東京
なんだかもう、しばらく居る気がする。
大嫌いだった東京の空気は前よりも吸うことに抵抗を感じない。
東京といえど、いろんな街があり、いろんな空の顔があり、雲があり、また人が居た。
僕が「東京なんか日本一嫌いだ」という勢いで東京を嫌っていたのは、僕は東京のごく一部しか知らなかったからだ。
いやそれでも、確かに街が醸し出す空気や雰囲気は、もちろんクロアチアのロヴィ二に比べたら最悪だ。
それでも、こんな街でさえ、とっても目と魂が透き通っていて僕と同じ世界を視界に入れている人間、目的地が同じ旅人、人生の仲間が沢山居た。
彼等は、随分前からそこにいた。
おそらく、東京を毛嫌いしていた時の僕には、出会えなかったであろう人々。人間達。
その街が嫌いかどうかは、確かに街全体の空気や人の表情、生き急いでいるかどうか、街が刻むスピード感で決まる。
確かにこの世界はどうやらどこも同じ1分1秒を刻んでいるらしいが、どうも「時間」という感覚は場所やしている事、一緒に居る人、によって歪んでいるのだ。
俺はゆったりとしていて、又、カレンダーで見るととても早い、そんな時間の流れの生き方をしたい。
とってもシンプルで、横に音楽が居て、坂道と洗濯物があり、人々も野菜もフルーツも生きていて、海や風を感じたと思えば雨に打たれ、光る雷を見て美しいと感じる自分が居る。そんな人生を過ごしたい。
また沢山の人が、僕に会えて「嬉しい」と言った。
僕の作ったご飯を、「美味しい」と言ってくれた。
僕の笑顔を、「素敵だね」と言った。
オーラを褒めてくれた。
ただ、それと同時にまた「目力が恐い」と言う人間が現れる度、僕は悲しくなる。
人間の目は、何を語りたがっているのだろう。
犬のように黒目が大きく動きが無く、もっと表情のない瞳だったら良いんだ。
なんて僕は思いたくない。
なぜだか瞳を怖がられる度に涙が出る。
俺は言葉を失っても、この目を失うことはしたくない。
それくらい、きっと僕の目は「なにか」を訴えているんだと思うからだ。
それは僕の目を怖がったおろかびとに対する「怒り」かと思えば、目の奥は針で刺されたような悲しい顔をしていて、その瞬間生まれた感情を映し出しているかと思えば、「もっと大きな何か」に対する怒り悲しみかもしれない。
「もっと柔らかくなればもっと可愛いのに」
そう言われた僕は、そんな事を言ってくる人間には柔らかい眼差しは送れないだろう。
僕はまだ幼いんだ。
まだ反骨心の様な愛しい気持ちが心に住んでいて、そいつはきっととても寂しがり屋で、怒りたい訳ではなく、一緒に分かち合える同棲相手を探している。
僕の事(よさ)を最初から分からない人は、ずっと分からない。
そいつらに好かれる為に笑ってみたら、俺の瞳の奥と心はちっとも笑えない。そんな奴に、僕の素敵すぎるスマイルは高すぎる。勿体無い。
僕の中の僕は本当はとても素直で可愛くて、誰よりも少年の様にピュアで小さな虫さえ殺せれない様な心の持ち主だ。
人々は言う。
「自分で言うか?」と。
優しいのも、格好良いのも、どれも自分で思ってたって良いじゃないか。
謙遜という作業が大好きな日本人は、「自分で優しいと言う人は優しくない」だとか自分で可愛さを自覚すればナルシストだとか言うけれど、本当は誰よりも自分がそれに気付いてあげるべきで、そう思う生き方はとても素晴らしいのだと思うのだよ。
「優しくなりたい」と思う心はもう優しくて、「愛したい」と思う心はもう愛してるのかもしれない。
実際に相手にとって優しいのか、愛されてると思われているか、それを「優しい」「愛してる」と表記するならばそれは受け手側にしか表せない言葉だ。
「そうしようとしている」という“状態”をひょっとしたら人は動詞で表したのかもしれない。
東京には「何かあったらすぐに言ってね」と言う友達が沢山いて、地元には「帰っておいでね」と僕の帰りを待つ仲間が沢山居る。
またそれが違う国ですらそうだ。
こんなに幸せな事ってあるんだろうか。
こんなに愛される人間などいるのだろうか。
僕は飲み会に行って主役じゃないと嫌な訳ではなく、僕に興味が無い(自分しか興味の無い)人間とはまず合わないから、無駄な表情筋を使いたくないだけだ。
気付けば心に閉じこもった「誰に対しても笑顔な僕」がまた復活するのは、僕が最高に居心地が良いと感じる場所でしかないのだ。
ねむたいから中途半端やけどもう寝よう。
東京の星は意外とキレイだな
by藤原さくら