もしも今日、地震がくるのなら。
今。
数秒後に地下の岩盤が破壊されたら。
今日眠りについたあと、そうなったら。
この文章が最後の言葉になる。
さっきあの人に見せたあの笑顔が最後の笑顔になる。
さっきあの人に見せた怒りが最後の怒りになる。
その人にとっておれの最後の表情は怒りに満ちた顔であり、
その人の最後におれが突き刺したのは真っ赤な槍である。
その人に与えるべきだった両手で抱え込んでいたはずの真っ赤なハートすら吹き飛ばして、それすら忘れて。
今死んでしまえば、
さっき道を尋ねてきた人が最後の話し相手になり、さっき挨拶を交わした嫌いな上司が最後の話し相手になり、さっき食べた特別旨くもないコンビニ弁当が最後の晩餐になり、さっき無愛想だったそこの店員が最後にぼくの声を受け取った人だ。
もしもぼくが、
今日大好きな家で眠るのなら、大好きな場所で死んでゆける。
今日大好きな人と眠るのなら、大好きな人と手を繋いで死んでゆける。
今日嫌いな人とセックスをして寝てしまったら、嫌いな人と裸で死んでゆく。
今日明日には覚えてない人とセックスをしてしまったら、顔も知らぬ人間と裸で死んでゆく。
さて、僕らは何処に居るべきだろう。
誰と居るべきだろう。
誰に会うべきだろう。
誰に伝えるべきだろう。
誰に謝るべきだろう。
今、ぼくは何処に誰といるのだろう。
大事なのは最後の瞬間だけではない。大事なのは最後だなんて誰かが言うけれど、死んでしまえば、母の腹内に命を灯した日からこの世を去るまでの長い年月に、大した時系列は関係しないようにぼくは思う。
ケンカが最後となったカップルがケンカをしながらも愛し合っていることはお互い承知していたり、笑って終えた夫婦が内心はお互いを憎み合っていたり。
ぼくはじいちゃんが死んでから、「人はいつ死ぬか分からないから」と人とケンカをすることや、怒りを放って一瞬でも家族や友達と手が離れるのが恐かった時期がある。
その時の自分の体は異常なまでに「これが最後にかるかもしれないんだよ?」と訴えていて、なんだかめんどくさい奴だった。
自分ひとりでそうしとけりゃいいのに、他人にまで押し付けてしまうものだ。するとそこに在るはずの沢山転がった愛情に気付かず、そりゃあ今日死ぬだなんて考えちゃいない普通の人間からしたら重たい訳である。
では今の自分は。
「今日、しぬかも」
という気持ちは変わらず居座っている。
けれど違うのは、他人にまでそれを求めなくなったことと、大事なのは最後のシーンではなく本当の意味でその人と気持ちが通っていたか、と考えるようになったことである。
ぼくは他人がどんな生き方をしてようとマネをしてようと、少々くさい台詞も平然と口から吐き出せる人間になりたい。
今まで沢山の人間に手紙を書いてきたけれど、手紙ほど後で見返して重い、恥ずかしい、きもい、そんなものはない。
でも良いのだ。
考えすぎでも、感じ取りすぎでも、重たすぎでも、くさすぎでも長すぎでも、僕はこれからも人に伝えることを怠りたくない。
なぜなら一つ下の後輩が、雲ひとつない快晴の空のようにいつも純粋に周りの人間を愛していた。その姿があまりにも眩しく、子供のように美しかったからだ。
彼女は小さい体でいつも120%の愛情表現をしていた。普通の人間じゃ手を伸ばさないであろう人間、たとえば立場が上の人にまで遠慮なく土足で踏み込み愛を振りまいていた。
“愛される人”
とは、他の誰よりもとことん周りの人を愛する人間だと思う。限りなく純粋な心で理由もなく無邪気に。そう思いたい。
きっとそんな風になれば、誰が見ても天使のようだろう。
けれどそれでも、それを“悪魔”と呼ぶ人間もいるのだから、自分を天使だと思い込むのが手っ取り早いんじゃねえか、と思った深夜0時である。
明日は何処へ行こう。