BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

イスラム教の断食を試みた結果

9月1日。イスラム教では「イード・アル=アドハー」という、日本語に訳せば「犠牲祭」が開催された。Wikipediaによると、

 

イスラム教で定められた宗教的な祝日。イブラーヒームが進んで息子のイスマーイールをアッラーフへの犠牲として捧げた事を世界的に記念する日。ムスリムラマダーン明けのイードの1つである、イード・アル=フィトルと同様に、イード・アル=アドハーは短い説教をともなう祈祷から始まる。

 

はい。意味わかりません。

 

 

今周りにいるのがトルコ人イラク人、ボスニア・ヘルツェゴビナ人、シリア人…とこんな具合なので、アラビア語で今にも窒息死寸前の自分。

 

こんな環境は滅多にない。且つ、多くの日本人は自分の宗教に執着がない(興味がない)のは疎か、他国の宗教観など手に触れようとしたこともないので、彼等から直接的に学んでみようと試みる今日この頃。

 

「犠牲祭」については書き出すと長々しくなるので気になる人はこちらを見てくれると有難い。

家で牛さばいちゃうの??犠牲祭イード・アル・アドハー - エジる

 

さて、その犠牲祭の前日、8月31日。イスラム教徒の友達らが「明日は断食や!」といきなり前日の夜に知らせてくる。通りでその日はお腹いっぱい食わされた訳だ。  

 

この環境に住まわせて頂いている限り、彼等と出来るだけ同じ物を食べて、同じ時間に眠って、同じような生活を送りたい。もちろん断食もその一つ。これが一般的な「旅行」とはハッキリ区別している自分の旅のルール。

 

 

そして始まる、8月31日。

 

元々、朝昼なしで夕食1食なんて日も普通にあるのであまり何とも思わない。

 

が。

 

15時。

ちょっくら頭痛が始まった。

 

大したほどでもないので寝れば治る程度に考えていた。

 

しかし、この日はメインの駅まで行って、どうしてもお金を下ろさなければ行けない日(同居してるトルコ人の家賃のヘルプ)。ATMの受付はあと1時間。

 

選択肢は1つしかなかったので、銅像のような体を起き上がらせて上下スウェットの髪ボサボサ、“この娘に何があったの”状態で雨の中を歩かせる。

 

列車を待っている間、気付けばその体を立たせることすら困難になっていた。それでも帰ることは出来ない。人混みの中紛れる、もはや人間ではない異常な生き物を人間の目が捕らえている。が、そんな目など気にする余裕もないくらい、息をすることで必死だった。

 

メインの駅に到着。

 

「あ、ちょっとやばいかも」

 

中学生の頃に起こした強烈な片頭痛、からの嘔吐、の感覚とやけに同じだった。このままいけば吐いたりして?と思う暇も与えられていないほど、今にも死にそうだ。

 

何とかお金を下ろし終え、薬局で頭痛薬を買い、バーガーキングのテーブルを借り、薬を飲む。

 

 

 

 

 

あ。

 

 

 

水、飲んだ。

 

 

※「断食」とは飲み物も含まれる。

 

 

まぁ、こればかりは仕方ない。当たり前だ。と思っていると彼が「はんばるがー?(ハンバーガー)しょうるま?(トルコ料理)?」次々と料理名を並べている。

 

え、食わねぇよ。

 

何度言ってもめげずに聞いてくるので、「5分寝かせてくれ」と言い、授業中に寝るあの格好で久しぶりに眠る。

 

そして気付く。

 

 

「トイレ、行きたい」

 

 

彼がバーガーキングの店員に聞いてくれ、2人で少々歩いて行く。そして更に重大なことに気付く。

 

 

「やべぇ、出る」

 

 

(※苦手な人は今すぐ閉じてね。)

 

 

何がヤバイかって、下じゃない。

「口から」だ。

 

 

すぐさまダッシュするも、ヨーロッパはめんどくせぇ!お金を払わないと公共のトイレは使えねぇ!彼が急いで小銭を取り出し、秒でゲートを掻い潜り、何年かぶりに便器に頭を下げる。

 

(※苦手な人は今すぐ閉じて下さい‹2回目›)

 

 

 

 

あれ。

 

 

何も汚くねぇ。

 

 

臭くねぇ。

 

 

 

尿を口から出してしまったかと疑うほど。

 

 

直ぐにググると正しくこれは、「胆汁」だ。

 

普通は皆さんご存知、「胃液」を吐くのだが、吐くものがない場合に「胆汁」まで吐いてしまうそう。つまり、果てしなく吐いた挙句の胆汁、といったところ。

 

しかし自分の場合は明らかに、“胃が空っぽ”だった状態での胆汁という訳だ。

 

初めて見る、そして初めて聞く、胆汁という液体に何の愛しさも抱かずトイレに流した。

  

 

再びゲートを潜ると彼が普通の顔で待っている。

 

もう大丈夫?といったようなことを彼は聞いてくるが、読者の方には大変申し訳ないことに、まだ、ちょっと、どこか気持ち悪い。

 

速やかに帰ろうと歩いていると、

 

「はんばるがー?(ハンバーガー)」

「しょうるま?(トルコ料理)」

 

彼の口は今それしか喋れないようだ。「いらんよ」と言うと、さっきまで「断食中だ!」と言っていた彼がなんとトルコ料理店の前に立っている!

 

しばらく待つこと数分。途中、道にうずくまる自分を心配して声をかけてくれるお姉さんにも会い、そんなこと一切知らないトルコ人は勢いよく“しょうるま”を歯で噛みちぎり出す。断食はどこへ行ったんだ?

 

そんな疑問もどうでもいいと感じるほどに腐りかけた体を列車に放り込み、今までにない長さの家までの距離を体験する。

 

 

何とか、駅に到着。

家までは徒歩で2分。

 

のはずだった。

 

 

 

 

あれ。

 

 

また、だ。

 

 

 

 

さっきと同じ感覚が喉を通り、更にさっきにはなかった脈を打つような波が全身を襲う。それと同時に、彼が咄嗟に“ゴミ箱”を探すが見当たらず、「ここ!」と彼の指が指す先。

 

それは駅のホーム。

 

「まじ?」と顔で問いながらも今にも口から噴出してしまいそうなブツはどうしようもなかった。

 

 

 

◎△$♪×¥●&%#?𓀡 𓁿 𓁻 𓁼 𓁉 𓃰 𓃱 

 

 

 

完。

 

やってやりました。

 

 

「19歳。ドイツの駅で、胆汁を吐く。」

 

 

なんて貴重な経験が出来たのだろう。この駅のホームでの嘔吐を最後に、気持ち悪さもほぼ過ぎ去り、後はまるまる2日間、ひたすら身体を休めるのみでした。

 

 

これを書いている今、やっと記事を書けるくらい元気になりましたが、なんとも素晴らしいことに身体も心もデトックスされ、感覚が研ぎ澄まされています。

 

今まで何となく口さみしさに与えていた「食べ物」も、“本当にお腹が空いた時”にのみ、“本当に食べたいものだけ”を与えるようになり、今までどれだけ「食べ過ぎていたか」を痛感しています。

 

残念ながら、容赦なく体調を崩してしまったお陰で肝心な「犠牲祭(イード・アル=アドハ)」を体験することは出来ませんでしたが、その代替として「ドイツの駅で吐いてくる」 という極めて価値の高い経験を収めることが出来ました。

 

 

 

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あの日、この世に生まれた胆汁。

 

もう一生出会えないけど、いつも一緒に居たはずなのに、初めて見ることが出来た。

 

駅のホームに産んじゃったモンだから、生まれてすぐに列車に轢かれたんだろう。トイレの水中に産んでやるのと、どっちが良かったんだろう。

 

外の景色はどうでしたか。

 

自分よりも、自分の身体の中を知っている胆汁が羨ましく、愛しく、

 

 

いっそ、コップいっぱいに取っておきたかった。

 

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 と思う自分は

 

きっと過度の変態で、

きっとただの「耽美主義」(※)

 

なんだろう。

 

 

 耽美主義は、道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮である。これを是とする風潮は19世紀後半、フランス・イギリスを中心に起こり、生活を芸術化して官能の享楽を求めた。 

 

 

 

財布を失くした次は嘔吐。と、見事にまたドイツを出る日にちが延びてしまいましたが、お陰様で吐く前とは明らかに異なり「行きたい場所」が澄んで見えています。

 

さてそれがどこなのかは、向かっている最中か、将また着いてから書こうと思います。

 

 

 

喧嘩するには共通言語がほしいけど仲直りするにはいらない話

 

トルコ人と喧嘩した。

同居開始からもうすぐ2ヶ月。

 

いつもは朝8時半に起床。トルコ人はまだ寝ている。が、その日は10時過ぎまで熟睡、彼の方が先に起きた。

 

ソファで寝ている自分の元へ彼がやって来て、「〇〇行ってくる」というが勿論聞き取れない。するとその日家に泊まっていた彼の友達と、Google翻訳機が揃って「Zoo(動物園)」と訳した。

 

 

その瞬間、気付いたら怒っていた。

 

 

(…えw)

 

 

“だって、ライオン、見たいもん”

 

 

 

というのも、彼の口からは「一緒に行く?」なんて言葉が発せられてるが、3秒後には家を出るような雰囲気をプンプン放っていて自分には準備する時間など与えられていないのだ。

 

女が寝起き3秒後に出かけられると思うなばーか。

 

そして、

パーシーが、

 

どれだけライオンを好きだと思ってるんだ。

 

 

ていうめちゃくちゃ下らない理由でなんか知らないけど怒っちゃった( ˙༥˙ )ごめんねトルコ。

 

 

そりゃそう、この日は生理がきたばかり。

 

タダでさえ意味もなくイライラしてしまうのに、大好きなライオンをトルコに独占されてしまっては死んでしまう。パーシーにとって、それくらい壮大なスケールの中「動物園」は存在しているのに、それを意図も簡単に蹴り飛ばす。

 

彼は慣れない英語で即座に「あいむそーりー、あいあむそーりー」と言い、家を出た。

 

自分の怒りの大きさに気付かない彼と、ライオンへの愛情と嫉妬で精神が狂い果てる。視界に入る物全てをぶちまけたかったが、少し大人になった今は“投げても大丈夫な物”を考える余裕を持っていた。目の前にあった“かゆみとバイバイ(かゆみ止め)”をぶん投げる。

 

暫く動けず、テーブルに頭をくっつけていると玄関のドアが開く音。彼の恒例行事、忘れ物だ。

 

咄嗟に彼は床に転がった“かゆみとバイバイ”を拾い「何だこれ?」というのも束の間、 「あー。さてはこの野郎!とぶん投げたんだな?」と笑う。が、この辺りからパーシーの異常さに気づき始める。

 

共通言語の持たない2人は何も理解し合っていない。彼はまさかパーシーが「生理で情緒不安定な上に大好きなライオンが独占されるとは何事だ」というクソみたいな理由で怒っているとは知らない。

 

彼の方が折れたのか、事情が変わったのかは分からないが「やっぱ行かない、スーパー行ってくるわ」と言う彼にまたも苛立ち。

 

 

「いや、動物園行けよ。」

 

 

 

 

(あまのじゃくwwwwww)

 

 

 

生理前、生理中に起こるPMS(月経前症候群)のイライラは何をされても結果、苛立つのだ。男性の皆様、ご迷惑お掛けします。とは毎度思ってるんだけどね。思ってるだけ。

 

メイクする気力もないけどシャワーくらい頑張って入っとこ、と思いシャワーから出ると「パーシー!」キッチンから彼の声。

 

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なんと、この状況でパンとコーヒーを持ってきてくれたのだ。

 

ただそれだけで、ライオンが消えた。

笑えるほど怒りに意味はなかったみたいだ。

 

彼はいつもそう。それしか喋れないんじゃないか?と心配になる程、お腹空いてる?を多発するのだが、自分の答えに関係なくいつもお腹いっぱい食べさせられる。その“日本のおばあちゃん”的な愛情に今回もヤラれてしまった。

 

恥ずかしながら謝る子供の様に「ありがとう」といい、濡れた髪のまま大事に食べた。

 

気付けばもう、2人の間に流れる空気は澄んでいる。

 

そしてどういうことやら、「動物園一緒に行く?」という流れが生まれ、買ったばかりのチャリを借りてサイクリングが始まるのだった。

 

2人の空気に負けないくらい酷く済んだ森の中を、勢いよく2つのチャリが駆け抜ける。やがて動物の鳴き声が横から現れ、更に加速してチャリは進む。

 

そして勢いよく辿り着いた先、そこはライオンの待つ動物園!!!

 

 

 

 

 

 

ではなかった。

 

 

犬。

 

犬。

 

 

そして、犬。

 

 

どこを見渡しても猛獣の気配はない。

 

 

「え、だったら家でアコーディオン弾いてたんだけど」というのが正直なところだったが、来ちゃったもんは仕方ない、犬でも楽しんでやろうじゃないの。

 

仲良く散策すると、確かに「動物園」と呼ぶべきように犬が檻の中にキレイに“陳列”されている。人が飼えないようなでかい犬も顔を揃えている。

 

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結局、犬と多少の猫とウサギとネズミを見て、終わった。

 

彼はどうやら、“チャウチャウ”を見に来たらしい(本気で飼うと言っている)。

  

帰りは行きよりもエキサイティング。ギリギリ道になっている道をひたすら走り、また違った可愛い町並みも発見、仲良く帰宅。

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(伝わんなwwwww)

 

 

 

もし2人に共通の言語があれば、訳の分からない喧嘩(自分が勝手に怒っているだけw)は平行線だったかもしれない。言葉があれば“愛してる”や“ありがとう”を伝えられる反面、傷つけることも出来てしまう。

 

ましてやスマホなんてものが世界のあちらこちらに隙間なく普及し、いつでもどこでも誰とでも言葉を交わせてしまう今、その“便利さ”が「想像力」を掻き消してしまっている。

 

言葉がなければ人はもっと優しくなるとも思う。

 

あの日、意味のわからない怒りを産んだ自分が偉そうに書くことはできない。に加え、言葉の有無が果たしてどちらが良いのかは時と場合にもよる。がしかし、言葉を持って生まれてしまった以上、言葉を発することは止めたくない。大事なのは“使い方”だ。

 

そして個人的な見解として、もし言葉が最も大事なコミュニケーションツールだとしたら、異なる言語の人間など生まれなくてよかったのだと思う。

 

 

現に今、誰一人マトモに言葉の通じないこの国で、生きられているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忘れられない日本人

アコーディオン、初ストリート演奏」とタイトルを付ける予定が、“忘れられない日本人”に会ってしまったので、変更しました。

 

 

昨日、この記事に書いた“最高な演奏場所”を目掛けて、途中シャッターを切りたくなる衝動にも打ち勝ち、ニュルンベルクの街を一直線。ここ最近、長袖でもいいくらいだったのが、今日はまた28度。アコーディオンをおんぶしての坂道は砂漠だ。

 

と、ふと目に入り込んだのはいつも目にする無駄にカッコイイ建築物。「こんな素晴らしい建物に囲まれてんのに何も感じないのかよ」と地元民に不満を抱えていた自分も、今じゃそちら側だ。だが今日は何だか、惹かれた。

 

よく見ると、ドアが開いていて人がスムーズに出入りしている。このスムーズさにお金を払っている素振りは見受けられない。

 

ということで、入りました。

(所持金ゼロ)

 

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 ……

 

 

 

圧巻。

 

 

何故、今まで外見だけで満足して中を気にすることもなかったのだろう。

 

そこでもまだ、「こんなことしてる場合じゃない」と使命感で破裂しそうな頭に針を指し、弾きに行く前にしばらくここで“無”を感じることにした。

 

結果、何十分ここに滞在したことやら。

いや、時間すら存在しなかった。

 

だがしかし。やはり“音楽”を欲してしまう僕の身体には、いつものRADWIMPS野田洋次郎を授けてあげる。

 

 

君の名は。」で一気に跳ね上がったRADだが、その時は驚いた。この世界観が大勢の人間にウケるのか?と。

 

というのも、今自分が知っている人間の中で1番感覚が合うのが野田洋次郎。会ったこともないが、あんな曲を何十曲もこの世に産み落とし、それを聴いた自分が涙するのは、裸で会っているようなモンだ。

 

普段から自分が感じている独特な世界観を、自分が書いたのか分からなくなるくらい見事に「音楽」に変換してくれる唯一の人なので、それが万人に受けるのが不思議で堪らなかった。彼の音楽が存る限り、自分で曲を作る必要は無い。

 

広い教会の中、前から2番目の席。そんな野田洋次郎(自分)の世界観と、ひんやりとした教会の静寂が妙にマッチし、涙が零れる。

 

 

「最後の歌」/  RADWIMPS

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忘れてた。

 

 

 

いま、生きてた。

 

 

 

 

 

これまでの人生が走馬灯の様に瞼の裏に映し出される。正しくは無理矢理、映し出した。

 

言葉も喋れなかったあの頃にママが毛布をかけてくれたこと、どうしても食べられなかったキュウリ、それでもどうしてもママの喜ぶ顔が見たくてティッシュに包んで捨ててしまったこと、その瞬間をママに見られたこと、嫌いな男子から机を2cm離したこと、教室に入れずトイレに篭ったこと、学校の屋上から飛び降りたいと思ったこと、それでも生きたいと願ったこと。

 

全て書いたら指がつる。

 

大好きなじいちゃん、“高卒”という肩書き、進路、恋人、友達、家の鍵、チャリ鍵、あの日の宿題、財布、そして財布、失ったものは溢れかえっている。

 

それでも生きている。

 

本当は何も失ってないのかもしれない。

 

あの日消えた宿題のことなど、あの日消えたチャリ鍵のことなど、思い出す日なんて一日もない。今失った財布のことなど、死ぬ時には瞬きの如く一瞬の出来事となるんだろう。

 

それなのに何故こうも感情豊かに生まれてきたものか、目の前の出来事に全身を使って必死にしがみつく人間は、愚かで、愛しい。

 

 

おっと。

 

このブログを書くには、教会に来たのは間違いだった。話が進まない。

 

最後に、

「良い出会いが訪れますように」

 

と教会を後にした。

 

 

ここからは坂道のオンパレード。せっかく目から流れていた涙が、また汗と化して全身から溢れ出す。 

 

涙と汗で脱水症状の手前、やっと辿り着くとそこはバイオリン弾きのおばあさんに先を越されていた。目が合ってニコっと笑みを交わすが、「おいおい笑えねーよそこオレの場所!」と心の中で叫ぶ。おばあさんにはバイオリンの音しか聴こえないみたいだ。

 

「まじありえな」と日本にいる友達とラインを交わしていると、ん?昨日のバグパイプのおっちゃんの時と背景が若干、違う。随分似ている、が、ここじゃない。

 

昨日は本当に何も考えずにぼけーっと、心の、足の、赴くまま進んで行ったのだなぁ、と実感。ブログタイトル“BOKETTO”とはこれのこと。自分にピッタリすぎた。

 

何とか記憶を辿り、次こそ“バグパイプおっちゃんの跡地” に到着(バグパイプおっちゃんが居たらどうしようかと冷や冷やしたw)。

 

 

初、路上演奏。

 

のはずが、昨日とは遥かに人通りが少ない。

というか、いない。

 

今日はいかんなーと思いながらも音を鳴らし始めるとポツポツと人が通り、少しするとツアーの団体が通ったりと、どうやら波が激しい。

 

「今日は初めてだし、ここでいっか」

 

と練習がてら弾いていた自分も「にしても、この人の少なさはないわな」と場所を変える。前に、あと1曲ほど弾こうとしていた時。

 

左から流れて来るのはツアー客。しかも中国人。ツアー中、笑顔はくれてもチップをくれる人はいなかったので、ボランティア感覚でまた音と笑顔をお届けする。すると先頭を切っていた男の人が口を開く。

 

 

男性「じゃぱにーず?」

 

自分「じゃぱに…」

 

 

全て言い切る前に、振りかぶる様にして中国人全員が口を開く。

 

 

「え????日本人??」

 

「え日本人なの???」

 

「に、日本人??えほんとに??」

 

 

(…あ、ツアー中の中国人じゃなかった。) 

 

そっちこそ、中国人じゃないのかよ!!

 

 

「え日本人なの????!!」と負けじと同じセリフで対抗し、さっきまでアコーディオンと多少のドイツ語が響いていた洞窟が、日本語で充満した。(お互い日本人だと思わないのは、海外在住日本人あるあるw)

 

初めてドイツで会う日本人。

 

日本にいる頃から敬語はあまり多様しない自分だが、実際に人と会って日本語で言葉を交わすのは約2ヵ月ぶり。更にこのマイナーな場所での出会い、そして中国人じゃなかった件、脳ミソがスパーク状態で見事なる語彙力の低下。

 

完全にローラになっていた自分。「今ねー財布失くして一銭もないの!(てへっ)」 と特に考えずに言うと、最初に「じゃぱにーず?」と聞いてきたリーダー的なおじさんが「なにそれ罠じゃないの〜?騙されないよー」と言ってきた。

 

 

何のことかサッパリ分からなかった。

 

 

今考えると、チップ下さい!とわざわざ路上で演奏している少女が「財布失くしたの」なんて、「いいから早くお金入れてください」と言っているのと同じだ。とんだイヤらしい少女。

 

意味を理解し、ちがうちがうそういう意味じゃなくて…!と必死で首と手を横に振りまくるも、おじさん達の手にはいつの間にか財布が用意されている。そして更に信じられない光景が目の前に現れる。

 

「おじさん達がそういうのに弱いの知ってるんだろ〜(笑)」

 

と小銭に加え、なんと、水色のお札やオレンジ色のお札を持ったおじさん達の手が、まだ幼いアコーディオンのケースに伸びているのだ。

 

その瞬間、外には流れなかったものの、確実に涙が流れた。

 

 

 リーダー「24、25歳だろー?」

 

 自分「じゅーきゅー」

 

 全員「…じゅーっ…きゅーっっ?!??」

 

 リーダー「こんなとこで何やってんのさぁ、母さん心配するぞー、はやく札幌帰りなさい。」

 

 

そしてそれに付け足す様に「よぅし、なんかあったらここに連絡してこいよ!」とリーダーが自分のポケットをたたき、それを合図に彼等は歩いていった。

 

※勿論、連絡先などもらってない。

 

彼等は会社の出張(という名の旅行)だというが、それ以外は驚くほど情報がない。正直、顔さえハッキリと思い出せないが、優しかった表情だけが明確に目が記憶している。

 

こんなことが起きてしまったのは、このドイツ、しかもニュルンベルク、しかも変な洞窟もどき、の場所でたまたま「“同じ日本人”だった」という、ただそれだけだ。自分の演奏など、誰も覚えていないだろう。

 

最後までユーモア混じりの愛を洞窟いっぱいに注ぎ込んでは、名前も出身も連絡先も残さずさり気なく居なくなるとは、カッコよさにも程がある。ヒロインはいつもそうだ。

 

 

この日の帰り道は、あまり記憶がない。

 

が、もう一度、路上で演奏する前に訪れた教会に行き、もう一度、前から2番目の席でさっきと同じ曲を聴いて泣いたことは覚えている。

 

 

ちなみに、合計で66ユーロ。

日本円にして約8500円。

 

非常にありえない金額だ。

 

 

乾ききった喉に今すぐコーラを流してあげたいが、額縁に入れて飾ってしまいたいくらい愛しいお金をなかなか使えないのと、家に着くまで我慢してからコーラを流し込む“あの爽快感”を味わいたいので、大人しく速やかに帰宅。

 

列車の記憶が恐ろしくない。

 

ただ、この、財布を失くしてから今日までお金のなかった期間(財布を失くす前も)、食べ物や笑いや寝る場所を平気な顔で与えてくれた周りの“アラビッシュ”達に一番に恩返しがしたかった。

 

 

隣に住む売店のおっちゃん。

 

売店のドアを勢いよく開け、コーラ、いや、ファンタオレンジを買った。駅の売店で買うのと、何の変わりもないファンタオレンジ。それでも何としてでも、このおっちゃんから買いたかったのだ。

 

駅の売店のコーラと睨めっこしたものの、何とか勝利して家まで我慢したのにはこの理由が1番だった。

 

売店の前には名前も知らない、“いつものおじさん”が階段に座ってビールを飲んでいる。

 

こう書いていると、おっちゃんに囲まれて生きている自分。全てのおっちゃんに今日の出来事を話すと、全てのおっちゃんが自分の子供の事のように喜んでくれた。

 

家に入ると、「どうだった?!」と同居中のトルコ人と友達が待っている。同じように話し、同じよう喜んでくれ、最高の“ファンタオレンジ”を共にする。

 

 

ファンタオレンジ、こんな美味しかったっけ。 

 

 

日本人で良かった。

 

 

日本人て、いいな。

 

 

アコーディオンで(じゃなくてもいいけど)有名になって、彼等に自分の存在が届く日が今から待てない。そして、ありがとうと言いたい。

 

 

 

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ドタキャンがくれたプレゼント

8月25日。いつもとは違う友達が「色んな場所見せてあげる!」ということで、とても楽しみにしていた日。

 

その“友達”とは、公園でアコーディオンを練習していた際に話しかけてくれたランニング中のお兄ちゃんで、それ以来一度も会っていない。が、数ある出会いの中、面倒くさがり屋の自分に心から“また会いたい”と思わせたなかなか手強いお兄ちゃん。

 

そんな兄ちゃんとは連絡もチャットみたいにポンポン飛び交わす訳でもなく、従来のメールのようなゆったりとしたやり取りをちょくちょくしていた。それが面倒くさがり屋の自分には丁度良かった。

 

マイペースの自分と、マイペースの彼が都合良く時間を共有することになった奇跡的な今日、勿論、お昼を過ぎても待ち合わせ場所も何も決まっていない。案の定、仮に予定していた時間から1時間ほど過ぎた頃、「オー、ソーリー、電波が途切れたよ!」なんて連絡を頂く。

 

そして彼の送ってきた住所に約20分かけて到着するが、全く連絡がつかなくなり、少し待ってみるも直ぐに明らめた。また電波を失ったのか、将又、道端に咲いている花に一目惚れでもしているのだろう。

 

それくらいが、好きだ。


そして始まる一人観光。

 

数回足を運んだことのある観光名所だが、奥まで散策するのは初めてだった。彼を待っている間は英語の勉強をし、既に彼のお陰で色んなことが出来ている。普通の人なら彼に何十件と連絡をして、怒りで爆発してるんだろうなぁ。

 

目が慣れていたはずのそこは、少し奥へ踏み入れるだけで全く別世界が広がっていた。そして、ドイツではまだ見ていなかった狭い小路(大好物)を発見してしまった自分は、オワリだ。情緒を保っていた両脚が狂い出す。宛もなく、ただワクワクする方へと走り出すのだ。まさに小学校の帰り道。

 

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(心拍数MAX)

もう、ハウルの動く城魔女の宅急便、どれでもいいが逸早く「人生のメリーゴーランド」を耳に流し込む。

小路を抜けて、更に小路、また更に…と、余りにも酷い吸引力なので「ジブリの世界に飛び込んで帰れなくなるのではないか」と本気で心配になる、20歳手前(ピュアすぎて可愛い)。

 


だがそれは半分、本当だった。

 

心臓も足も正常ではなかった為に、どんなルートを辿ったのかもさっぱり覚えてないが、小路の誘惑にただただ負け続けた末、洞窟のような道を経て、辿り着いた先。それは。

 

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思わず口から出たのは“oh my gosh”。だが景色の美しさよりも、こんなにも坂を登っていた自分に驚いた。楽しい時間とは恐ろしい。

 

勿論、始まるのは黄昏タイム。すると僕の耳が今度は、日本の音楽でもない、アコーディオンでもない、「ケルト音楽」(バグパイプ)を求めてきたので、放り込んでやることに。

 

耳が満足して帰ろうと思うと、イヤホンを抜いたはずの耳。それなのに同じ音色が鳴り続けている。だがどこか、遠い。音が近くなる方へ足を走らすこと数分。

 

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いました。バグパイプ
今聴いていた、バグパイプ

え、今、聴いていた、バグパイプ?!!

 

子供のようにヤケに感動して、堂々と真ん前にスライディング体育座り。おっちゃんはそんな感動も知っちゃくれず、休符なく息を注ぎ込む。どれくらいいただろうか。洞窟の中、裸足になってバグパイプの音に全てを投げた。

 

ここは人気の観光名所よりはマイナー。人数も特別多くはない。序に、どのくらいの人がチップを置いていくのかを観察することに。

 

観察すること数十分。やはり人数はしれているがしかし、確実にゼロではない。そして人通りの多い眩しい駅での演奏より、遥かに自分にはピッタリの空間だ。それに何より、ここまで警察が来ることはないだろう。

 

ポイントはもう一つ。小道を抜ければ抜けるほど、如何にも高価なレストランや如何にもお金持ちの老夫婦が増えていき、流れている空気そのものが落ち着いていたのだ。

 

「ここに決めた」。

 

残念ながらチップを渡せるお金はないので、ここでアコーディオンを弾いて、そこで貰ったチップをおっちゃんに渡すから待っててな!とひっそり告げてその場を去る。

 

帰り道、同じように駅がどこかなんては放っておいて、ワクワクする方へとただ歩いて行く。すると今度はどこからか、今にも消えてしまいそうな音色を耳が察知した。

 

アコーディオンだ。

 

またもや音の鳴るほうへ足を走らすと、発見。レストランのテラス席。可愛げのあるおじちゃんが優しい顔、優しい手つき、優しい音色でその場を包んでいる。全てが、優しい。

 

そこで食事をする訳でもないのに、気持ち悪いほどアコーディオンに釘付けのジャパニーズ。嘸かし変態だっただろうが、おじちゃんも、店員さんも、お客さんも、優しい目で笑ってくれた。

 

今までドイツで見てきたアコーディオ二ストのなかで、このおじちゃんの演奏が1番好きだった。あくまでも「BGM」なので音量はかなり控えめだが、上記にも書いた様、全てが優しく、お金があればコーラでも買って永遠に聴いていた。次また会えれば話しかけよう。

 


今日1日、“彼がここに自分を来させたのには”、“彼がここに来なかったのには”、「きっと理由がある」と思ってワクワクしていた。きっと思いがけない出会いや出来事がある、と信じていた。

その為、こんなに素晴らしい出会いがあっても感動はするものの「彼が会わせたかったのはこの人か!」「彼が見せたかったはこの景色か!」と一人で納得するのだった。

彼がくれたのは、近くにあるのに知らずにいた「最高な景色」と、日本にいる頃から心が惹かれていた「バグパイプ」、そして「アコーディオン」との出会い。それから最高な演奏場所。

 

 

「ドタキャン」からはじまったこの物語。

 

それでも尚、彼が好きなのは、何でもかんでも「オー。ソーリー!」のテンションで収めてくるクソさなのだ。ここでクソ真面目に謝ってくれるような人と、自分はあまり付き合えない。普通は逆だろうが、こんなことで笑い合えない友達は自分には向いてない。

 

そりゃ、約束や時間を守ることが大事なことや、相手の時間を奪うことがいけないことくらいは知っている。が、「友達」に関しては時間の“感じ方”を共有できる人間、又、起こりゆる出来事の捉え方がプラスな人間といたい。なんていうか、「ばか」と居たい。

日本にいる母に電話すれば、「ゆめはそれくらい自由な人じゃないと無理だよね」と言うので、なんて私の母は私を知っているのだろうかと感動した。

 

生まれつきこうだった訳ではなく、こんな自分にも「ドタキャン」に怒っていた可愛い時期もあったのだが、色んな経緯を経てこんな生き方になってしまった。その辺は徐々に砕いて書いていこうと思う。

 

ドタキャンに限らず、起こってしまったハプニングはどうしょうもない。出来事はただ起こっているだけだ。つまり、本当は“良い出来事”も“悪い出来事”も存在せず、自分が勝手に価値付けをしているだけなのだ。

 

かといって、数日前に失くした財布も、失くした瞬間に「財布だけで良かった!私ってラッキー!」と思うのはちょっと気持ち悪い。人間らしく、チクショー!と一度は悲しみや怒りに浸かってもいいのだと思う。思いきり。大事なのはその後だ。

 

どうせ何をしても変わらない、“起こってしまったこと”なら、笑ってしまった方がイイ。

 

待ち合わせでイライラしてしまう女性には1番なりたくないものだ。

 

そんなこんなで、明日は、バグパイプのおっちゃんの領地を奪ってアコーディオンの音色カマしてきます。

 

 

(以上、更新が一日遅れたので昨日の話)

 

翌日、宣言通りバグパイプおっちゃんの跡地でアコーディオンを弾くのですが、見事にまたミラクル起こします。

お金、いらないかも。


久しぶりにアコーディオンを抱えて公園に行き、帰宅。夜の22時。興奮状態のまま、記事に残しておく。

 

今日は人が少なく、練習する場所を割と選べたのでベンチに座って弾くことにした。その選択が後の自分の首を絞めるとは知らずに。

 

練習を開始して一分も満たないうちに、一人のおじさんが話しかけてくる。こいつがもう、記事に書く価値もないくらい酷い酔っ払いで、一瞬にして公園が彼の舞台(ミュージカル風)へと変化する。ただでさえ共通言語がなく訳分からないのに、そこにアルコールが加って正にセカイノオワリ。途中退席も出来なかった。

 

通行人に助けを求めようと、道行く人を観察していると感じの良いお姉さんが現れたので、すぐさま「英語話せる?!何が起こってるかわからん!たすけてや!」とヘルプを求む。自分の直感はやはり鋭い。彼女は英語も喋れる上とても優しく、「私達はここを離れないとダメよ」と手を引いてくれ、見事に彼の舞台をも中断させた。

 

そしていつもの階段で練習しようと少し歩くと、またもやおじさんが話しかけてくる。このおじさんもまたドイツ語のみで、驚くほど何も通じない。驚くほど何も通じない(二回言いたい)。驚くほど通じないのに(三回目)、嫌気がさすほど彼はめげず、大した会話でもないのに随分時間を奪われた。

 

ここまでに、約一時間。

 

「家では思い切り弾けないから」と公園に来たはずなのに、これじゃもうどこへ行っても練習にならない。

 

やっとの思いでいつもの階段で弾き始めると、今度は自転車に乗った青年が階段の下で車輪を止めた。見覚えがある。ついさっき「good」と手でサインをくれた青年だ。わざわざ自分の元へ戻ってきて、「聴かせて!」という青年はとてもピュアだった。青年とは連絡先を交換。“友達”の生まれ方に難しいことは必要ない。

 

そしてまだ終わらない。

 

暗くなるまで時間が少ないので、周りの世界は遮断して音と自分“二人きり”になりたく、川沿いに移動。初めて練習といえる名の練習ができ、暗くなってきたのでそろそろかと思う頃。

 

背後をみると一人の男性(おじさんでも青年でもない)が丸太に座っている。何しているのか聞くと、「演奏を聴いてるんだよ」といい、会話がはじまる。その中で、“財布を失くしてお金がない”話もするのだが、それに対し彼の口はとても優しく開く。

 

「それじゃ、こんなとこで弾いてたらだめだよ。メインの駅に行って弾かないと。50ユーロはもらえるよ。私の友達はそこで楽器を弾いて30ユーロ稼いでた。」

 

「パーシーの演奏はとてもいい。それに、殆どの人がアコーディオンの弾き方を知らない。だからみんな、立ち止まってしまうよ。」

 

光が指した。


が、そんな彼に自分が返した言葉は一言。

 

「お金が無いからそこまでの切符も買えないもーん。」

 

すると彼はポケットから財布を取り出し、小銭を差し出してくるではないか。6ユーロ。ちょっきし、行きと帰りの切符代。なんてクレイジーな。連絡先は交換せず、“またここで会えること”と、“明日メインの駅で弾いてくること”を約束してかたく握手をした。

 

一度公園に来ただけでこんなにも出会いがあるのなら、毎日公園に出向いていれば今頃何人と出会っていたのだろう。どんな人との、どんな出会いを逃してきたのだろう。なんて考えながら耳にはRADWIMPSを流し込み、家に向かう。

 

この時、新たなるミラクルが待っていることは知らなかった。

 


狭い歩道。向こうから来る自転車を避け、アイコンタクトで合図をする。外国にはよくある目で会話をする光景。それにしても、何だろう、何かが、おかしい。「道を譲る」という一瞬だけでヤケにフィーリングが合った。当然、後ろを振り返っても、自転車の彼はもう見当たらない。

 

瞼に彼の残像を残しながら不思議な気持ちで歩いていると、あろう事か、どこからか自転車が現れた。彼が道をUターンして戻ってきたのだ。こんなこと、あんのかよ。

 

とも思わず、それが当たり前であるかの様だった。彼は「ゆーすぴーくじゃーまにー?」「ゆーすぴーくいんぐりっしゅ?」と言い、続けて「あいあむあらびっしゅ」と言うのだが、これには腰が抜けた。今同居しているトルコ人との出会いのシーンと、全くもって同じだったのだ。

 

これにはアドレナリンも黙っちゃいられず、トルコ人との同居で覚えてしまったアラビア単語を次々とこの世に吐き出した。

 

更に気持ち悪いことに、彼とも翻訳機を交えた三人での会話になるのだが「あなたのこと見たことある気がする」と言うと、“みーとぅー”と返ってきた。流石のGoogle翻訳機も腰を抜かした。

 

 

もう、わや。

 


彼とは家の近くの信号まで一緒に歩いたが、6ユーロおじさんの後のこの出会い。気付けば辺りは真っ暗。向こうの道路には同居しているトルコ人がいて、わざわざ迎えに来てくれたみたいだ。

 

信号が青になり三人が合流すると、自分がアラビア語を話したことや、出会いのシーンが全く同じだったことを話して盛り上がる。

 

帰宅すれば、お腹空いた?とご飯が待っており、隣の家のおっちゃんは意味分からないデカさのスイカとスイーツを持ってくる。一銭も払っていないのに、食後のデザートまで付いて宿泊出来てしまうとはどんなイカれたホテルなのだろう。

 

ついさっき会った自転車の彼も、「いくら必要なの?日本からお金届くまで必要でしょ?」と言ってきたり、この間公園で友達になった友達も、トルコ人も、みんな同じセリフを言ってくる。

 


もう、お金、いらないかも。

 

 

「財布失くしてお金がありません助けてちょ」とネットを介さず身近でクラウドファンディングを成り立たせてしまっているようなものだ。

 

クラウドファンディング(英語: Crowdfunding)とは、不特定多数の人が通常インターネット経由で他の人々や組織に財源の提供や協力などを行うことを指す、群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語である。 ソーシャルファンディングとも呼ばれる。”

 


ということで、今日は重たい6ユーロと重たいアコーディオンを抱えて、街に繰り出すします。

 

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(練習場所w)

 

 

ミラクルだらけで禿げそうです。