人類の為の人工第二言語(国際補助語)について
ここ最近、ヨーロッパに来てから「言語」について考えることが本当に多かった。
2年前、初めてヨーロッパに来た自分はなぜだか共通言語の全くないトルコ人と2ヶ月間も一緒に住むことができた。しかもそこにストレスはなく、あるのは簡単な英単語「グッド」「ノーグッド」「ユーハングリー?」「ユースリープ?」本当にこれくらいだった。けれどもその時の自分は「自分の表現ツールの中で"言葉”の優先順位は高くない。だからそれを求められることのない今の生活が心地いい。」と書いてあり、"世界全人類に対する共通言語がないからこそ人はそれが1番大事ではないことを知られるのだ”というのが自論だった。
そして今回。
2年ぶりにそのトルコ人と会って、「また言葉を求められない優雅な時間を過ごせるのかぁ〜」と当然のように思っていた矢先、ケンカをした。そもそもその前から2年前の様な"共通言語がない”という部分へのリラックスがなく、気づけば「通じろや。」「これくらいの英語は理解しろよ。」になってしまっている自分が増えていた。
もしケンカの場面だけでも共通言語たるものが二人に存在していたら、状況は違っていたかもしれない。本当は相手の行動に対して怒りたいのだけれど、果たして彼がその行動を取った意味を、単なる"言語によるすれ違い”によって自分が履き違えているかもしれない。もっと単純な理由で彼はそれを行ったかもしれない。そして自分が「何に」「どうして」怒っているかも彼には全く伝わらない。翻訳機を使っても変な文章になる。これこそ、言語が通じない、意思疎通が出来ない、最大の「もどかしさ」を味わった瞬間だった。そして恐ろしいのは、そんな時に友達に電話で愚痴を言っても、彼は一言も日本語を理解することは出来ない。「まじありえないんだけど。」と言っている横で彼はそれを聞いているのだ。聞き取ることは出来ずに。
彼との生活はそれで終わった。一度、二泊の家出(一人になりたくてホテルに泊まったw)を経て家に帰った時には、また翻訳機を起動して、それでもなおコミュニケーションを止めない彼がいた。けれども訳のわからない翻訳機がリメイクする文章にもお互い疲れて、結局は二人とも簡単な文章、「〜してくれてありがとう」や「本当にごめん」、「だけど好きだよ」といったシンプルな表現しかしないのだった。自分はもう翻訳機を使ったコミュニケーションすら面倒くさくなってしまっているのに、出会った頃と同じ様にコミュニケーションを止めない彼は、誠に彼らしかった。
そして一人でハンガリーに来た。
ハンガリーは約3年ぶりだ。
そしてドミトリーのホテルに泊まっていたら、仲良くなったのはウクライナ人二人と、イタリア人の男の人だった。経験上、女の人は「言語が通じない」と分かったらその場ですぐにコミュニケーションをすぱっとあきらめる人が多い。別のホテルで出会った流暢な英語を話す韓国の女の子は、いかにも「正しい文法で喋ってます!」といった"言葉に頼りきった”喋り方で、その奥にある感情や表情が何もなかった。いくら流暢に喋れていても全く理想のあり方ではなかった。
一方、ウクライナ人、イタリア人、日本人の四人のグループは本当に最高だった。ただこの四人がこの間まで一緒に住んでいたトルコ人と違ったのは、「みんな夫々の母国語でアタックしてくる」ということだった。誰もお互いの母国語は理解できないのに、あたかもこちらが理解しているような素ぶりで話してくるのだ。ウクライナ人は翻訳機が嫌いで、どう頑張ってでも必死に生きた言葉で伝えようとしてくる。こちらが理解するまで殆どあきらめない。イタリア人は殆ど分かっていないくせに、「イエス、イエス」と分かったふりをする。女性でこういう人は見かけない。
四人は気付けば皆仲良くなり、夕食は一つのテーブルを囲うようになった。いつもウクライナ人がウクライナ料理を振る舞ってくれたり、イタリア人はいつもパスタを作ってくれた(本当にパスタパスタうるさかった)。けれどもこの四人でさえ、「言語の違い」についていつしか一人一人、それぞれにわだかまりが生まれていた。ここに書くのもくだらなすぎるほど、本当にくだらないことですれ違いがあって、本当にくだらないのにどうしようもなかった。
そんな中、唯一ホテルのリセプションのおじいちゃんだけは英語が話せた。お陰でウクライナ人に対する怒りも(ケンカしたw)、この四人のカオスな状況も、トルコ人と住んで「共通言語があることが一番大事なことではないと思っている」ことも、自分のストレスや思考は上手く放つことができた。おじちゃんありがとう。
そしてイタリア人との別れは彼が飛行機ギリギリの非常に切羽詰まった状態でホテルを後にしたので、「あんなに仲良くしていたのに(最初パーシーのこと好きだったのにw)なに??」といった具合で、空港までの交通機関や飛行機の日にちを理解し合うのも困難、帰り際まで言語によるすれ違いは大きかった。
こんな風にドイツに入国してから今日まで、
「言語の違い」が原因で起こる問題が本当に多かった。
一年前は居心地の良かったはずの「共通言語がない」という状況が、今こんなにも居心地が悪く、簡単な意思疎通さえも出来ない"めんどくさいもの”になってしまっているとは一年前の自分は思っていなかった。いや、あの頃も時にそう思うことがあったけれどここまで深刻じゃなかったのには、大きな背景が隠れている。
あの時よりも「本気で"英語を勉強したい”」という思いが強く、強すぎるのだ。
それもあって、たとえば全ての文章に対して「I am〜」を付けたり変な英語を使われると自分にも感染る!というストレスと、「〜したい」「〜したくない」くらいの英語は通じろよ!というあまりに冷淡な気持ちが芽生えてしまっていたのは間違いない。だからもしも自分が既に流暢な英語を喋れていたら、もしかするとここまで気にならずに自分も彼らには通じない"英語”でどんどんアタックしているかもしれない。それはないな。
ここまでは言語の「異」について。
そして先日。
逆の立場を経験することとなった。
自分が英語を全く話さない彼らに対して「それくらい、分かれよ」と思っていたように、自分がネイティブからそう思われる出来事があった。実際に言われたわけでもすれ違ったわけでもなく、ネイティブすぎてよく分からなかったからその場から離れただけなのだけれども「こういうことだよなぁ」と思った瞬間だった。と同時に、英語の"音”が大好物な自分にとってはもっと「綺麗な発音で喋りたい」という感情が、それを追い求める心が、人よりきっと大きいのだと感じた。
勿論、今まで様々な「言語の通じない」シーンを経験してきたけれど、そこに共通言語がなくとも、こちらの英語力が劣っていても、トルコ人の彼のように"コミュニケーションを止めない”ことは本当に心がけているし、今の自分の拙い英語を恥じる必要もない。恐る必要もない。そして、"コミュニケーションを止めない”ことはたとえ共通言語のある私たち日本人同士であれ大事なことだと思う。
英語が世界で最も必要な言語だ!とは言わない。下の画像に書いてあるが、ただたまたま日本でも主要国でも多く学ばされている、使われている「英語」がたまたま自分は好きだったというだけである。
そんな、言語に対して深く身体で体感している時に、
仲の良い友達が"エスペラント語”(人工言語)についてあげていたからジャンプして飛びついたのであった。
ちなみに最も現時点において、自分の中で面白いと思う「人間の言語がバラバラになった説」は、聖書での"バベルの塔”だ。下のサイトが個人的に分かりやすかったので、載せておく。
神はそのような人間を嫌い言語を混乱させることによって人々の考えや価値観に多様性をもたらし、人をして個の尊厳と議論の大切さに目覚めさせた。
疑うことも考えることも議論することもなしに権力者の命令に盲従してバベルの塔の建設にいそしむ人々。神様はこういう傾向を嫌った。というのである。
引用1つ目はまさに2年前の自分が言っていた文句である。
でも確かに、今回のヨーロッパでは上記サイトでも書かれている通り「世界で一つの言語しかない方が、人々は意思疎通が出来て争いも減るのではないか?」とも思うところも沢山あり、「いやいや、夫婦でも友達でも、言語通じてるのに出来てへんやん」と思う部分もある。なぜ言語がバラバラ、というのも二つや三つではなくしかもこんなに複雑な文字というものまで付属して存在するのだろう?
まだまだ学び足りない。
もっともっと知らないと。
(Lazaro Ludoviko Zamenhof )
世界には、自分と同じように考える学者や研究者、探求者がこれまで自分が生まれる前から存在していたのだと思うと、とても安心する。これを教えてくれた友達と知りたい興味、対象が同じように世の中にはもっと自分の学びたいものや価値観、考えと一致する人が多くいるはずだ。
「地球はまるい」と言ったり地動説を訴えた人々はいつも少数で時には一人で、孤独だったろうか?自分の考えはいつだって一人でに示せるが、時に同じ物を見つめる誰かが欲しくなることもある。
それもあって、今は大学に行きたいのだ。こんな学びたがりの自分には、もっと仲間と論議を交わす時間や、それができる同じ物を探求する仲間を持たせてあげたい。
めんどくさいからInstagramのやつ、あげます。
朝4時。
完全に"時間概念”のない生活してる(笑)
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(補足)2018.01.18