手押し車のおばあちゃん
数日前。地下鉄の階段の一歩手前。手押し車に手をかけたおばあちゃんがいた。
エレベーターもない冷めた地下鉄で、果たしてその手押し車をどう階段下に持っていく気をしているのか、全く行動予想の立たないおばあちゃんがいた。
ぼくの後から駆け足の女性が現る。「くそ!おれが助けようとしたのにおまえもか!」と思いほんの一瞬、顔がこわばったが、女性はただ急いでいただけだった。
お陰様で、ぼくの手が、強く欲していたおばあちゃんの手押し車の上の部分にすっと伸ばされた。
「っ持つよ。」
おばあちゃんは少し驚いた表情をしてから、あらありがとぅ、だなんて言っていた。
階段を下り終えるまで、手押し車が知らない若者に攫われたおばあちゃんの足はとてもゆっくりだった。
片手であまりに軽々と掲げるようにして持つ手押し車。空いた手でおばあちゃんと手を繋いでもよかったけれど、それではあまりにも“老人を介護してます”感が出てしまうので、少しだけ足のスピードを合わせるだけにした。
無事に二人の足が駅のホームに着くと、
「どぅもありがとぅ。」
「たぁすかりましたぁ。」
と、おばあちゃんにしか出せないあの可愛らしい声の発生と優しさと笑顔でその場をゆっくり離れた。
たかが5mにも及ばないような階段の距離でも、一人で重たい荷物を運ぶとなればフルマラソン並の距離に感じられる。
おばあちゃんはとても有難味の篭もりまくった表情でオレンジ色の“ありがとう”をぼくにくれたけれど、もっとぶっきらぼうにしてくれりゃあよかった。
あの一瞬でも驚いた表情は、間違いなく普段から手を差し伸べてくれる他人(ひと)が滅多にいないのだということをぼくの頭は悟った。
自分が旅をしていて、大きなスーツケースに大きなアコーディオンを抱えて公共機関を沢山使っていたから尚、助けてくれる人への熱い感謝も助けてくれる人のいない地下の鉄道の冷たさも両方よく分かるのだ。
きっと元からだろうが、それからぼくの目は地下鉄に乗る度にいつも自然にそういった人を探している。
ぼくは写真を撮ってアートにしたい程に、9割の人間が俯いて首を前に突き出しスマートフォンに釘付けになっている駅の光景を、ピンと姿勢よく見渡すことを習慣にしている。
すると同じようにピンと姿勢のまっすぐなサラリーマンやマダム、とはたまに目が合う。というより、目がいく。スマホ俯き社会では、“姿勢を正す”だけでどんな激しい化粧をするよりヒールを履くより遥かに目立つ。残り1割の人間になれるのだ。
逆に、ぼくが仮に有名人であろうと、9割の人間は気付かないということだ。
その9割の画面の中で生きている人間と、姿勢を正して颯爽と歩く1割の人間に見えている世界は、まったく違う。
けれども、画面の中の世界に入り込むくらいなら、よっぽどマシだ。
本当に余裕のない人間はスマホを触る暇すらなく、他人の顔も見る暇も困っている人を助ける隙すら無く、全力疾走で改札を通過して列車に乗り込むことしか考えていない。
ここで言えるのは、ぼくはなるべく何時どんなときも「周りを見渡せる人」つまり余裕のある人間でいたいということだ。
それはつまり、人を助けられるということだ。こんな僕も急いでいる時はもちろん手押し車なんて蹴飛ばしてしまいそうに、おばあちゃんなんてぶつかってしまいそうになる。そんな時は、見えてすらいないからだ。
そうなれば助けてあげられるべきだった人を助けられないのと同時に、何も関係の無い人にまで「おれは急いでいる」という完全なる自己中心的な発想からなる怒りしか他人に与えられないのだ。
ぼくは何時でも手押し車のおばあちゃんに気付ける存在でありたい。気付くことさえ出来れば、助けるのはもう当たり前のことだ。
ぶっきらぼうに感謝される日も中にはあるかもしれないが、布団に入る前に「今日はあの時あの方が助けてくれて幸せでした」とニコニコ眠りにつこうとしてくれているかも分からない。
たった一瞬、減りもしない筋力や差し伸べるだけで感謝されるこの手を、ピアノを弾く為だけでなくこうして人と繋げたい。
銭湯の湯船で出会うおばさんには下手に出るが、
「ちゃんと人にお願いしなよっ」
そうニコッと、多少上から目線のような口調でおばあちゃんとお別れした。