BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

人間模様の正解

 

人間関係全てに正解があればいい。

 

人間関係のはじまりは自由やファンタスティックなもので構わない。

 

よくわからなくたって構わない。

 

けれど人間関係のオワリはそっと誰かに道筋を照らしてほしい。

 

人間関係のオワリとは連絡が途絶えたりLINEがブロックされるとか小さなものではなくて

 

その二人が死へと向かう時に果たしてそれが最良の関係の在り方なのかどうか、またそれまでに一旦終わらせたであろう関係が再び出会う時、それでもあの時はこうして良かったねと言えるオワリ方をしていたのか、そんな所である。

 

もう会わなくなることを終わりと呼ぶか、嫌われて顔も見たくなくなられる関係を終わりと呼ぶか、死を終わりと呼ぶか、そもそも定義にすら正解がない。定義がないから正解がない。

 

喜怒哀楽という言葉があるが、実際人間の感情はとても数字では分けられない数の、色の、蜘蛛の巣のように張りめぐされた鮮やかな感情がある。もっと人間の感情が蜘蛛の巣でいえばたった5本ほどから成るシンプルな構図であればよかったに違いない。

 

そんな複雑にひしめき合った僕らの感情。同じ景色でも多様な表現の出来る日本語ですら、間違いなく人間の感情に追いつく事はないだろう。意味も、種類も。

 

 

僕は随分人との距離が上手くなってきたけれど、僕が人を好きなあまり、今もまだ心地よい二人の間(ま)の感触を忘れてしまうことがある。

 

しかし、やはり大好きな人の胸に飛び込んで行くまでには一時停止や止まれの標識も、〜注意の標識もぜんぶ無視して走行したい。人間関係の正解は誰も教えてくれないと書いた通り、おそらくそれらの“標識”は誰かが僕を安全に走行できる為に作ってくれたものではなく、僕が僕自身で既に生まれた感情を抑制しようとしたり受け止めないようにした場合に見えるものだと思う。

 

この世の人間関係という名の道路は非常にくねくねしているし、全員に共通した標識もない。夫々が好きなスピードで走り、怖くて未だエンジンを踏めてない人もいれば、大好きな人に煽り運転をして嫌われている人もいる。

 

「カーズ」を思い浮かべてみて、車一台を人一人だとするならば。片方が怖くてスピードを出せない場合、それに合わせてしまえば何の美しい景色も見ることは出来ない。かといって無理に手を引っ張っても、相手は辛いだけだ。お互いが気持ちよく仲良く走る為には、お互いが同じスピードで走る必要がある。

 

時に、スピードをMAXにして追いかけっこをしてもイイ。ゆったりと走行してもイイ。ただ相手をよく見ることだ。相手のエンジン音に異常がないか、疲れていないか、自分にはない標識が相手には見えていないか。そして相手にのみ集中して自分を忘れるべからず、二人にのみ集中して周囲を忘れるべからず。

 

そうしていれば、自分の走行次第で防げた自分と相手の命は少なくとも大いに守ることが出来る。

 

まぁ、そんな安全運転をしててでも暴走車や誰も殺す気のなかった初心者マークの老人車は誰も止めることができないできない。となれば、余計に好きな人との距離やスピード感を大事にしたい。というよりか、楽しみたい。

 

全く、人間とは車社会と似ている。