BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

しあわせの意味

 

しあわせの意味など、いつも変わる。

 

自分がどこで、なにで幸せを感じるかだ。

 

 

そうでないとかえっておかしなことになる。

 

いやでもそうなってしまうのが人間らしい。

 

 

「〜が叶ったら私はもうなにもいらない」

 

とか具体的には

 

「たつやと付き合えたら死んでもいい!」

 

と言っていた女の子が、

 

念願の"たつやと付き合う”を果たしてもあろうことか

 

 

死にゃあせんのだ。

 

 

 

その夢を、幸せだと思っていた夢を叶えた5秒後には、

 

叶えたことも、願っていたことすら忘れて、

 

 

「(たつやと付き合えているのはもう当たり前)

 たつやと結婚できたら私は"やっと”幸せになるわ」

 

 

なんて言い出したり、

 

 

「たつやが〜してくれない」

 

「たつやが〜してくれたら私は幸せだわ」

 

 

なんてまた、幸せの対象がどんどんエスカレートしていくのだ。

 

 

 

よくそうならないように「日頃から感謝をしましょう」なんて言ったって、

 

身内で誰かが亡くなって「今生きているだけで幸せなのね」なんて思ったって、

 

5日寝ればまた「たつやが〜してくれない」にもどるのが人間なのだと思う。

 

 

 

今ごろだけれど、なぜ例が"たつや”なのかは分からない。

 

 

 

そりゃあ、常に日頃から毎日感謝し合って、愛し合って、

 

感謝し合える関係が良いに越したことはない。

 

 

けれどなんだかそれもそれで気持ち悪いんじゃないかと思う。

 

 

少しくらい、

 

「あーもーたつやが〇〇してくれない!」とたまには愚痴こぼして

 

”たつやが生きている、私が生きている、それで幸せだ”ということも

 

たまにはちょっぴり忘れてしまったりなんかして、

 

ぶつかり合ったりなんてしちゃって、

 

爆発しちゃったりなんかして、

 

それでもドラマや映画なんかを見て

 

 

「っあれ…?私たち、しあわせだよね??」

 

 

なんてふたりで声に出さずとも別々に、同時に、

 

感じ合える日常も色鮮やかだなぁ、とおもう。

 

 

 

ただひとつ普遍的な幸せは「自分が生きていること」。

 

 

それ以外は、変わりゆくものだと思う。

 

「たつやが生きていれば」と願った日があっても、

死ぬ時には「あいつなんていなくなればいいのに」と妬んでいるかもしれない。

 

 

あしたのことは分からない。