可愛げ
怒りの奥にあるのは、哀しさだ。
ぼくが怒りという目立ちたがりの感情に騙されずに、ちゃんと自分のそれに気付ける時は、お風呂かベッドに潜ってピアノの音色に浸った時である。
さっきまで荒々しく火をぶちかましていた山から、一筋の純水が流れる様に、そっと川が開かれるかの様に。
音、とは不思議である。
ぼくは元々、人に怒りをぶつけるというのが下手だけれど、それをぶつける努力をするのでもなく、篭らせる訳でもなく、こうして奥の奥に恥ずかしがって出てこない「哀しみ」というブツをただ抱きしめてやることに意義がある。
何しろ、心が求めているのはそれなのだ。
確かに、戦争が許せなかったり、自分勝手の政治家が許せなかったり、恋人の浮気が許せなかったり。それは相手への怒りで間違いないだろう。
それを間違いだと言える強さも素晴らしいが、それが身近な人への物である場合、そこにあるのは「本当はこうしてほしかったのに」というただ愛というふわふわした感触にただ浸かりたかった、若しくは自分が愛と思って放ったそれを、感じ取ってほしかった、理由なんてこんなもんしかない。
それがほとんどだ。
もっと素直になりたい。