そらと子供
空は知っている
ぼくたちが苦しむ必要のないことを
僕らは昔しっていた
この世は楽しいことしかないことを
それはどうかな
「ちがうよ、んな訳ねぇだろ」
と言う人が沢山いるのを余所に、
そうよ〜と楽しそうに生きる人がいる。
校庭ではしゃげる子供が
雨で騒ぎ遊べる子供が
学校から家の道のりで楽しめる子供が
何もわかっていないようで一番この世のなにか大切なことを知っている気がする。
景気がどうとか会社の仕組みも礼儀作法もなんにも知らないけど、大人が落っことしてきたキラキラした物を沢山だっこしている。
子供にそんな素晴らしい天使のような無邪気さがなければ、「子供」である必要がない。育てる者が人間じゃなくても、大人じゃなくてもいい。クソ真面目になりすぎた「大人」という生き物に大事なことを思い出させてくれるかのように、僕らは随分じじぃばばぁになった後に数十年も歳の違う赤ん坊を抱く。
未だに子供は無理やりしつけをするものだと思い込んで「共育」からかけ離れた育児をする親も沢山いるけれど、育児における学びは始まりも終わりも何も無い。親も、子も。
育て上げた後に気付くこともあれば、沢山間違えながら愛しながら傷つけながら育て方が変わっていったり、自分の生き方すら見直したり。どんなに偉い上司に人生観を述べられるより時に子供が大きな影響力を持ったりする。
大人が子に教えることはダメなことばかりではない。この国が戦争中で危険な国ならまた話が違うが、今の日本に生まれる子供達に何を大人が教えないといけないかって、「大人になるのはこわくないぜ楽しいぜ。」ということだと思う。
僕がここへ来るまで、何人もの爺に「大人になることのしんどさ」「仕事の大変さ」「金を稼ぐことの大変さ」を学校でも酒場でも聞かされた。
当然それを聞いて大人になんかなりたくない、と思うのが子供であるし誰にも触れられなければお花畑でしかなかった脳内の未来図は見事に枯れ地化する。
いつか自分の子供が出来た時、またはどこかの子供と遊ぶ時、遊び方の分からない大人にはなりたくない。
子供の目線とは、物理的にも全く違っているから公園の遊具ひとつすら遊園地に見えたりもするし、石ころひとつが大事な遊び相手になったりする。
そこにさらに自由な見方と発想があって、砂場には軽々とエジプトとピラミッドを創り上げたりできるんだ。
それを分からずに足で踏んずけたり、何それ?ただの山じゃん、と言う大人になりたくない。
いつまでもそれを忘れないように、石ころがあればたまに蹴ってみたり、空を見上げたり、星を数えたり、塀に登ったり、無意味に雨に当たってはしゃいでみたり、そんなヤバい奴でいたい。
子供じみた危なっかしさの中には、つまらない大人の世界にはない光った石ころがゴロゴロ落ちていたりもする。
けど僕はもっと大人の世界を知らないといけない。
建前も、フリも苦手で本当に嫌になるけれど生きていく術として身につけなくちゃいけないんだ。
でもやっぱり嫌だからその時こそ女優だと思うしかなさそうかな。
クロアチアは今日も雨かなぁ。
雨の日に滑る石畳でジャンプして遊ぶ子供たちが、光る水たまりよりずっとキラキラしていた。今日もそうだといいな。