BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

優しいひと

 

僕はそんなに強くない。

 

そんなに強くないというより、とってもよわい。

 

誰よりもよわい。

 

すぐに疲れてしまう体も、すぐに傷ついてしまう心も。

 

 

ただそれでも人を愛する強さは持っている。

 

だから愛される力も持っている。

 

 

それでも全員からは愛されやしないけれど。

 

 

 

絵を描くのもピアノを弾くのも音楽を聴くのも、家では極力裸に近い状態でいたいのも、自分が綺麗じゃないと嫌なのも、街並みが美しくなきゃ嫌なのも、毛玉のついた生地が嫌なのも、ネイルが綺麗じゃないと嫌なのも、一人の時間が必要なのも、お気に入りの下着でいたいのも、ぜんぶ自分が優しい人間であれる為である。常に情緒の安定した自分を確立する為である。

 

色んな本を読むと、全ての人間がこれでもかというほど他人に興味はなく、常に自分のことで頭がいっぱいなことが分かる。それが人間だということがわかる。「いや、ちがう」と思っても、やっぱり今日も朝から誰かが死んだニュースよりも、ネイルが1mm欠けていることの方がよっぽど心の中を揺らすのが人間であり、自分も同様だ。時にほんの些細なことで、制御のつかない激しさで荒れたりする。そんなことは自分のことでしか有り得ない。たとえ恋人のことで悩んだり暴れたりしたとしても、そのほとんどは「相手が思い通りにならない」というギャップによるものだ。

 

けれども人は、ひとりではやっていけないのだという。ひとりでは嫌だという。めんどくさい。自己愛のぶつけ合い、ぶつかり合いのように見える。そんな、利己主義者の集まりの中、たまたま都合よく打つかるところのある人間同士がたまたま息をしているようにも見える。「自己愛人間」という本は冒頭に「この本を読むと人間が嫌になってしまうかもしれません。」と書いてあったが、本当に恐くて途中でストップした。知らなくていい、と思った。

 

大人になるにつれ愛の裏切りや様々な形の愛の辛さをを経験した者は、2種類に分かれる。再び、より誰かを上手に大事に愛そうとする者と、「もう誰も愛さない」「愛なんて存在しない」と愛に蓋をする者。痛みを知りながら、それでも"人”を愛してやまない人間を僕は尊敬する。美しくあり、格好良い。できれば後者の方とは一緒に居たくない。少し前までは愛を忘れた者に愛を知ってもらおうと必死だったが、今はそれよりも愛の溢れる人間とだけ共にいたい。

 

じゃあ2つのタイプに分かれさせるそのものとは一体なにか?と問うた時、「強さ」なのだと思う。"愛したい”という、強さだ。(本当に愛溢れる者はそんな意気込んだものはないと思うけれど、心底にはそれがある。)人間を利己的な感情だけで動いている生物だと思えば、そんな世界が広がり、その逆を見ようとしたら、そんな世界が広がる。自分が愛に対して抱いてる感情がそのまま、現実となりそう見せてくれる。

 

かつて真っ白な心と無邪気な笑顔で誰でも人を信じて愛してしまう子供だった僕に、大人は「いつか痛い目みるよ」と言った。けれどそれは間違いであると証明したい。僕の人生を外から見ている大人には"痛い目”というようなシーンはあったけれど、僕にとってそれらは何も痛くはない。今まで僕にとって一番"痛い目”だったのは、愛する者を素直に愛せなかった時だ。自分の愛に従わないことがよっぽど格好悪い。愛したい者を愛したことで経験する苦しさは、本当にそれが愛であるのなら何もくるしくはない。すこし、痛いだけだ。

 

今なにか歌を書くとしたら、純粋な愛や心を持った子供達に、「どうかその目をころさないでください」と書く。大人になることはその透き通った目や心を捨ててしまうことでは全くないのだ。

 

 

二文字で終わる「アイ」についてこんなにだらだら長く書いてしまうのは、人間には、僕には、愛が必要不可欠であるからだ。逆に愛のない世界や景色は僕の心をきゅうっと締め付けてしまう。そんな、153cmの僕をあまりに簡単に殺してしまう"愛のない場所”は愛で誰かにナイフを突きつけられるより遥かに辛い。離れるに他ない。

 

愛を求め、愛する人やものができた時、愛してくれる者が現れた時、新鮮な気持ちよさと共にどこか懐かしい感情すら抱く人間は、あまりにどうしようもない生き物であるが、そのどうしようもなさすら「いとおしい」と感じる頃合いを迎えられた僕達は、もっと違いに抱き合える。優しく。

 

昨日はある人から花を頂いたけれど、やはり生花は人間に似た美しさがある。人間もいずれ死を迎える。そんな時、散々人を愛そうとして傷つけた過去も忘れ、誰かと愛し合った時の気持ち良さだけを再び感じようと、またこの世に生まれ変わる。のだったら。今、愛から遠ざかっている者も実はゴールは同じなのだと思う。何度も繰り返す命のサイクルを通して。

 

決して美しい花瓶ではないけれど、毎朝花を見つめたいと思います。

 

 

 

 

旅行

 

どこか違う土地に遊びに出向かうことを「旅行」と言うけれど、それは出発する場所=帰る場所があっての話であって、そんな僕らには当たり前の「帰る場所」すら持っていない人や死から避けるのに必死な人を横目にしながら、なんて贅沢な言葉なのだろうと思う。旅先では予想のできない様々な困難や問題が起こるけれど、旅行ができている事を〝なんて余裕の持ちすぎた娯楽なんだ〟と感謝してみた時、この世で自分が何も文句の付けようがない幸せ者であったことに気づく。

 

けれども、恋人だろうと友達だろうと誰であろうとそれが「好き」な人であれば、なぜまた会えると知っているのにも関わらず、どうしてこんなにも別れとは辛いのかと毎度思う。しつこく思う。

 

また、もう旅なんてしないなんて、言ってしまいそうになる。いつも。本当にいつも。

 

けれど今日もまた、その切なさをしっかりと味わう為にその気持ちを更に唆るような音楽を身体に与えてあげる。切なさや悲しさを感じないように、今の自分の気持ちとは全く違った明るいポップミュージックで感情を誤魔化すことはしないようにしている。そのせいで飛行機ではいつも一人で泣いたり、場所を問わず化粧が落ちたりするけれど、それでいいのだと思う。これを感じる為に産まれてきたのだから。

 

 

毎度毎度、誰かとの別れを惜しむとき、常に忘れないようにしたい。

 

それくらい、心から想える親しき友人がいることの幸福を。

 

 

 

そしておもう。

 

今まで日本、海外、様々な地で沢山の美しき人間に手を振ってきたけれど、彼らが帰る家に自分がいないことを悔しんだり、彼らが帰る家に自分よりもっと近い距離で彼らを見ている人間がいることを恨む必要も、羨む必要もなければそんな権利はないということ。

 

もし、自分が彼らと帰る場所が同じなら。毎日のように彼らの顔を見ていられる距離だったら。自分は彼らを愛せているだろうか。大事にできるだろうか。

 

 

21年間の人生で、心から、身体の底から愛を表現したい人間、守りたい人間は驚く程に少ないのだと思う。

 

愛のレベルではなく、みな愛していてもそれぞれに適した距離がある。今誰かを思ったり誰かのことで悩んでいたら、それはきっと距離の問題かもしれない。「遠い」とか「近い」とか思うものなら、自分から相手との居心地の良い距離に動かなくてはいけない。相手を動かすことは出来ないのだ。

 

苦手な人から離れることも大事だけれど、特に好きな人、もっと近付きたいと思う人にはどんどん近くにいきたい。自分が自分と相手を、二人とも上手く愛せる距離で。上手くなくても、できるだけ笑顔の多くいられる距離で。

 

といっても、自分が求む人間を鮮明にイメージ出来ていたらきっと、合わない人間はそれぞれ離れていき、好きな人はお互いに歩み寄るのだろう。不自然なくらい、とても自然に。

 

 

ドイツまであともうすこしです。

 

 

 

 

あん

「映画 あん」の画像検索結果

an-movie.com

 

 

 

以下、ネタバレではあるものの映画の説明も何もないので観てない人には何のことかもわかりません(笑)

 

 

 

登場人物の名前も忘れたので役者さんの名前そのままで。

 

 

 

 

 

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人間の死はなぜこんなにも美しいのかとおもう。

 

 

 

もしもあそこで樹木希林が死を遂げなければ、

 

元気にもっともっと長生きしたりだとか

 

一生死なないファンタジー映画だったら

 

 

 

生前、樹木希林が残した言葉や仕草や“あん”、

 

また姿形はそこまでの美しさは持たないだろう。

 

 

 

 

 

数人が同じ映画を観てみな同じように感動をしたとしても

 

感動した理由やポイント、脳裏に焼き付いたシーンはそれぞれ異なる。

 

 

 

あんこに何か思い出がある人は題名から唆られていただろうし

 

樹木希林の死を想って足を運んだ人は映画を越えたものまで感じるであろうし

 

永瀬正敏が好きな人はただただ格好よさに2時間惚れ続けていたかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回、個人的に特に残っているシーンはこれら。

 

 

 

休みと言われた日に店長よりも早く店に着き、一人であんを作る樹木希林の姿。

 

 

 

女の子から引き取ると約束した鳥を手放したこと。

 

 

 

また女子中学生達のすっぴん感を飾らず素朴に描いた映像も美しかった。

 

 

 

 

 

 

 

この映画で何とも美しかった樹木希林

 

 

 

最近、何度も読み返している本、

 

d・カーネギー著書「人を動かす」に書いていた2つのことを彼女は行なっていた。

 

 

 

 

 

樹木希林は風や木や月、この世の全てのものに「言葉」があると信じ、

 

どら焼きの「あん」作りの際にもいつも、いつも耳を傾けていた。

 

 

 

あんを調理する際に言った「おもてなし」という言葉は

 

お客様にではなく、ここ(店)までやってきてくれたあんに向けた言葉であった。

 

 

 

そのシーンだけでも十分、料理好きな自分にとっては物凄く大きく胸が動いた。

 

 

 

 

 

だけどしかし、冷静によくよくそれぞれの立場になって想像してみると、

 

女の子にとってそれはそれは大切であった鳥を、引き取るという約束をしたのにも関わらず

 

自然に返してしまった行為はシーンとして目立ってはいないが、かなり大きなポイントに感じる。

 

 

 

 

 

これを上記に書いたd・カーネギー著書「人を動かす」に当てはめれば、

 

 

 

「自分の利益よりも“相手が何を求めているか”を考える」

 

 

 

といった一節がピタリとはまる。

 

 

 

 

 

樹木希林はそれを努力して身につけた訳でもなく、

 

それが当たり前のように生き様として備えていた。

 

 

 

 

 

 

 

その結果、女の子との約束よりも

 

鳥の放った言葉を優先したのであった。

 

 

 

自分の意思を殺されて他人の都合で檻に閉じ込められる鳥を、

 

まるで自分と重ねるように。

 

 

 

女の子が樹木希林が自然と会話するのを知らず無理解だったら。

 

 

 

かなり怒るかもしれないシーンだったとも思う。

 

 

 

 

 

 

 

また、「人を動かす」からもう1つ。

 

 

 

当たり前のことに感じるが、最近感じていたことだった。

 

 

 

 

 

 

 

「どんな善人も批判を避けることはできない」

 

 

 

ということ。

 

 

 

 

 

 

 

あんなに愛に満ち溢れた人間やお店でも

 

100人中100人に愛されはしないのだ。

 

 

 

また繁盛すれば繁盛するほど

 

愛あるお客が増えると同時に非難する人間も増えるのだ。

 

 

 

 

 

こんなことはよく知っていたことだけれど

 

本で何度も読み返すのと、

 

実際に誰かの人生ドラマを2時間かけて入り込みながら観るのとでは

 

感じ方がまるで違った。

 

 

 

 

 

 

 

また「人を動かす」にはこう書いてある。

 

 

 

 

 

 

 

「自分の中で正しいと信じていることをすればよろしい。

 

しても悪口を言われ、しなくても悪口を言われる。どちらにしても批判を逃れることはできない。」

 

 

 

 

 

「〜気にしないようにするしか手はない。そのとき以来私は、いつも最善を尽くすことを心がけ、

 

あとは古傘をかざして、非難の雨で首筋をぬらさないようにしている。」

 

 

 

 

 

 

 

これから自分がどんな批判にあおうと、これらの言葉を忘れないようにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

またある本には

 

「ダイアモンドは他人にどう言われようと輝いているのが正しい。」

 

と書いてある。

 

 

 

 

 

 

 

どんな批判を受けようとも、いつどんな時も輝いたダイアモンドでいたい。

 

 

 

輝いていても、輝かなくても、うるさい人間はいる。

 

 

 

ならばうるさい人間を気にして輝くことを恐れるよりも、

 

いっそ輝いていた方がいい。その方が美しい。

 

 

 

 

 

自分がダイアモンドであることを忘れないようにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

樹木希林はとても美しかった。

 

 

 

 

 

愛を持ち、それを盛大に振りまくわけでなく、見返りを求めることもなく、

 

ただ静かにずしんと抱えており、

 

愛そのものである彼女の周りが淡い赤色に染まっていた。

 

ただそれだけだった。

 

 

 

この映画で愛はとてもじんわりとしていて、

 

派手ではなくゆるやかな時間と共にゆっくり流れている。

 

 

 

 

 

邦画にはこれが出来るなぁと感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日曜日

 

今日は日曜日。

 

みんながお休みの日。

だけどなんでか、家にひとり。

 

 

曜日に縛られた生き方はしたくないから、

土曜日を終える喜びも、月曜日を迎える苦痛も

他の人とちがってなにもない。なんにも。

 

 

だけどみんなが曜日毎に規則正しい生活を送っているから

人が蟻のように溢れる日曜日はきらい。

 

そうやってみんなが「曜日」という見えないものに

あまりにもキレイに従っているのもまたきもちわるい。

 

 

 

でも「家の中の日曜日」はすき。

 

 

今日なんて誰もいないけれど、

いつも何かに引っ張られるように家のドアから摘み出されるパパやママが

ちょっぴりオシャレをしてゆっくりとドアを開ける光景が、すき。

 

 

家は曜日なんて言葉も知らずに普段と何も変わらない佇まいなのに

なんでこんなにも空気がゆったりと、時計の針はゆっくりと。

 

 

「あぁいっそ、毎日がこの世でいう“日曜日”なら。」

 

 

なんて思うけれど、

 

そうなってしまうときっと今呼んでいる日曜日は

日曜日ではなくなってしまうんだ。

 

 

 

 

去年、ヨーロッパを周ったとき。

またドイツに2ヶ月間住んだとき。

 

 

たしかに日曜日という名の謎の休日には

スーパーの店員も、コンビニの店員もみんな休んでいて

日本よりも休日感が漂っていた。

 

なーんにもなくて、ただそこに休日があった。

 

 

「みんなが働いていない」という7日間毎に突如現れる

日常の異常な鷹揚さはしあわせでもあり、少々奇妙に感じた。

 

 

この極められた日曜日に加え、“日曜日以外”でも、

どこか日本でいう“日曜日”を感じたのはなぜだろう。

 

 

それは「うぁ〜明日からまた仕事がはじまる〜」

といった未来への絶望ではなく、ただ単にそこに現れる休日感だ。

 

 

自分がそこで働いていなかったから、

働いていたら全く異なる曜日感を見ていたかもしれないけれど

 

一緒に住んでいたトルコ人

いつもバラバラのシフトで且つ仕事もコロッと変えたりで

日常にはごく自然に音楽と遊びと公園があって

 

曜日や時間や会社という星の周りを彼が回っているのではなくて

あくまでも彼という大きな星の周りを

ちっぽけな数々の惑星(曜日、時間、会社)が回っているような

そんな大きなうちゅうに見えた。

 

 

彼という恒星は自らエネルギーを持って光っているのに対して

周りを回る惑星はそうではない。

 

 

一方、日本では多くの人が

会社という大きな星にエネルギーや光を吸い取られ、

自分自身がその周りをくるくると回っている。

 

 

本当にエネルギーを持っていて自ら輝けるのは

自分という星だと知らずに。

 

 

はやくそのことに気づいて

この宇宙の空が会社や曜日やお金ではなく

輝く人間の星でいっぱいになればなぁ、なんて思う。

 

 

 

 

まだ午後一時。

 

 

 

 

なんだかなぁ。

 

 

 

 

 

 

おうこく

 

ちがう。

 

今住んでいる場所が優芽の求めている世界が違うというより、この地球のどっかに優芽の描いているずっと探し続けている国がもう既にあって、その国には昔住んでいて、覚えているからこうも哀しいほど愛しく、悲しく、美しく、そして何よりそれを一人きりで感じているから、切なくなる。だけどそこの国の少し色褪せた土壁の家々、坂道、雨の日の石畳、キラキラした海、早朝から並んだ魚、果物、野菜、ニッコリ微笑むおじいちゃん、美味しいスープの作るおばあちゃん、犬、ネコ。それらは優芽を覚えていて、きっと今日も遠く想い合っていて、会ったらすぐに溶け合うんだ。アイコンタクトと、年季の入ったスマイルで。そんな日の夜は、必ず音楽とお酒、美味しい料理があって人々の輪が出来る。日本では飲み方の汚い人が目立つから「お酒は嫌い」と陳じているだけであって、お祝いや行事の人の輪に交じったグラスはとても好きだ。

 

だけどあろうことか「日本」という国に産まれ落ちた自分はその故郷がどこにあるのか、それからその国の名前、たったそれだけ、忘れてきてしまった。けれど決めている。その国にまた辿り着いたら、もういちど人や風景、街ごとぜんぶ抱きしめて“自分”を思い出し、その感じたままの身体で日本に降り立つ。そしてその国の料理や人の生き様、温度、存在を日本のみんなに聞かせたい。知らせたい。知ってほしい。要するに、知るべきである。そして本当に大好きな人、何人かはその国によんで、最高の“おもてなし”をしたい。これはエゴに見えて極めて相手を想った、絶対にしあわせだと骨の髄から感じてもらえる人生最高の旅行になることを誓う。

 

 

最近、“もっと広くて複雑なことを感じているのに上手く言えずに勘違いされてきたこと”を少し器用に文章に変換出来る力がついてきて、今回の文章も前々から思っていたことだけれど変換力がついてきた今やっと書けている。今回の記事は、Percyをただの日本キライキライ星人だと思っていた人に、多少上手く伝わるといい。伝わんなくてもいいけど。

 

 

日本人の多くが愛国心というか、今の時代「おくにのために!」と命を懸ける人まではいないと思うけど、そんなものを持っている。だから「日本やだ」といったら、ゴロッと目が変わって“なにを言っているんだ!!”と言われる、というかそもそも言えない圧を感じるけど、都道府県に関してはみんな、言いたい放題だ。東京が嫌いだとか、東京人はみんな〜だとか、茨城の人が「栃木と一緒にするな!」と威張ったり。まるで「おまえどこ中?(中学校)おれ〇〇中。」なんて中学生の可愛らしい会話に聞こえる。自分の中で世界は一人の体のようで、だから体の一部(日本)だけを愛するつもりがないだけで、日本を愛していないのではない。ぜんぶひっくるめてすき。本当はね。だけど別に、大きい体のどこか一部が愛せなくたって、どこかのひと部分愛せる場所があれば良いと思う。

 

今まで数カ国を適当に周りながらこのブログを書いて、なにも日本がくそだくそだと言いたいのではなくて、日本しか知らない人を蔑みたいのではなくて。なんというか、「日本しか知らずに“苦しんでいる人”」に対して、「地球ってひろいんだぜ!」「地球ってこんな良い場所もあるんだぜ!」と教えたい。たった、それだけ。

 

「日本しか知らずに“日本だいすきな人”」はこれからもずっとこの先それでいい。

けれど一つだけ知ってほしいこと(お願い)がある。

 

日本で生まれたからといって、日本を好きになれない人もいるということ。

 

日本を愛したくても愛せない人がいる。日本という小さな小さな国の決まりや文化、当たり前にみなが熟す本当に本当に当たり前なことが“出来ない”。そんな愛くるしい人間もいるということ。そんな子に、何が何でも「日本を愛しなさい」といつまでも怖い顔をするのはやめてあげてほしいのです。故郷を愛せることはとても素晴らしいこと。ですが、きっとそんなことで苦しんでしまうその子は、その子こそ本当は「日本を愛したかった」に違いありません。もっと言えば、「“日本を好きになれる私”になりたかった」。だってそうすれば日本愛国者の人たちから背かれないし、生まれた街、お母さんが産んでくれた街を愛せることに喜びを感じられない私がおかしい、と思わなくて済むのだから。そして、生まれ故郷への愛を家族や友達と分かり合えることはステキなことだと、本当は知っているから。

 

日本を愛せない子に日本を愛することを強制することは、自分にとって学校が辛くて辛くて行きたくないのに体を引き摺ってでも学校に行かせようとするお母さんの感情や行動に似ている。けれどきっとママの本当の願い、本当であるべき願いは、その子が今通っている学校(居場所)を愛せるようになることではなくて、その子が愛せる学校(居場所)を見つけ出すこと。そして、大事な事。それは学校(居場所)つまり日本に馴染めない“その子ごと”愛してしまうことを忘れてはいけません。

 

学校と、日本。全然違う大きさに感じる人も必ずいると思いますが、自分にとってはどちらも同じ規模の話。それくらい、地球を愛する場合に広がる視界では日本などたった一部でしかないのです。コンサート会場で見る、ありんこサイズの大スターのように。

 

 

 

 

ということを、ずっと、言いたかった。

 

 

 

長い人生のほんの少しの間、この広い地球の別のどこかを好きになったっていい。

 死ぬまでそこが好きでもいい。

 でもそうやって色んな土地や人や物を知って、いつか日本という場所や人も愛せる人間になっているかも、分からない。

 

ならなくても、いい。

 

 

「日本しか知らずに“日本だいすきな人”はこれからもそれでいい」と書いたことにまだ言葉を継ぎ足したい。この世で住む場所や人や物、何を愛するかは個人の自由であっても、自分が好きだからといって他人が抱きしめられないよう好きなものを腕という武器で抱き囲んだり、逆に「みんな好きに決まっている(好きじゃないやつがおかしい)」「誰もが愛するべきだ」と、他に愛したいものがある他人の腕まで引っ張ってきて自分の好きなものを無理やり抱きしめさせようとする行為は非常に残念である。愚かである。

 

 

要約すると、ぜんぶの棘を抜いて、まるくなろうよ。という話。

 

 

輪を作りたい。

自分の中にも、人々の間にも、その全体にも。

 

 

 

現時点では、

「日本に生まれた理由」

「日本での生きづらさ」

「外国(どこか)が異常に恋しい気持ち」

「外国にいると落ちつく、馴染む」等

 

 

もしこれらの理由の分からないことに説明をつけるなら、ここに書いたことが一番しっくりくる“答え”で、且つ使命である気がする。

 

そして“その国”と呼んでいる求め続けている場所が、テレビで偶然見かけた時からずーっと異常なほどに惹かれている「ジョージア(元グルジア共和国)」なんじゃないかと数週間前から居ても立っても居られなくなり、これを書いている。11月に行く予定だけれど、もしかしたら全然違うかもしれないし、もし上記の理由でこの世界に生まれてきたのなら21歳で正解に近づきすぎるのは、少し早すぎる感じもする。ただ行ってみないと正解に近づくことも、遠ざかることも出来ない。ただあまりにも直感で体が惹かれているので、“何か”が待っているのは間違いない。

 

なつかしい街を求めて。