BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

お金の目覚め

 

ぼくはこれまで大事なことを忘れていた。

 

今ぼくらが生きているのは三次元の物質世界だということ。

 

 

19歳からのヨーロッパ一人旅で、

「思い通りになる」「どこへ行っても助けてくれる人が現れる」

という引き寄せ慣れをしてしまった僕は

 

「おかねなんていらない」

 

と本気で目覚めた"気に”なっていた。

 

 

 

これも大事な気付きであり、

もちろん今も、

 

"お金は人間が勝手に創造したもの”であり、

勝手に創造しておきながら自らそのお金を使って首を絞めてたり、苦しんだフリをしたり(それを味わったり)なんかして、なんとも可愛らしいゲームだとは思っている。

 

 

それにしても、本当におもしろいほど、

あまりにも人間が「お金」に踊らされている。

 

しっかりと脳みそをホールドオンされて手足も感情も操作されている。

 

 

まるでこの世は"お金”が住む星であって、

"お金”の為に人間がせっせと働いているようだ。

 

 

 

 

––では、お金はこの世に必要ないのか?

 

 

いずれは、「イエス」だと思う。

 

 

いずれ、というのは、

 

そもそも"必要であったから”生まれた。

そもそも人間がもっと便利に、生きやすくなるために生まれた。

 

なのに

 

いつしか持っているお金の量を見せびらかしたり、隠したり、

お金を稼ぐ=幸せになっていたり、お金がある=安心になっていたり、

一番失礼なのは「お金の話はいやらしい」というものである。

 

まるでセックスが汚らわしく扱われるのに似ている。

 

 

だから僕らにとって「お金の必要ない日」が"今”やってきたら、

多くの人が生きる目的も幸福も失くして死んでしまう。

 

 

では一体いつかというと、

 

僕らが、「お金なくても死なないし、別にはっぴーだったわ」とか

逆に、「お金持ちになってみたけど、なにこの空虚感…?」とか

 

人それぞれ貧乏な生活、リッチな生活、

パートナーとのお金トラブル、親とのお金トラブル。。

 

散々、お金で悩んできた人生から、

 

「お金ってもしや…ただの紙じゃない?????」

「紙に操作されてんの私???」

 

「あれれれれ」

 

 

もう分かった、分かった!と手を挙げ、

お金ゲームの世界から完全に目を覚ますことである。

 

 

それはつまり、そもそもお金がなんだったのか、思い出す時である。

 

 

例えば、まだ人々が物々交換をしていた頃、

 

海の近くにいた人は魚がたくさん獲れた。

魚は持っているけれど、畑がないので果物がない。

果物をもらうには遠い果樹園まで、

交換する魚を持って行かなければいけない。

 

 

ようやく重たい魚を背負って果樹園の人を尋ねたら、

 

「ごめんなさい。わたし魚きらいなの…」

その瞬間、物々交換、今でいう"商売”がそこで終わるのである。

 

 

そこで「物々交換、効率わるくね」と気付き、

だったらその価値の"代わり”に「石を使おう!(仲介させよう)」

 

とみんなが納得して、みんなが"石”と"みんな”を信頼すれば、

やがて街のみんなはいつも石でやり取りをするようになった。

 

 

こうして現代においては「紙幣」や「コイン」といった

お金が出来た当初は、とても便利なもので人を助けたであったろうと思う。

 

 

もし僕がこの時代の人であって今の僕たちを見たら、

「ぼくらは便利にするためにお金を作ったんだよぉ〜〜!!」

と、悲しくなるだろう。

 

 

 

というかそもそも、

 

このお金ごっこというバーチャル世界を創ったのは

自分たちなのであるから、それに自分たちが操られているというのは、

ほんとにおかしな話である(笑)

 

でもこのばかみたいなコントも自業自得ではない大事なポイントは、

これも全て「シナリオ込み」ということだろう。

 

お金ごっこでお金に振り回されてわんわん泣き喚いて、

そうじゃなく最初からお金で人を幸せを与えてきた人も、

 

ぜんぶそれを"感じる”ためだったのだ。

 

 

 

 

なぜか?

 

"本当の自由の中で、自由であることの感覚が分からないあなたにとって、自由さの感覚を取り戻すには「一度不自由さを体験しつくす」以外にないからである”

 

"「思い通りにならない」という夢の中だからこそ、思いを叶えるという夢にチャレンジし、思いが叶うということが喜びとなった” 

 

 

こんな言葉を今朝、読んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ぼくが昔、「お金なんていらない!」 と言っていたのは、

今のようにハッキリ言葉に表せなくとも、

体で本質をわかっていたのだと思う。

 

 

−−–五次元とは?

魂レベルが上がると何故お金持ちになるのか? 自由意志を正しく使うと豊かになる理由 | | Spiritual NORI

 

5次元のお金の話 | Momoyo Smoczyk - Spiritual Guide

(↑この世には2タイプの成功者がいる、という話)

 

 

ただ、今生きている世界は三次元の物質世界だったということを

旅の途中どこかの海に忘れてきてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 そしてもう1つ。

「お金のいらない世界」を“たった2箇所”、知っていたからだ。

 

 

一つは日本のとある島、

一つはクロアチアの小さな港町。

 

 

彼らは見ず知らずのぼくに、

まるで昔から家族だったかのように接してくる。

 

食べ物にも困らないし、寝るところも困らない。

 

ただそこにいるだけで、家族になっている。

 

「お礼に〜しなきゃ」という概念もこちらに生ませないほど、

ごくごく自然にあったかくそれを成し遂げる。

 

やはり人と人のコミュニケーションの糸が図太くネチっと繋がっている田舎や小さい集落は、人が助け合って「共存」していて、お金なんてなくてもみんなで何とかしてる。

 

そんな街が大好きだからこそ、

本当に「お金がいらない」と言い張っていたのだろう。 

 

 

そんな2年前の自分がなんだかとても愛おしい。

 

 

 

けれど今、他の街や日本にも行ったり帰ったりする僕にはお金は必要だ。

 

今なら言う。

「ぼくはお金がほしいです」と。

 

 

 

 

 

ところで現在は、

 

仮想通貨という次は"目に見えない”ものに進化していたり、

貨幣ではなくカードや体に埋め込むマイクロチップで決済していたり、

"信頼を数値化する”というクラウドファンディングが有名になってきたり、

 

「お金の形」の変化は今まさに大きく変化してきている。

 

 

だからこそ今、人々のお金の意識が大きく変わる時であり、

気付きやすい時であると思う。(ちなみに結婚制度に関してもw)

 

 

ニセモノのお金を作れないように、

今まで人は貴重な金(きん)をお金にしたり、

お金が石だった時代から、模様の施された石だけを使っていた。

 

そして現代の日本の紙幣の重厚感。

国によっては本当に「人生ゲーム」のおもちゃのような紙幣なのに対して、

日本のお金はどこか高級感があり美しい。

 

だからこそ、人はいつしか「お金」という紙幣そのものに興味を持ち、

紙幣そのものに価値を持たせすぎてしまってきたのではないかと思う。

 

福沢諭吉がブサイクだったくらいじゃ人は一万円札を嫌いにならないが、

一万円札がもっと不恰好で持つのも恥ずかしいものだったら。

もしくは多少臭かったりなんてしたら。

 

ここまで人は100万円の札束に舌を出してヨダレを垂らしはしなかっただろう。

 

 

 

今はまだ、多くがお金に飼われたペットみたいだ。

 

いや、そういう人はお金に愛されなどしないのだから、

ただリードに繋がれている奴隷のようなペットかもしれない。

 

奴隷だけれども、いま急にリードを外されても、

「お金がいないとダメになっちゃう」のが定着した思考なので、

野生になったところで何をしていいか分からない。

 

むしろ飼い主(お金)さんがいなくなったことでの

空虚感とやらに押しつぶされてどうしようもなくなってしまう。

 

 

目の前にいるその飼い主は、

自分が創造した仮想人間だとも知らずに。

 

 

 

 

いやそもそも、自分の存在すら、存在する世界すら、

夢か現実か分かっていない、というより興味のない人間が、

お金の生まれた経緯すら知らず、まさかお金がこんなに人間と繋がっているとは

 

まったく思ってもいない=興味がない、

=存在していない、世界なんでしょうね(笑)

 

 

 

 

 

はやく満月になりますように。