BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

場所

 

 

喜怒哀楽の喜だけが詰まった場所とお別れするのは、案外かんたんに出来てしまう。

 

けれど喜が詰まった場所で沢山泣いたり怒ったり暴れたり、傷や涙も一緒に壁に染み込んだ場所とお別れするのは本当につらいのだ。

 

わらって、ないて、怒りくるって、争って、だきあって。

 

うれしいも、かなしいも、はらたつもうざいも、たのしいも、ありがとうもごめんねも、だいすきもきらいも、感情を360度なにひとつ溢さずごったごたに混ざり合わせてきた場所が、この地球のどんな美しい場所より色濃くて愛おしくて、かわいくて、何よりお別れするのが本当にかなしいのだ。むつかしいのだ。

 

 

ひょっとしたら人間においても同じなのかな。

 

 

 

 

空から爆弾を落とせる気持ち

 

たった一度の動作で大量の人間を殺してしまえる爆弾を落とすという行為を、ましてやそれも青くキレイな空から。

 

一体誰がそんな残酷なことを出来るのだろうと思っていたけれど、このあいだ飛行機に乗りながら地上を見下ろしている頃、とても冷酷なことにちょっぴり、分かってしまった。

 

この大空から地上を見下ろしていたら、こんなにもちっぽけな人間には全く比例していない自然の偉大さに圧倒され、その偉大さは小さな体では体感しきれていないからだ。その大自然のごく一部分に小さな集落を作って暮らしている人間など、我々の想像以上に遥かに点で、遥かに点だ。

 

この時代の日本に生まれて戦いを経験していない僕らは、小学校の授業で戦争という歴史を知った時、何を思っただろうか。爆弾を落とすだとか、銃で人を射殺するだとか、「よくもまぁそんなこと」と思っただろう。じゃあ爆弾を落とした人も銃で人を撃ち殺した人も、みんながみんな、同じ想いで行っただろうか?楽しかったろうか?涙を流したろうか?人としての罪悪感なるものは存在していたのだろうか?「お国のため」と心からそこに正義を見出していたのだろうか。

 

少し前に話題になった〝IS〟の子供達は小さい頃から銃を持たされ、人を殺し、それが当たり前となってたりする。色んな国の子供達が〝カッコイイ〟と思いながらもゲーム(2次元)で済ませている人殺しごっこを、彼らはリアルの世界で体験しているのだ。ゲームでは体験できない射撃した時の振動や重み、感情を。彼らに人殺しをすることは悪だと、伝える必要はあるのだろうか。伝えたところで、伝わらない。彼らは改心したいと望んでいない。では見て見ぬふりをするのか。私たちが彼らを愛したい時、一体何をすればいいのだろう。今世での彼らの学びは人を殺すことが必要なのかもしれない。

 

“これを言ったら相手はこう思うだろう”とか、“今これをするより後にしたら相手は喜ぶだろう”とか、人間の社会生活における相手への想像力はとても大事だ。忘れている人でも、誰しもがどんなことでも少なからず日常で何かの行動をする上で無意識に「想像する」というワンクッションを挟んでいる。人間にもし想像力が欠けていれば、過去と未来という概念もなく、絶望も希望も抱かない、”サル”と同じだと高校の現代文で習った。ではその想像力とはどこで生まれ、他人との違いはどこで生まれるのだろうか?そんなことは置いておく。

 

 

 

––––––––––––では、空から爆弾を落とす気持ちは? 

 

あくまで自分の場合、想像しても、「しきれない」。

 

 

自分の小さい脳みそでは想像がつかないのだ。

 

厳密には、空から爆弾を落として街が火の祭りになることは想像出来る。

 

けれどその集落にどれほどの人がいて、どんな生活をしていて、

 

その一人一人に愛する誰かがいたり、愛する仕事があったり、

 

そんな細かなシュチュエーションまで頭で描けない。

 

 

と思えば、自殺を望んでいた少年は喜ぶかもしれない。

 

自分が死ぬついでに誰かも殺したかった少女には、はたまた幸福かもしれない。

 

ほかに、

 

分娩中の女性は?

 

裸で抱き合う男女は?

 

排泄中?

 

酔っ払って記憶がない人?

 

 

なんて考えたらきりがない。

 

想像なんてできるものか。

 

 

 

まして人間が怒り狂う時、 ふだん容易に想像がつくことも何も考えられなくなってしまう。

 

そうなれば空から爆弾を落とすことも大して難しくなくなる”瞬間”がある。

 

 

爆弾を落とさなくとも、自分が1年に数回爆発してしまう(理性のコントロールが効かなくなる)のは天秤座の性であり、その瞬間はまるで空から爆弾を落とせるような人格だ。けれどやはり何時どんな時も人間で、そんな時でさえ想像力があり、厄介なことにそこにはまた"好奇心”たるものが生まれてしまう。「今、爆弾を落としたら世界はどうなるだろう?」と。

 

 

ここまで書いておいてなんだが、実際にあの日の戦争で爆弾を落とした人がどんな気持ちだったかは知らない。楽しんでいたかもしれないし、嫌々だったかもしれない。それすら想像しきれない、というよりこれは"分からない”のだ。

 

分からないと言えば、全て分からないで済んでしまうが、他人においてはいくら想像したって死ぬほど想像したって、結局自分がその人自身になってみないと分からない。そしてきっと自分がその人と全く同じ生まれ育ち、背景、環境に置かれた時、自分も必ず、"その人”になってしまっているのだ。

 

トランプ大統領のことを散々愚痴ったとする。今の自分が明日からトランプになるのではなく、初めから自分がトランプとして生まれていたら。きっと同じことをしているのだ。

 

 

ぼくには何も分かりきれない。分かりしれない。はかりしれない。

 

 

 

 

 

 

首こった。

 

 

はっぴーにゅーいやー。

しあわせの意味

 

しあわせの意味など、いつも変わる。

 

自分がどこで、なにで幸せを感じるかだ。

 

 

そうでないとかえっておかしなことになる。

 

いやでもそうなってしまうのが人間らしい。

 

 

「〜が叶ったら私はもうなにもいらない」

 

とか具体的には

 

「たつやと付き合えたら死んでもいい!」

 

と言っていた女の子が、

 

念願の"たつやと付き合う”を果たしてもあろうことか

 

 

死にゃあせんのだ。

 

 

 

その夢を、幸せだと思っていた夢を叶えた5秒後には、

 

叶えたことも、願っていたことすら忘れて、

 

 

「(たつやと付き合えているのはもう当たり前)

 たつやと結婚できたら私は"やっと”幸せになるわ」

 

 

なんて言い出したり、

 

 

「たつやが〜してくれない」

 

「たつやが〜してくれたら私は幸せだわ」

 

 

なんてまた、幸せの対象がどんどんエスカレートしていくのだ。

 

 

 

よくそうならないように「日頃から感謝をしましょう」なんて言ったって、

 

身内で誰かが亡くなって「今生きているだけで幸せなのね」なんて思ったって、

 

5日寝ればまた「たつやが〜してくれない」にもどるのが人間なのだと思う。

 

 

 

今ごろだけれど、なぜ例が"たつや”なのかは分からない。

 

 

 

そりゃあ、常に日頃から毎日感謝し合って、愛し合って、

 

感謝し合える関係が良いに越したことはない。

 

 

けれどなんだかそれもそれで気持ち悪いんじゃないかと思う。

 

 

少しくらい、

 

「あーもーたつやが〇〇してくれない!」とたまには愚痴こぼして

 

”たつやが生きている、私が生きている、それで幸せだ”ということも

 

たまにはちょっぴり忘れてしまったりなんかして、

 

ぶつかり合ったりなんてしちゃって、

 

爆発しちゃったりなんかして、

 

それでもドラマや映画なんかを見て

 

 

「っあれ…?私たち、しあわせだよね??」

 

 

なんてふたりで声に出さずとも別々に、同時に、

 

感じ合える日常も色鮮やかだなぁ、とおもう。

 

 

 

ただひとつ普遍的な幸せは「自分が生きていること」。

 

 

それ以外は、変わりゆくものだと思う。

 

「たつやが生きていれば」と願った日があっても、

死ぬ時には「あいつなんていなくなればいいのに」と妬んでいるかもしれない。

 

 

あしたのことは分からない。

 

 

さよならどいつ

 

 

 

 

もうすぐで女優になる。

 

 

 

今、ドイツからウィーン行きの列車を待っている。

 

前に住んでいたこともあり、長くいたような気がするが、なんと実は10日しか経っていないという。

 

 

 

10日間で本当に色んなことが、本当に色んなことがあった。

 

ついていけなかった。

 

ついていけなくて、夢のようだった。

 

 

 

そしてこれから2日間だけウィーンに滞在し、それから3年ぶりのハンガリーへ向かう。

 

 

あの頃、初めてのヨーロッパがハンガリーで、確かに街は美しかったのだけれど、今ならもっとわかる。

 

あの街はとても美しい。

 

 

 

今思えば、中身の深い部分は変わっていないのだけれど、

 

18歳の金髪、ショートカット(きのこ)のボーイッシュだったぼくは外見的には馴染んでいなかったと思う。

浮いてもいなかったろうが、特別溶け込んでもいなかった。

 

今すこし大人になったぼくは、前よりずっと街に溶け込める。

 

 

 

この「街への溶け込み」がとても好きなのだ。

 

 

別に海外やヨーロッパで浮かれているのではなく、

やはりこちらにいた方が見た目も、心も、すんなり溶け込むのだ。

 

 

“街に溶け込めなくたって、堂々としてりゃいい”

 

 

と言われたり、思っていたこともあるけれど、

自分にとって街の外観や色、それらと自分の溶け込み、全てを含めてファッションだ。

 

 

 

でも、みんな普段から同じような思考を持っていると思う。

 

 

 

極端に言えば、ビーチに行くのには肌を露出したビキニが映える。

小麦色に焼けていれば、健康的でいやらしくない格好いい体が完成する。そこに映る全てでファッションが成る。

 

京都に行くのなら、高いピンヒールにミニスカートよりも、

落ち着いた露出の少ない大人の女性を演じる必要がある。

 

 

海でのビキニ例は単にTPO的な問題もあるが、見た目的な問題でも海に浴衣の女性は似合わない。

 

 

 

それと同じように、たとえば日本の建物がカラフルだったら。

 

ヨーロッパ調の建物だったら。

 

もしくは建物みんな、真っ赤だったら。

 

 

自然とそれに合わせて服を選ぶだろう。どこへ行くにも。

 

 

 

 

夜のネオン街を歩くには、少々色気の感じさせるくらいがカッコイイ。

 

同じ格好で真昼間の公園には行けない。

 

 

 

 

 

でももし、みんながその自分の感覚と逆のファッションをしていたら?

 

 

海に行けばみな肌を隠していて、ネオン街にはスウェットの女性ばかり、お昼の公園にはピンヒールでミニスカートのお姉さん。

 

 

 

みながそれを当たり前だと認識していたら、自分はどうするだろう?

 

 

 

 

そんなことも考える。

 

 

 

 

ヨーロッパでの真夏も、真冬も、皆じぶんと同じような格好をしている。

 

じぶんと同じ感覚を持っている。サイズ感や色使い、姿勢等。美的感覚が近い。

 

 

 

 

もしヨーロッパで女性がみな日本人女性だったら、自分は居心地の良さを感じないだろう。

 

ファッションやメイクの好み、感覚がこれほどまでに違うから。

 

まぁ簡単に言えば結局はやはり「おれの好みの女性がいない」に尽きる。

 

 

 

結局、何度も外国に足を運んで感じる居心地の良さ、日本の居心地の悪さはそこなのだ。

 

 

もっと女性に惚れ込みたい。

 

意識の高い、もしくは意識なんて高くもないけれど綺麗な女性が沢山歩いていてほしい。

 

そうでないとそれを選ぶ男性も好きになれない。

 

 

 

日本人の女性が美しくないのではなく、おれの中での「美しさ」とは釣り合わないだけだ。

 

 

他の日本人女性がヨーロッパへ来たら同じように逆のことを感じるかもしれない。

 

「ヨーロッパの女性だれも可愛い人がいないわ。」

 

なんて。

 

 

 

 

 

トイレに行ってくる。

 

 

 

 

突として

 

それはある日突として始まり、

 

そしてまたある日、突としておわるのです。

 

 

だれも知らず。

 

 

神のみぞ知り。

 

 

今、今世で最もカオスな状況に居る。

 

 

せんたっきの上に座っている。

 

湯船のふちが足置き場。

 

 

さぞ想像のつかない配置だろう。

 

 

 

ぼくしかいない。

 

 

 

周りには助けてくれる人、

 

心配してくれている人、

 

大好きな友達、

 

家族、みんないる。

 

 

 

だけどみんな、箱の中だ。

 

 

携帯をなくしてしまったら、

 

ぼくにはいま誰もいない。

 

 

だれも。

 

 

みんないなくなっしまう。

 

 

みんな。

 

 

 

 

 

友人は少なくて良い。

 

 

けれど依存先が一つなのは

 

やっぱりごめんなんだ。

 

 

 

 

 

突としておわる。

 

 

 

 

にわかにおわる。

 

 

 

 

それは清々しく、あまりにクールにぐちゃぐちゃと。