BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

この世の人間、あと数日後にしにます。

 

だったら、最高だ。

 

みんなが大事な事に気付き、

 

急に焦り出す人間はほんとに

バカすぎてどうしようもないけど

 

それでもみんなが寿命5日なら

 

急いででも手を繋ぎあって

 

目を合わせて

 

想いを伝えるだろう。

 

 

それが 死ね でも

おまえのことまじ嫌いだった でも

 

愛してますでもなんであろうといい。

 

 

なんとしてでも

 

つたえあうのだ。

 

 

木漏れ日

 

この世の夫婦やカップルで、好きなのにすれ違ったり小さな事で蟠りの生じている男女は皆、一週間ほど仕事を休んで遠い外国に行けばいい。

 

そしたらどんなに今起こっている問題がバカバカしくてアリンコみたいか分かるだろう。そもそも問題ではなかったことに気付くだろう。

 

小さな世界で愛し合っていると、どうも上手くいかなくなるものだ。

 

二人だけの世界は勿論どんな世界より愛で溢れていて欲しいけれど、二人だけの世界の秩序を保つには、二人は自分達より遥かに大きな世界の中にぽつんと佇む必要がある。

 

それはつまり日頃から会社という小さな世界だけで生きるのではく、仮に会社という小さな世界で住んでいても、意識は常に大きな世界の中に自分がいる感覚でいなければいけないということ。か?

 

と言いたいけれど、人間は自分の行動範囲の空間しか、認識出来ないであろう。

 

だから、だ。

 

もし雇われとしてこの日本で仕事をしていくのなら、そう簡単に一週間の休暇はもらえない、「ちょっと一週間バカンスしてきます」とは言えない、そんな中でどう広い世界に自分を置けるかだ。

 

自分はちょっと、雇われは無理なんじゃなぁい?と言う。

 

雇われるとしたら、雇ってくれるとしたら、スタート地点で「一生懸命仕事はしますが、何かあれば愛する人を優先します」と言う。

 

こんなことを言えば日本では終わりだが、そんなことを言える人間でありたい。日本では「私と仕事どっちが大事なの」の定番うざ台詞の答えは“仕事”でしかない。仕事をしなければ愛する人をお金で助けられないのだ。

 

けれどそういった働き方は、愛する人に何かあった時、愛する人が困っている時、元気がない時、様々な場面で守ってやる時間と余裕は生まれないのだ。

 

さて、この会社教の日本では、どう愛するのが正解だろう。

 

こうしている瞬間に、どんどん愛し合った男女がケンカをしたり物を投げつけ合ったり泣き喚いたりしている。

 

離婚は増えていく。

 

紙切れ一枚と広い一軒家に小さく収まった、愛のない二人も増えていくばかりだ。上手く愛せている二人をぼくはまだあまり見たことがない。

 

 

何かに悟った二人が仕事を辞めて世界一周に行ったり、長期休暇を取りクルーズ旅に行く夫婦がいる。

 

そこで色々な世界を見て時に喧嘩をすることはあったとして、死ぬ時に笑うのはどちらだろう。

 

すっかり社畜になった男が、愛の意味も忘れそうになりながら取り敢えず手は握っておいた淋しき妻と、仕事を辞め二人の時間と世界を広げた男がぎっしり掴んだ妻は、どちらが幸福だろう。

 

別に、世界を見たからといって上手く愛し合えるわけでも、世界に興味のない者もいる。

 

会社で働きながらも、かえってその時間が二人の世界を上手く回していることもある。

 

一概にどうとかは僕だっていえない。

 

ただぼくには、人間同士、特に恋人間で起こるお互い好きでいるのに何か問題を感じている二人はもっと世界の広さを知って欲しい。

 

「世界」というのは世界地図の世界を表しているけれど、そうじゃなくてもいい。

 

 

休みの日に木漏れ日を感じ、はだしになって緑の上に寝転がるだけでいい。

 

自然を感じることは、地球を感じることだ。

 

地球を感じれば、自然の偉大さを知り、思い出し、“自分達”も“自分達に起こっている問題”も全てが小さすぎたことに気付けるのだ。

 

 

もうすぐで満ちる月よ、お休みなさい。

 

宙ぶらりん

 

 

散らばった四人の家族の、想いが夫々どこを浮かんでいるか分からないまま、月日は過ぎる。僕の想いは独りでに宙ぶらりんのまま、五線譜からはみ出したピアノの音符の様にひとりぼっちだ。

 

今すっぴんで外を歩いても僕の目に力が漲切っているのは、この地球においての生きにくさや悲しさからかと思えば、そこに紛れる誰とも比べ物にならない生命力からである。

 

僕は今、身体こそ元気ではないけれど、極太に真っ直ぐなアスパラガスのように強く曲がらぬ信念が心の根っこから聳え立っている。

 

自分の中で守りたい自分、それは誰にも傷付けられたくない柔かい部分、イコールそれは強い部分。それらを知っている。

 

何が許せなくて、何は許せて、何をこの人生で成し遂げて死を迎えたいのか、気持ち悪いほどにコントラストが明瞭になってきた。

 

どんな人間と付き合えば良いのかを身体が学んできたのだ。

 

 

日本で活躍するだとか、海外で活躍するだとか、手段としてどこを舞台にするかは考えなければいけない所だけれど、ぼくにはその境目は少しぼやけている。視界をはみ出す位に地球のイラストが常に映っているからだ。

 

汚れていく海も、被爆した人間も、撃たれて死んだ子供達も僕は放っておけないかと思えばそうでもない。みんなだってそうだろう。

 

それよりもぼくは、やっぱりこの日本のヤバさを計りたい。そろそろ皆が、今まで気付かなかった人も、身体に症状が現れたり、もうどれだけ異常か分かってきている。この、狭い国の“仕事教”のヤバさを。

 

ぼくはただうたいたい。

 

みんなの仕事を休みにして、芝生の上で寝転がらせたい。海辺で裸にして太陽を感じさせたい。あの停電になった夜のように星を感じさせたい。生を感じさせたい。

 

なぜこんなにも皆が仕事に操り棒を取られて踊らされているのか、ロヴィ二の様な街を眺めていたら本当にわからない。

 

魚を釣る人がいて野菜を売る人がいて、朝市には街が賑わい、子供は遊び、それを眺める大人は微笑み、夜には作った物を分け合ったり笑顔もお酒も飛び交っている。

 

衣、食、住、どれもシンプルであったものがこのご時世、複雑になりすぎている。

 

ぼくらの生活はもっともっとシンプルでいい。

 

シンプルであったはずだ。

 

変わることも複雑になることも構わないが、それを成すには大事な基本を忘れないことだ。

 

僕が今絵を描くなら、お札やビルを大きく描き、諭吉は皆に縋り付かれており、操り人形のように紐を垂らした先に顔の死んだ人間達を小さく描く。手足の力は抜け切っている。

 

 

それが今、いやずっと前から僕の眼に映る日本だ。

 

 

日本の良い所を観せるばかりじゃ、おれの表現や生まれてきた意味が成り立たないから、きっと神様が日本のヤバい部分にピントが合うようにわざとおれの眼を細工してくれたのだろう。

 

 

せいいっぱい

 

皆がいま、自分のことで精一杯である。

 

精一杯同士で上手く愛し合えるのは、女友達同士だけである。

 

精一杯な男は精一杯な女には気付けない。

 

精一杯な女は精一杯な男に気付かれない。

 

精一杯な人間は

 

いっぱいいっぱいの人間は

 

自分を犠牲にし

 

誰かを愛することなど

 

持てやしない愛を両手に

 

乗せようとしては落ちていく

 

それに気付く頃には

 

その愛を一瞬でも拾った彼女は

 

もう死んでいる

 

 

ころしたのだ

 

 

 

 

あおいそら

 

かがやくうみ

 

てりかがやくたいよう

 

ゆれるきのおと

 

かぜのおと

 

 

 

 

 

あぁ何も無いこの地球のおんなじ時間で

 

危機の迫るアラームではなく

 

それら自然がゆったりとした時間をただ過ごしているにも関わらず

 

 

地球の裏側では

 

それを感じようと裸でバカンスをする者

 

 

の裏で

 

焦り狂って支度をして走って出社する者

 

 

それをながめる僕

 

 

どっちがうつくしい人間だろう

 

 

どっちが自然が喜ぶだろう

 

 

どっちが自然には理解できないだろう

 

ぼくには全く理解ができない

 

 

 

 

 

メガシャキ

 

疲れてるあなたに

 

風邪でも休めないあなたに

 

 

 

こんなキャッチフレーズが耳に馴染んでいるこの国は本当にいかれてるのだ

 

 

目がしょぼしょぼしたら寝ろ

 

疲れたら休め

 

風邪なら頑張ったんやな休め

 

 

ぼくは全部のキャッチフレーズを変換したい

 

 

 

 

 

まったくいかれている

ちぎれた楽譜

 

「ピアノなんか辞める」

 

「誰がおれにピアノなんて習わせたんだ」

 

「おれがこんなにピアノを好きにならなければ良かったんだ」

 

 

そう数分前に感情を爆発させ泣きながらジャズの楽譜をぶっちぎったぼくは、もう既にピアノを聴いている。

 

 

でも今は弾きたくない。

 

会いたくない。

 

会いたくて仕方が無いのに、

好きすぎて会いたくないのだ。

 

この広大な敷地でさほど大きくないあいつの居場所すら確保できないぼくに、あいつは何を想うだろう。この状況で一番の迷惑をかけられているのも、さみしいのも、おれじゃなくてあいつだろう。

 

 

「ピアノを辞める」

 

だなんて、ぼくを知っている人であればどんなにぼくの頭がイカれたかよく分かる。ぼくの感情がよっぽどひねくれて、よっぽど嫌なことがあって、よっぽど限界点を越えた時にしか生まれないであろう一番言いたくのない言葉だ。でもさっきそれは生まれた。

 

すると頭の回転の早くない母が、被せるようにして「優芽にそんなこと出来る訳ないでしょ」と言った。久しぶりに暴れ出した愛娘に冷静な訳ではないが、その言葉だけはとても穏やかだった。

 

優芽にそんなこと出来る訳がないから、ピアノの愛される場所の無さも、愛されなくとも「そこにいていいよ」と言われる場所の無さも、いつも騒音扱いされるあいつの声の居場所の無さも全部、全部、もう哀しくて申し訳なくてどうしようもないのだ。それが限界点を越えた。

 

それとももしあいつに言葉があってそれを喋れたとして、あいつが「故郷に帰りたい」と言えばおれは返すだろうか。

 

今あいつとお別れ出来ないのは、他にピアノが沢山あるのにあいつでなきゃいけないのは、単なるおれのエゴだろうか。

 

答えはちがう。

 

元は母の母、おれのばあちゃんから受け継がれたあのピアノは、母の姉妹や色んな人が触ってきた。それが今、その当時生まれてもいなかったおれの手に馴染んでいる。そしていつしか仲良しの心友になり、いつしか感情表現の苦手なおれをいつも助けてくれる友達になった。

 

ピアノはペットと同じだろうか。飼い主の勝手な意向である日知らない家にぽつんとやって来ては、一人の女の子が大切に毎日弾いてくれ、かと思えば両親の離婚で家が無くなることになってしまったり、女の子がピアノから離れてしまったり。

 

ぼくは家のピアノと自分を、照らし合わせているんだろう。

 

犬を飼うなら、犬が死ぬまで面倒を見なくてはいけない。人間だって、ピアノだって、ぬいぐるみだって、みんなおんなじだ。

 

さっきぼくは

「誰がおれにピアノを習わせたんだ!」と叫んだけれど、

 

親が子に何かを習わせるというのは、果たしてどこまで責任を負うものだろうかと考えた。

 

何の気なしに通わせたピアノ教室から、子供が「ピアニストになりたい!」と言ったり、体操教室に通わせた子供が「オリンピックを目指す!」と言ったら。

 

ぼくはきっかけを与えたのもまた親であるのに、大きな夢を掲げた瞬間にそれを封じ込める親になりたくない。金銭的にも、環境的にも、だ。

 

そんなことは無理だと言うかもしれないが、ならばせめて心は寄り添いたい。協力する姿勢でありたい。

 

 

悲しいときはピアノへ向かう。それなのに今、ピアノのことで悲しいぼくは一番悲しいであろうあいつの体を借りて、自分の悲しさを音にすることが出来ない。

 

あいつの声まで一緒に奏でられたら良いけれど、ぼくの手をのせて生まれる音はぼくの気持ちから生まれる音だろう。

 

きっと、だぁれもいない一人ぼっちの時に、あいつはか細い声で誰にも聴こえないほど切なく優しく歌っているのだ。

 

 

ピアノに乗り移るように、ぼくの喉は枯れてしまった。あいつと同じ、言いたいことが言えなくて寂しさだけが募りに募って、もう嫌なのだ。この世界が。

 

クロアチアでもハンガリーでも、外国に行けばいつもピアノのある部屋に招かれるように出会うのに。

 

思えば小さい頃も、ピアノ練習中に「うるさいから戸閉めて」と言われて泣いたことがある。そんなことを思い出す。

 

 

 

疲れてしまった。