一人映画の果て
今日でこのすっかり住み慣れた家と、そこの唯一の同居人であった年季の入ったピアノとまたねをする。人間は本当に慣れてしまう生き物で、この家に到着した日は子供のようにはしゃぎ喜んだのを鮮明に覚えているが、それから今日までは至って普通の毎日だった。正直言えば、初めて到着した日の映像も今日まで思い出せなかった。念願であった「四六時中ピアノが弾ける」「何時でもスピーカーで好きな音楽聴き放題」「裸でリビング」…等、あげれば欲張りなほどにお望み通りのお部屋だったことがよく分かるのに。
だけれど今、あと数時間後にこの家を、この街を旅立つぼくは壮大であり美しいジブリの曲に浸りながら「美しかった日々だなぁ」と勝手に感じている。では音楽がなければお願い事が叶ったことに有難味も抱けない冷たい人間かというと、時に冷たい人間だ。なんでもない街の朝に、出勤を急いでる訳でもないなんでもない朝に、フランスのアコーディオンの音楽を耳に流し入れるだけで一瞬で街の彩度がぐんと上がったり、なんでもない家族の団欒や、なんでもない今までの人生も、ひょっと美しい音楽を添えただけでどうしてこんなにも全てが美しく観えてしまうのだろうと思う。
きっと映画とおんなじだ。
人を殺し合って血を流すシーンでも、必死な顔の表情にカメラを寄せて更にそれをスローモーションにしてそれっぽい音楽を流せば、それは感動的なシーンに見える。もちろん、それを激しいアクションに見せることもできる。それが出来るのはプロデューサーやカメラマン、舞台裏と言われる人たちだ。演じる役者が同じ演技をしても、それのどこをカメラに撮して、どこを切り取って、どこを強調して、そして最後に音を添えてあげられのは"その人たち”に懸かっている。
では、"その人たち”は誰かというと、自分だ。
演じる役者には沢山の人間がいて、もちろん自分もいる。けれどそいつ(自分)を「町人B」にすることができるのも「主人公」にすることができるのも、いつもそいつを離れた視点で見ているもう一人の自分、つまり監督やプロデューサー、カメラマンといった席に座っている自分だ。
"監督のぼく”は自分の好きなようにシナリオを作っていいし、途中で飽きたら全然違う結末に向かわせてもよし。
監督が自分であるのだから、
"兼カメラマンのぼく”はどんなシーンでも好きなように撮ればいい。「こう見せたい」と思うように撮ればいい。
また、大事なのは"音響スタッフであるぼく”。
カメラマンがいくら美しいシーンに作り上げても、音一つでそれを最悪なシーンにも、もっと素晴らしいシーンにも変えられる重要なお仕事だ。
けれども現場にいる全員がそのストーリーを撮るには欠かせない、一人一人が大事な役割を持っている。だから一人一人が「その映画」に没頭することだ。たとえそれに莫大な時間をかけたのにも関わらず、出来上がったそれをみんなで鑑賞したらたったの2時間しかなくたって。
でも没頭する上で忘れちゃいけないのは、数ある仕事の中で最も没頭するべき"ぼく”は「役者であるぼく」なのだと思う。だからといって、"監督であるぼく”を忘れたり、日常のどこを切り取ってどんな音をつけて、最後に自分の人生をどうスクリーンに写すかも最初から最後まで自分の仕事だ、ということも忘れたくない。
現実は、すっかり監督の声も指示も何も聞こえなくなってしまった「役者」に入り込んでしまっている人間が多いと監督のぼくは言う。そんな状況でも、「ディレクター」いわゆる監督である自分は常に役者の人間に指示をしようとしてくれている。それに加え、常に舞台裏の人間も含めて客観視して現場をまとめている。そんな監督に応えるために、大前提として、役者は、「自分が何の役であるのか」をしっかりと把握する必要がある。そんなの当たり前なことだ。今この瞬間も"人間”という体で役を演じている僕たちはただ、それを思い出せばいい。
昔々、映画製作を"監督”が喋り出した頃。
「全体のストーリーはこうで、最後はこう終わる。
君にはその中で最も目立つカッコいい役柄を与えよう。
泣くシーンも、笑い転げるシーンも、怒るシーンも、
キスシーンも濡れ場も、恋人と別れるシーンも、
"ぜんぶ”が大事なシーンだ。全力で演じてくれ。」
"役者のぼく”は"監督のぼく”に
きっとこう言われたはずだ。
そして続けて監督はいった。
「好きに演じて良い。台本もいらない。
けどおれからの指示は聞いてくれよ。」
と笑いながら。
この"おれからの指示”というのが、
近頃「ワクワクすることをしよう!」とか
「直感に従おう」と呼ばれているものに値する。
監督はいつも「ワクワク」 とか「ピンとくる」
という形で僕たち役者にサインをしている。
スクリーンの中には立てないから、
「人間」という登場人物を作って
その役柄にそうして伝えている。
問題は僕らが監督の声を聞いていないではなく、
聞いているのに、殺してしまっているのだ。
長い間、役に夢中になりすぎて
本当に声が聞けなくなっている役者も中にはいる。
けれど大丈夫。
監督はいつもその場にいるし、指示をやめない。
総責任者である"プロデューサーのぼく”
もその場を離れたりはしない。
きっと"プロデューサーのぼく”は
役者のぼくが現場を出て行ったり、
監督の声を無視して演じ続けることに
悲しさを抱いてるだろう。
プロデューサーは、きっとはやく
映画を宣伝して、公開したいに違いない。
きっとこの世界で、自分が自分で創り上げた夢の世界を生きていると気付いている人はまだまだ本当に少ない。自分が監督であり、いつだってストーリーを描き変えられることを知っている人も。一生懸命に与えられた役柄を演じるが為に、入り込んでしまって本当にその気持ちになってしまうのは素晴らしい俳優だと思う。けれど監督の声を聞いてほしい。一番、物語を知っているのも物語の行方を知っているのも、"彼”なのだから。なぜなら物語を創ったのが、彼なのだから。
そして一生懸命に役に入り込むには、監督の描いた世界はもちろん、与えられた「役柄」についてもっともっと知らなくてはいけない。これを怠る俳優がこの星にはありふれている。役柄の生まれた背景、時代を知らずに演じてしまったり、その役柄が「どんな家が好き」かも「どんな食べ物が好き」かも知らずに演じている人も中にはいる。
自分が演じる役だ。
もっと監督の意図を、声を、聴いて、聴き続けて、
自分を知って、知り続けて、知り尽くして、
その上でどのシーンを選んでどう上映するかを
好きなように作ればいいのだ。
そして、役柄を演じ切ってスクリーンの前に座るとき。
横にポップコーンがあるのか、
横にだれが座っているのか分からない。
もし横に誰かが座って同じ映画を観ているのなら、
それはきっと一緒に演じてきた他の役者達だろう。
一人で始めた映画製作なのに、
最期にはそれを一人でも一緒に観られる人がいたら
そんな幸せなことはないと思う。
そして一人でスクリーンを眺める者と、
沢山の人と一緒に眺める者のちがいは、
やはり常にどんなシーンでも、
カメラが回っていない時でも、
一生懸命でいて、
他の役者に愛や笑顔を絶やさない役者だったかどうかだろう。
どうせなら、ぼくは後者を選びたい。