BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

おうこく

 

ちがう。

 

今住んでいる場所が優芽の求めている世界が違うというより、この地球のどっかに優芽の描いているずっと探し続けている国がもう既にあって、その国には昔住んでいて、覚えているからこうも哀しいほど愛しく、悲しく、美しく、そして何よりそれを一人きりで感じているから、切なくなる。だけどそこの国の少し色褪せた土壁の家々、坂道、雨の日の石畳、キラキラした海、早朝から並んだ魚、果物、野菜、ニッコリ微笑むおじいちゃん、美味しいスープの作るおばあちゃん、犬、ネコ。それらは優芽を覚えていて、きっと今日も遠く想い合っていて、会ったらすぐに溶け合うんだ。アイコンタクトと、年季の入ったスマイルで。そんな日の夜は、必ず音楽とお酒、美味しい料理があって人々の輪が出来る。日本では飲み方の汚い人が目立つから「お酒は嫌い」と陳じているだけであって、お祝いや行事の人の輪に交じったグラスはとても好きだ。

 

だけどあろうことか「日本」という国に産まれ落ちた自分はその故郷がどこにあるのか、それからその国の名前、たったそれだけ、忘れてきてしまった。けれど決めている。その国にまた辿り着いたら、もういちど人や風景、街ごとぜんぶ抱きしめて“自分”を思い出し、その感じたままの身体で日本に降り立つ。そしてその国の料理や人の生き様、温度、存在を日本のみんなに聞かせたい。知らせたい。知ってほしい。要するに、知るべきである。そして本当に大好きな人、何人かはその国によんで、最高の“おもてなし”をしたい。これはエゴに見えて極めて相手を想った、絶対にしあわせだと骨の髄から感じてもらえる人生最高の旅行になることを誓う。

 

 

最近、“もっと広くて複雑なことを感じているのに上手く言えずに勘違いされてきたこと”を少し器用に文章に変換出来る力がついてきて、今回の文章も前々から思っていたことだけれど変換力がついてきた今やっと書けている。今回の記事は、Percyをただの日本キライキライ星人だと思っていた人に、多少上手く伝わるといい。伝わんなくてもいいけど。

 

 

日本人の多くが愛国心というか、今の時代「おくにのために!」と命を懸ける人まではいないと思うけど、そんなものを持っている。だから「日本やだ」といったら、ゴロッと目が変わって“なにを言っているんだ!!”と言われる、というかそもそも言えない圧を感じるけど、都道府県に関してはみんな、言いたい放題だ。東京が嫌いだとか、東京人はみんな〜だとか、茨城の人が「栃木と一緒にするな!」と威張ったり。まるで「おまえどこ中?(中学校)おれ〇〇中。」なんて中学生の可愛らしい会話に聞こえる。自分の中で世界は一人の体のようで、だから体の一部(日本)だけを愛するつもりがないだけで、日本を愛していないのではない。ぜんぶひっくるめてすき。本当はね。だけど別に、大きい体のどこか一部が愛せなくたって、どこかのひと部分愛せる場所があれば良いと思う。

 

今まで数カ国を適当に周りながらこのブログを書いて、なにも日本がくそだくそだと言いたいのではなくて、日本しか知らない人を蔑みたいのではなくて。なんというか、「日本しか知らずに“苦しんでいる人”」に対して、「地球ってひろいんだぜ!」「地球ってこんな良い場所もあるんだぜ!」と教えたい。たった、それだけ。

 

「日本しか知らずに“日本だいすきな人”」はこれからもずっとこの先それでいい。

けれど一つだけ知ってほしいこと(お願い)がある。

 

日本で生まれたからといって、日本を好きになれない人もいるということ。

 

日本を愛したくても愛せない人がいる。日本という小さな小さな国の決まりや文化、当たり前にみなが熟す本当に本当に当たり前なことが“出来ない”。そんな愛くるしい人間もいるということ。そんな子に、何が何でも「日本を愛しなさい」といつまでも怖い顔をするのはやめてあげてほしいのです。故郷を愛せることはとても素晴らしいこと。ですが、きっとそんなことで苦しんでしまうその子は、その子こそ本当は「日本を愛したかった」に違いありません。もっと言えば、「“日本を好きになれる私”になりたかった」。だってそうすれば日本愛国者の人たちから背かれないし、生まれた街、お母さんが産んでくれた街を愛せることに喜びを感じられない私がおかしい、と思わなくて済むのだから。そして、生まれ故郷への愛を家族や友達と分かり合えることはステキなことだと、本当は知っているから。

 

日本を愛せない子に日本を愛することを強制することは、自分にとって学校が辛くて辛くて行きたくないのに体を引き摺ってでも学校に行かせようとするお母さんの感情や行動に似ている。けれどきっとママの本当の願い、本当であるべき願いは、その子が今通っている学校(居場所)を愛せるようになることではなくて、その子が愛せる学校(居場所)を見つけ出すこと。そして、大事な事。それは学校(居場所)つまり日本に馴染めない“その子ごと”愛してしまうことを忘れてはいけません。

 

学校と、日本。全然違う大きさに感じる人も必ずいると思いますが、自分にとってはどちらも同じ規模の話。それくらい、地球を愛する場合に広がる視界では日本などたった一部でしかないのです。コンサート会場で見る、ありんこサイズの大スターのように。

 

 

 

 

ということを、ずっと、言いたかった。

 

 

 

長い人生のほんの少しの間、この広い地球の別のどこかを好きになったっていい。

 死ぬまでそこが好きでもいい。

 でもそうやって色んな土地や人や物を知って、いつか日本という場所や人も愛せる人間になっているかも、分からない。

 

ならなくても、いい。

 

 

「日本しか知らずに“日本だいすきな人”はこれからもそれでいい」と書いたことにまだ言葉を継ぎ足したい。この世で住む場所や人や物、何を愛するかは個人の自由であっても、自分が好きだからといって他人が抱きしめられないよう好きなものを腕という武器で抱き囲んだり、逆に「みんな好きに決まっている(好きじゃないやつがおかしい)」「誰もが愛するべきだ」と、他に愛したいものがある他人の腕まで引っ張ってきて自分の好きなものを無理やり抱きしめさせようとする行為は非常に残念である。愚かである。

 

 

要約すると、ぜんぶの棘を抜いて、まるくなろうよ。という話。

 

 

輪を作りたい。

自分の中にも、人々の間にも、その全体にも。

 

 

 

現時点では、

「日本に生まれた理由」

「日本での生きづらさ」

「外国(どこか)が異常に恋しい気持ち」

「外国にいると落ちつく、馴染む」等

 

 

もしこれらの理由の分からないことに説明をつけるなら、ここに書いたことが一番しっくりくる“答え”で、且つ使命である気がする。

 

そして“その国”と呼んでいる求め続けている場所が、テレビで偶然見かけた時からずーっと異常なほどに惹かれている「ジョージア(元グルジア共和国)」なんじゃないかと数週間前から居ても立っても居られなくなり、これを書いている。11月に行く予定だけれど、もしかしたら全然違うかもしれないし、もし上記の理由でこの世界に生まれてきたのなら21歳で正解に近づきすぎるのは、少し早すぎる感じもする。ただ行ってみないと正解に近づくことも、遠ざかることも出来ない。ただあまりにも直感で体が惹かれているので、“何か”が待っているのは間違いない。

 

なつかしい街を求めて。