BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

旅行

 

どこか違う土地に遊びに出向かうことを「旅行」と言うけれど、それは出発する場所=帰る場所があっての話であって、そんな僕らには当たり前の「帰る場所」すら持っていない人や死から避けるのに必死な人を横目にしながら、なんて贅沢な言葉なのだろうと思う。旅先では予想のできない様々な困難や問題が起こるけれど、旅行ができている事を〝なんて余裕の持ちすぎた娯楽なんだ〟と感謝してみた時、この世で自分が何も文句の付けようがない幸せ者であったことに気づく。

 

けれども、恋人だろうと友達だろうと誰であろうとそれが「好き」な人であれば、なぜまた会えると知っているのにも関わらず、どうしてこんなにも別れとは辛いのかと毎度思う。しつこく思う。

 

また、もう旅なんてしないなんて、言ってしまいそうになる。いつも。本当にいつも。

 

けれど今日もまた、その切なさをしっかりと味わう為にその気持ちを更に唆るような音楽を身体に与えてあげる。切なさや悲しさを感じないように、今の自分の気持ちとは全く違った明るいポップミュージックで感情を誤魔化すことはしないようにしている。そのせいで飛行機ではいつも一人で泣いたり、場所を問わず化粧が落ちたりするけれど、それでいいのだと思う。これを感じる為に産まれてきたのだから。

 

 

毎度毎度、誰かとの別れを惜しむとき、常に忘れないようにしたい。

 

それくらい、心から想える親しき友人がいることの幸福を。

 

 

 

そしておもう。

 

今まで日本、海外、様々な地で沢山の美しき人間に手を振ってきたけれど、彼らが帰る家に自分がいないことを悔しんだり、彼らが帰る家に自分よりもっと近い距離で彼らを見ている人間がいることを恨む必要も、羨む必要もなければそんな権利はないということ。

 

もし、自分が彼らと帰る場所が同じなら。毎日のように彼らの顔を見ていられる距離だったら。自分は彼らを愛せているだろうか。大事にできるだろうか。

 

 

21年間の人生で、心から、身体の底から愛を表現したい人間、守りたい人間は驚く程に少ないのだと思う。

 

愛のレベルではなく、みな愛していてもそれぞれに適した距離がある。今誰かを思ったり誰かのことで悩んでいたら、それはきっと距離の問題かもしれない。「遠い」とか「近い」とか思うものなら、自分から相手との居心地の良い距離に動かなくてはいけない。相手を動かすことは出来ないのだ。

 

苦手な人から離れることも大事だけれど、特に好きな人、もっと近付きたいと思う人にはどんどん近くにいきたい。自分が自分と相手を、二人とも上手く愛せる距離で。上手くなくても、できるだけ笑顔の多くいられる距離で。

 

といっても、自分が求む人間を鮮明にイメージ出来ていたらきっと、合わない人間はそれぞれ離れていき、好きな人はお互いに歩み寄るのだろう。不自然なくらい、とても自然に。

 

 

ドイツまであともうすこしです。