空から爆弾を落とせる気持ち
たった一度の動作で大量の人間を殺してしまえる爆弾を落とすという行為を、ましてやそれも青くキレイな空から。
一体誰がそんな残酷なことを出来るのだろうと思っていたけれど、このあいだ飛行機に乗りながら地上を見下ろしている頃、とても冷酷なことにちょっぴり、分かってしまった。
この大空から地上を見下ろしていたら、こんなにもちっぽけな人間には全く比例していない自然の偉大さに圧倒され、その偉大さは小さな体では体感しきれていないからだ。その大自然のごく一部分に小さな集落を作って暮らしている人間など、我々の想像以上に遥かに点で、遥かに点だ。
この時代の日本に生まれて戦いを経験していない僕らは、小学校の授業で戦争という歴史を知った時、何を思っただろうか。爆弾を落とすだとか、銃で人を射殺するだとか、「よくもまぁそんなこと」と思っただろう。じゃあ爆弾を落とした人も銃で人を撃ち殺した人も、みんながみんな、同じ想いで行っただろうか?楽しかったろうか?涙を流したろうか?人としての罪悪感なるものは存在していたのだろうか?「お国のため」と心からそこに正義を見出していたのだろうか。
少し前に話題になった〝IS〟の子供達は小さい頃から銃を持たされ、人を殺し、それが当たり前となってたりする。色んな国の子供達が〝カッコイイ〟と思いながらもゲーム(2次元)で済ませている人殺しごっこを、彼らはリアルの世界で体験しているのだ。ゲームでは体験できない射撃した時の振動や重み、感情を。彼らに人殺しをすることは悪だと、伝える必要はあるのだろうか。伝えたところで、伝わらない。彼らは改心したいと望んでいない。では見て見ぬふりをするのか。私たちが彼らを愛したい時、一体何をすればいいのだろう。今世での彼らの学びは人を殺すことが必要なのかもしれない。
“これを言ったら相手はこう思うだろう”とか、“今これをするより後にしたら相手は喜ぶだろう”とか、人間の社会生活における相手への想像力はとても大事だ。忘れている人でも、誰しもがどんなことでも少なからず日常で何かの行動をする上で無意識に「想像する」というワンクッションを挟んでいる。人間にもし想像力が欠けていれば、過去と未来という概念もなく、絶望も希望も抱かない、”サル”と同じだと高校の現代文で習った。ではその想像力とはどこで生まれ、他人との違いはどこで生まれるのだろうか?そんなことは置いておく。
––––––––––––では、空から爆弾を落とす気持ちは?
あくまで自分の場合、想像しても、「しきれない」。
自分の小さい脳みそでは想像がつかないのだ。
厳密には、空から爆弾を落として街が火の祭りになることは想像出来る。
けれどその集落にどれほどの人がいて、どんな生活をしていて、
その一人一人に愛する誰かがいたり、愛する仕事があったり、
そんな細かなシュチュエーションまで頭で描けない。
と思えば、自殺を望んでいた少年は喜ぶかもしれない。
自分が死ぬついでに誰かも殺したかった少女には、はたまた幸福かもしれない。
ほかに、
分娩中の女性は?
裸で抱き合う男女は?
排泄中?
酔っ払って記憶がない人?
なんて考えたらきりがない。
想像なんてできるものか。
まして人間が怒り狂う時、 ふだん容易に想像がつくことも何も考えられなくなってしまう。
そうなれば空から爆弾を落とすことも大して難しくなくなる”瞬間”がある。
爆弾を落とさなくとも、自分が1年に数回爆発してしまう(理性のコントロールが効かなくなる)のは天秤座の性であり、その瞬間はまるで空から爆弾を落とせるような人格だ。けれどやはり何時どんな時も人間で、そんな時でさえ想像力があり、厄介なことにそこにはまた"好奇心”たるものが生まれてしまう。「今、爆弾を落としたら世界はどうなるだろう?」と。
ここまで書いておいてなんだが、実際にあの日の戦争で爆弾を落とした人がどんな気持ちだったかは知らない。楽しんでいたかもしれないし、嫌々だったかもしれない。それすら想像しきれない、というよりこれは"分からない”のだ。
分からないと言えば、全て分からないで済んでしまうが、他人においてはいくら想像したって死ぬほど想像したって、結局自分がその人自身になってみないと分からない。そしてきっと自分がその人と全く同じ生まれ育ち、背景、環境に置かれた時、自分も必ず、"その人”になってしまっているのだ。
トランプ大統領のことを散々愚痴ったとする。今の自分が明日からトランプになるのではなく、初めから自分がトランプとして生まれていたら。きっと同じことをしているのだ。
ぼくには何も分かりきれない。分かりしれない。はかりしれない。
首こった。
はっぴーにゅーいやー。