」いわゆる「しあわせ」を感じることを

 

わすれてしまったということ

 

 

 

スウェーデンなんかは

 

AI等の機械化がかなり進んでいるけれど

 

人々の幸福度は高いままだ

 

 

日本というこの国はどうだろう

 

 

日本という国は本当に

 

本当に

 

本当にちいさい

 

 

 

こんな小さな国でも

 

少しずつ色んな場面で多様化が進んできたけれど

 

もっともっと価値観を広げる必要がある

 

あまりにも自分が見てきた方向からし

 

物事を見れない人が多すぎる

 

 

 

今の自分には

 

日本人は「何かをどこかに忘れてきた」

 

そんな風に目に映る

 

 

 

 

さあ地震とは少し逸れたかもしれないが

 

個人的にはそう考える

 

 

 

当然地震なんかは起こってほしくないし

 

起こるべきではない

 

けれどもこんなにも何かにコントロールされていると疑うほどに

 

不自然なほどに大きな地震が相次ぐのは

 

“何か”が動かしているとしか思えないということ

 

そして自分がその“何か”なのだとしたら

 

自分はこう考えるということ

 

 

 

 

 

 

星を見ろ

 

18歳の頃、「夜は危ない」と言われて悲しかった。

 

夜の危険ばかりを大人は並べた。

 

それはそれで別にいい。

 

今おもえば夜の危険さもよく分かる。

 

だけどかなしかった。

 

大人は「星がきれいなこと」を誰も知らかった。

 

知っていたのかもしれないけれど、

 

誰も言わなかった。

 

わすれていた。

 

 

 

 

2日に、講演会をした。

 

人前で1時間も自分のことを話すのは初めてだった。

 

たった20年の人生だけど、

 

20年の軌跡をたった1時間でまとめることは難しい。

 

薄っぺらくなってしまわぬよう、ギュウギュウに詰め込まなければいけない。

 

詰め込みすぎると、それはそれで暑苦しい。

 

とまぁ、講演は終えたのだけど

 

 

 

タイトルの「星を見ろ」に話を持ってく。

 

 

20年という長い一本の映画の中には幸せばかりじゃない、

 

愛する誰かの死や、様々な苦悩のシーンがある。

 

そんなシーンを涙流さず淡々と60分間で伝え切るそれは

 

よっぽどの冷血な人間でないと、もしくは心なきロボットのようにでしか

 

できないだろう。

 

 

自分は涙が目から溢れ出す一歩前の状態で喋っていたので

 

後から気づいたら身体と精神の疲れが異常をきたしていた。

 

 

「ただ話すだけやろ」と思っていたそれは

 

相当なエネルギーを消費することだった。

 

 

赤の他人の人生を語るのに、そんな体力は使わないだろう。

 

 

自分だけが主人公の、自分だけが知っている映画を

 

人に、友達に、大切な人に伝える。

 

それがこんなにもぶっ倒れるようなほどのエネルギーを使うとは(笑)

 

 

不登校だのなんだの、そんな話はビクともしないけれど

 

「じいちゃんの死」を初めて公の場で「堂々と」話す。

 

なんだか終わったあともじいちゃんと繋がっているようで。

 

 

 

そんなこんなで、2、3日ぐたーーーっとしてたのだけど

 

友達や家族にはあまり良い態度でいられなかった。

 

に加えて、友達や家族もいまみんな余裕があまりない。

 

変化が目まぐるしい。そんな時期。

 

 

でちょっとゴタついたり、と思えばやっぱりいいなって思ったり、

 

友達の悩みを聞いたり、親の仕事場の話を聞いたり、

 

そんな感じだったんだけど

 

 

 

さっき、満天の星を見て思った。

 

 

久しぶりに思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちっちゃ。」

 

 

 

 

 

 

と。

 

 

 

 

 

 

昨日も今日もその前も、

 

裸足になって芝生の上で寝ころがったり、

 

大の字で太陽の光を浴びたり、今日は星を見上げた。

 

 

 

人間がこんなにもくだらない争いや悩みで

 

地球の上で人間ごっこしているのは

 

もしも神さまが上から見下ろしているのだとしたら

 

よっぽどちっちゃくて馬鹿らしいんだろう。

 

 

だけど神さまにはそのどれもが

 

同時に人間らしくて愛おしいんだろう。

 

 

わかんないけど。

 

 

 

ぼくらは神さまではないけれど

 

せめて週に1度くらいは

 

神さまのように離れた場所から見下ろさなければいけない。

 

 

そして知らなければいけない。

 

あまりにもちっぽけな自分や、人間という生物の小ささを。

 

そのためには、目を閉じてグーグルアースのように

 

今いる場所から宇宙までぐーんと離れて見るのを想像するのも良いけれど

 

もっとも簡単なのは「自然」に触れること。

 

 

触れなければいけない。

 

 

 

今日、確信した。

 

 

人々がもっと自然と共存すれば、くだらないケンカはなくなると。

 

 

というか元々は自然しかなかったところに

 

「ビル」が出来たのがちょーありえないことだよね。

 

今ビルしかないのが逆にうけるよね。

 

 

別に都会に住むことは全然いい。便利だから。

 

 

 

けれどもやっぱり今、

 

北海道の「ニセコ」にきて思うのは、

 

「空気きれいすぎ」。

 

 

そしてやっぱりそんなところの人間は、あったかい。

 

 

 

色んな国を周ったら、

 

自然の多さ=人のあったかさ

 

 

 

これがしっかりと関係していることが

 

本当によくわかる。

 

 

 

 

都会でも自然に触れる、感じることはできるけど

 

やっぱちがう。

 

 

都会人を否定するつもりはない。

 

ただ自分には

 

都会の空気や人間の表情、温度より

 

島国や海や山と共に生きている人間の方が

 

付き合いやすく、楽なのだ。

 

 

人間くさくて、すきで仕方ない。

 

 

「目には見えない大事なもの」を

 

別になまぬるい音楽なんて聴かなくたって

 

知っている気がして。

 

 

 

 

BUMP OF CHICKENの曲で、

「星が綺麗なことに気づいてるかな」という歌詞があった。

 

 

 

こんな自分もいつしか、

あの頃に嫌いだった「夜は危険でしかないんだよ」

という大人にならないように、

 

危険と同時に美しさも語れる大人になるんだぞ。

 

むしろ美しさしか語らない方がパーシーらしい。

 

 

 

という願いとちょっとした警告も込めて、

 

未来の自分に、

 

「星を見ろ」。

 

 

 

 

 

自分のために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

地球のどこで生きるのか

 

日本では、「クロアチアに行きました」「セルビアに行きました」とか聞いたことのない、場所も分からない国名に行ったというだけで何故か、“やべえヤツ”にされるような所がある。そこに行った日本人が滅多にいないというのは事実であるから珍しさは確かかもしれないけれど、自分には「同じ地球」というだけであってそこに国境も何もない。見えない。

 

なぜだろう。アメリカやハワイ、ヨーロッパでもイタリアとかスペイン、と言えばそう驚かれない。いわゆる有名な「観光都市」に行けば誰も驚いて一歩下がるようなことはない。それが本当、意味不明。なんていうか、「戦地に行って写真撮ってきました!」とか「裸族と1ヶ月生活を共にしました!」とかっていう“経験”を「おまえ、やべーな!」ていうのはわかるんだけど、日本人が“ただ知らない”、“聞き馴染みがない”というだけで「〇〇(国名)に行った」っていうそれだけを称賛されたり、ヤバい奴扱いされるのは、ごめんなんだよね。

 

たとえば自分が行った国で最も美しかったのはクロアチアだけれど、逆に何故あんなにも美しい国が日本では有名でないのかが不思議。あんな天国みたいな所を知ってしまってから、同じ星にこんな場所があるんだ!という感動は一人では抑えきれず、「死ぬまでに1回は必ず行った方がいい!!」と会う人みんなに声をあげているけれど、きっとそもそも、別に興味がないんだろう(笑)

 

どちらが良い悪いではなくて、そんな人は自分が「旅してくる!」と言うだけでまるで違う世界の人間を見るような目で見てきたりする。何故なら、その人にとっては全く興味のない、存在のしない世界だから。だけど、そういった自分の生まれた街や国にしか興味のない人が「興味ない」から「存在していない」だけで、地球の裏側では知らない文化や常識、全くおかしな世界がうじゃうじゃと存在してる。それをたまたま「見てみたい!」という“外”に好奇心の向いた人間が、たまたま“旅人”とうたわれているだけ。

 

初めて自分がヨーロッパに行った時は18歳。「日本なんてクソ!まじで生きにくい誰が住めるか!」そんな感じだった。今はもう一度旅をして一周まわったところで、日本の良さも分かるけれど、やっぱり自分には“合わない”なぁ、という具合。この話、友達はピシャリと理解してくれるんだけど、30代を超えるあたりの人たちからは「それはまだ日本をわかっていない」とか「日本が1番いいから」とか全く理解の気も感じられないような回答がたまーにある。それは、“あなた”、“が”、そう思うだけだよね?って(笑)しかもそういう人は経験上、ほとんどが「日本から出たことのない人」。もしくはハワイなどのリゾート地に行って、日本人同士と連むような人(それが悪いんじゃなくて)。

 

うーん。

 

 

今住んでいる日本、

生まれた場所に90%満足しているとする。

 

そしたら、そのまま90%の生活をしますか?

 

それとも、100%の満足を探しに外へ出ますか?

 

 

自分は、「自分が幸せを感じる場所・瞬間・人・空間・匂い」こんなのを究極に突き詰めていきたい。それがたまたま偶然、「生まれたこの街がまさに私の理想の環境です!!」って胸張って言えるならいいけど、「本当は海の近くに住みたいな〜」とか「扉を開けたらイタリアの街並みが広がればいいな〜」とか少しでも思うなら夢物語にせず今すぐ動きたい。今は便利だから大体どんな場所かは行かなくたってネットで十分調べられる。もし気に入った国や場所があれば、もう脳みそ(気持ち)はそこに行っている。あとは体だけ。

 

けれど実際に行って見たら、あれ…!てことなんてことはザラにある。その逆もある。

そこでさっきの質問に戻るけれど、90%と感じていた日本が、30%の国を知ったことにより100%に感じるようになったり、逆に200%満足する素晴らしい国に出会ったことで、日本じゃ1%も満足できねーよ、となったり。そのどちらも素晴らしいことだと思う。だから自分は旅をする。

 

今現在、心は完全に「クロアチア」に恋をしてしまっている。もうあそこに住めるなら住もうかと思ってる。だけどそれも「今のところ」であって、まだ知らないだけであって存在するかもしれない「クロアチアを超える国」、または「クロアチアと同じくらい気にいる場所」があるのかもしれないと思って、もう少し地球を探検したい。

 

そして何より、一箇所だけでは飽きてしまうのが自分の特徴なので、気にいる場所を数カ所、少なくとも3箇所くらいはこの星の上で見つけておきたいと思う。

 

その為には「今日何を着たい?」「今日何を食べたい?」「気分乗らないからやっぱりやーめた」「まだあと1時間ねたいわ」等、自分の心の声を決して社会や日常に混沌しないよう守ってやりたい。そして借金をしてろうが会社でミスをしまくろうが会社を休みようが会社を辞めようがプータローだろうが大事な人を傷つけてしまった時でさえ、“どんな状況だろうと”「オレは素晴らしい」「オレはオレを愛してる」とせめて自分くらいは言ってあげられたらなと思う。いや本気で(笑)地球上で一人、そんなバカがいてもいいんじゃないかな。死ぬ時にはそれが一人じゃなくて、「私も」と言ってくれる人が奇跡的に一人でもいたら、それは奇跡だと思う。恋愛関係なく。そして何より、同じように愛せる人が自分以外に一人でもいたら、その人生はもう花マルをつけたい。

 

 

とりあえず今のところは死ぬならクロアチアがいい。

 

 

 

人間の一生

 

人間が蝉や蛍の命を一瞬だと感じるように、

 

長生きをする亀や海綿動物からしたら

 

人間の一生なんて

 

ほんの一瞬

 

なのかな

 

 

それとも

 

蝉には一日一日が

 

人間の10年や20年ほどの時間感覚で

 

時が存在するのかな

 

 

犬や猫の歳の取り方も

 

人間とは違うから

 

そういうことなのかな

 

 

けれども時間は一定に刻まれてるのだとしたら

 

体感する時間がただ単に違うだけなのか

 

 

亀から見た人間の一生のように

 

一瞬だからと今を切磋琢磨しながら

 

 

蝉や蛍から見た人間の一生のように

 

長生きしすぎなことを感謝しながら

 

 

人間は生きていこうかな

 

 

 

 

どの動物からどう見たって

 

人間同士で見てみたって

 

人間の命だと広い宇宙での

 

たった一瞬の、

 

いや一瞬とも言えやしないほど

 

くそみたいな時間でしかないのに

 

そのくそみたいな時間を人間は

 

泣いたり悩んだり文句を言ったり争ったり

 

たまには人を愛してみたりしながら

 

 

なんかかわいーな

 

 

っておもってみたりもする

 

こども

 

バスに乗った。

 

本を開いた。

 

横をみたら、おじさんも本を開いていた。

 

そんな時は、なんだか嬉しい。

 

 

 

バスは小学校の横をとおる。

 

すると

小学生の長い列がわーわー下校していた。

 

小さい歳から順に下校していた。

 

 

 

本を閉じてながめていたら

 

横のおじさんも本から目をはなして子供をみていた。

 

 

 

目の前に映るのはお年寄りの後ろ姿ばかりだった。

 

その後ろ姿はみんな

 

顔を横にしていた。

 

みーんな小学生をみていた。

 

 

 

 

ただ学校が終わって家に帰るだけなのに

 

なぜか走ってはしゃいでる。

 

 

ましてや雨も降ってきたのに

 

なぜか嬉しそうにはしゃいでる。

 

 

 

 

そして、一人の女の子がバスに手を振った。

 

 

だーれも手を振り返す訳でもなく、

 

ただみていた。

 

 

 

だけどその顔はきっとみんなほほえんでた。

 

 

 

 

心の中はほほえんでた。