BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

死んだ魚の目は死んでいない

 

今まで、魚にとっても失礼なことを言っていた。

 

生きる喜びや目的を失っている人や社畜の人間の目を、「死んだ魚の目」とよく聞いたり言ったりすることがあったけれど、それは間違いでした。

 

昨日、居酒屋の食卓に出てきた活エビの目は、とっても愛おしくてかわいらしかった。そもそも魚でもないし、死んでもいないけれど、あと数秒で人間の手により殺されるエビの目はあまりに円らであり、頭を撫でたくなるようだった。

 

実際には、飛び跳ねるエビを目の前に、ぎゃーぎゃー騒いでいたわけであるけれど、自分の意思とは関係なく声をあげることも出来ない状態で人間の食卓に出されてはきゃーきゃー騒がれるエビの気持ちといったら、考えることもできない。なんて残酷な人間だ、と思う。それでもエビが人間の前に座れて、間近に人間を見られて喜んでいる可能性もなくはないので、エビにならないと分からない。

 

 

エビの心臓は頭にあるときいた。

 

そんなことも知らず、水もなく皮を剥ぎ取られても尚ピクピクと生を生きているエビに対して、「なぜ死なないの?」と不思議がったり、気持ち悪がったり。

 

心臓が胸元にあることすら人間だけの常識であり、それでも誰かを解剖して自分の目で見たこともない心臓が果たして本当に胸元にあるのかすら、100%と言い切れないのが僕である。愛しい誰かの胸に耳を寄せつけて、どくんどくんと音がしたところで、それは一生懸命生きている精巣の音かも、子宮の音かも分からないのである。

 

もし僕が子供を産んだとして、「胸から聞こえるどくんどくんは子宮の音だよ」と教えこめば、その子は胸元に手をあて子宮の音だと想いながら死んでいくのだ。

 

それとも本能的にそこが大事な心臓であることを、僕らは無意識的にわかっていたりでもするのだろうか?腎臓がどこかは勉強しなくては分からないのとは違って、何か無意識的に心臓を守ろうとしているのだろうか。わからないことがたくさんある。

 

 

本当に光を失った魚の目を、光を失った人間の目と重ねるのはよく言えているが、なんだかエビの目を見ていたら違うような気がしてならなかった。

 

死んだ魚の目は確かにしんでいる。けれど僕たちが今まで見たことのない美しい海の中の景色や魚達の狩りの様子、僕たちが知らない海の中の沢山の生物を確かに映してきたその眼は、生きる目的や喜びを失い切った大人達よりもずっとずっと美しいものに僕は感じる。可能なことなら、その目ん玉を一分だけでもはめてみたい。

 

 

この日本には様々な人間がいる。

 

どこにいったってそうなわけであるがしかし、日本の外に行って実際にその空気や情熱や人間や生や色をその手で目で鼻で感じたことのある人間には、より"様々”であり、あくまでも日本人がこの広い地球の中のたった一部の文化や組織でしかないことが分かっている。料理を手で掴み食べることがマナー違反の日本の外では、料理を手で掴み食べることが当たり前の国が存在する。でもそのことを知らず、その国の人間が日本に遊びにきた際に手で料理を頬ばろうなんてしたら。きっと"内”しか知らない日本人は怒ってしまうだろう。

 

僕は街中を歩く多くの人間よりも興味が外にあって、そのスケールは壮大なものだけれど、それは同時に内を知ることでもある。内に興味があるのである。

 

日本という狭い内しか知らないで光を失った大人達は、光を失っていない輝いた子供達の目まで針を、いや槍を刺す。まるで人間の血を吸い取るハチのように。

 

僕は一人でも多くの子供、といっても20代でも30代でも40代、はたまたそれ以降でも、まだ心の中に小さな小人状態でも泥遊びをした子供の頃の心や記憶を持った大人達(子供達)がいるのならば、救いあげたいのだ。その人を助けたいというより、その人の中に何十年も蓋をされ窒息されてしまっている"子供”の目、心を再生したいのだ。

 

これがきっと、僕が日本にいることでどうしようもなく息苦しくなって、けれどどうしても息苦しいそこで、息苦しいそこだからこそ、体の全てを使ってでも表現したくてしたくて変えたくて変えたくてウズウズして、たまに爆発する理由だろう。

 

「変わりたくない」と思っている人間を変えたい意思も意味もない。

 

 

でも、気づいてない人が多い。

 

知らず知らず、人は自分を何かで縛り付け、それが仕事なのか時間なのか、なにであるかはそれぞれだけれど、日本では仕事がほとんどだ。それから女性として生きることへの、躊躇、ならぬ、押さえ込み。

 

僕が言いたいのは、「自分の顔をみてよ」。ただそれだけだ。

 

なぜ僕が日本人の目が死んでるだとかオワッテルという表現をしてしまうかは、顔が、目が、生きていないからだ。もちろん全員じゃない。けれど街を歩いても、地下鉄を乗っても、そこに流れ出す空気は僕が今まで歩いてきたヨーロッパの各国よりも、人間くさいアジアよりも、はるかに、「さみしい」のだ。

 

そして僕がこういう考えや「日本のここ、おかしいよ(かなしいよ)」という台詞に異常に反応したり抵抗したりしてくる大人の顔で、美しかった顔はひとつもない。あくまで僕自身の感じ方だから、僕の捉え方に正解も不正解もないけれど、僕の目には"なにかに囚われている”、"なにかで自分を縛り付けている”様にしかいつも映らないのである。

 

ピアノが弾きたい。

 

浸かりたい。

 

まだ売れずにいる。