BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

人間の街

 

風邪をひいた

 

 

のど、はな、悪寒、じゃっかんの熱。

 

 

 

そしてこういう時は大概、同時に涙がでる。

 

 

疲れてるんだろう。

 

 

 

 

せけんは「病院にいけ」というけれど

 

その必要はあまりない。

 

 

じぶんがよく知っている。

 

 

 

 

 

さて

 

 

夜の繁華街を、

 

夜の邪悪なネオン街を、

 

ぼくは美しいとは呼んだことがない。

 

 

そしてこれからも美しいと呼ぶことは

 

きっとできない。

 

 

少なくとも今じぶんの住んでいる場所での

 

その場所は。

 

 

 

 

下着屋のおばちゃんが言った。

 

 

「私、あの街が大っ嫌いなの。昔はキレイな人ばっかりでねぇ〜。

 

だけど今は下品。飲み屋のお姉ちゃんも、

 

ガールズバーから顔を出してくる姉ちゃんも、

 

汚いのよね、品がなくって。昔はキレイな人が働く街だった。」

 

 

 

 

鋭く共感すると共に、

 

美しい下着を買って店を後にした。

 

 

 

 

 

あの街を、

 

あの女の子が誘惑するようにお尻を出し

 

男性達が日々精進したお金という紙を散りばめるあの街を、

 

 

美味しい飲食店が沢山入り混じったビルの中

 

美味しく料理を頬張る美しい人間達の下の階で、

 

真っ白な愛とは呼べない

 

世界でたった2人しか知らない真っ赤な愛を築く者も

 

日常では出せない動物的な顔に変身を遂げる人間が彷徨うあの街を、

 

 

色んな常識やルール、大切な人との約束を越えて

 

色んな人間が癒しを与え合い、時に暴れ、時に愛し合うあの街を

 

 

 

ぼくはたとえ“にんげんらしい”と呼ぶことが出来ても、

 

“うつくしい”と表現することは出来ないだろう。

 

 

 

人間本来の動物的な欲望や男女の関わり、

 

一言に説明など出来やしない蜘蛛の巣のように

 

複雑に怪奇した人間関係図。

 

 

そこでは人間の数だけあるドラマが

 

1日に何人も混じり合い、混沌とした色になり

 

それを物語るようなネオンがまたそれを彷彿する。

 

 

 

少々繊細に出来上がりすぎたぼくの体には

 

あの街を歩くことでさえ、2年ほど前は息が苦しかった。

 

 

いつも空を見上げていた。

 

 

あの街の夜に、どんなに星が輝きを放っていようと

 

人々は星の存在さえもわからない。

 

 

だけど今はその街を悠々と歩くことも、

 

その街にキレイなものも、紛れて、沢山、

 

小さく輝いていることだって知っている。

 

 

どちらも知っている。

 

 

ぜんぶ知っている。

 

 

 

 

一人一人にストーリーがある。

 

 

本当に。

 

一人一人に。

 

 

 

だから

 

苦手な飲み屋の姉ちゃん全般を悪く言うことは出来ないし

 

フラついて踊り歩くサラリーマンを責めることもない。

 

 

それらは全て、

 

「バニーちゃんの格好をした昨日診察をしてくれた看護師さん」

 

かもしれないし、

 

うさぎとしてお金をもらっては

 

人間に戻って子供の世話をするお母さんかも知れない。

 

その子はうさぎの子ではない。人間の子。

 

 


踊り歩くサラリーマンは

 

「余命わずかで残りの生涯を楽しもうとしているサラリーマン」かも、

 

「嫁に許可をもらって、むしろ呆れた嫁からの命令で遊びにきたサラリーマン」かも

 

みな何かに化けている。

 

人間だって、人間に化けている。

 

物事の根の部分は土に埋まって見えない。

 

 

 

 

 かといってこの街の良さは

 

お互いがお互いの土を掘り起こさずに

 

都合よくやさしく触れ合える距離感の手頃さと安心感だろう。

 

 

その対価としてこの街には今日も沢山の

福沢諭吉が次から次へとお引越しをしている。

 

ついさっきATMから抜け出し、オジサンの黒革ベッド(財布)で寝たかと思えば、その日の内にピンクで煌びやかなお姉ちゃんのベッド(財布)へと移り住む。

 

勿論、ここで土を掘り合って、裸になって根を見せ合い、

 

心を抱きしめ合う人もいる。

 

 

 

もう

 

つまりは

 

 

よくわからない。

 

 

 

 

「何でも、いいんじゃない。」

 

そこに至る。

 

 

 

但し愛するものが何か、

 

自分がいちばん強く抱きしめるものが何かを忘れなければ。

 

「抱きしめるべき」ではなく

 

「抱きしめたい」のが何であるのか。

 

 

 

忘れない為に、なにか他の人やものを

 

人生のたった一瞬、愛する人の瞬きの一瞬のうちだけ

 

抱くことは悪いとは思わない。

 

 

思えない。

 

 

 

人間はそんなにつよくない。

 

 

 

 

 

 

 

ただこの街を心から好き!と声を張り上げることはない。

 

 

 

 

何度もこのブログには書いているけれど

 

この街で生まれたからと言って好きになる努力もしなくていい。

 

 

 

世界は広い。

 

 

 

限りなくひろい。

 

 

 

でもそれは自分の“意識する”「せかい」が世界、

 

または宇宙、それ以上の時。

 

 

 

自分が知っているせかいを世界だと思っていたら

 

その世界はとっても狭くて、息が出来なくって、

 

海に溺れて身動きも出来ない醜く悲しい人間だ。

 

 

その人間を救うことができるのはきっと

 

陸にいる人間でも海に住んでいるイルカでもなく

 

その人本人、その人たった1人なんだろう。

 

 

陸にいる人間、若しくは他の島にいる人間には

 

溺れて騒ぐ人間の姿はきっと目に映らない。

 

 

反対に、陸にいる人間が手を差し伸べたって

 

溺れ間近の人間には掴めない。

 

 

つかもうとする心がなければ。

 

 

 

それくらい、海という

 

「せまいと思い込んでいる社会」に溺れ、

 

体を水(くだらないルールや常識)でいっぱいにし

 

海(社会)に飲み込まれそうな人間は、

 

 

どんなに手足を大きく暴れたところで

 

陸からその海を眺める人間にはいつも通りの美しい海にしか

 

見えていないのだ。

 

 

本当に

 

本当に小さいんだ。

 

 

 

同じ「海」でも

 

溺れて死んでしまいそうな人には大きな悪魔にしかなく、

 

陸から見る人間には雄大で優しく見守る偉大な母のようでしかない。

 

 

 

自然と、音楽と、自然の音と。

 

静寂と時間があればじぶんの身体は元気になる。それから、知らず知らずに中に溜まった“黒”を、涙とこうして文字として生み出すことで。

 

 

クロアチアギリシャの港で2時間も3時間も

 

黄昏ながら聴いた音楽と共に

 

風の音や木々の葉の揺れる音を耳にすれば

 

浮かんでくるあの景色。

 

 

あの日、心に焼き付いたクロアチアの景色、人間、

 

それらの限りなく美しい人間の素の姿。

 

 

その子たちが今日も教えてくれる。

 

 

 

愛するべきものを忘れないように、と。

 

うつくしい人間の在り方を忘れないように、と。

 

 

 

 

そろそろ飛行機に乗ろう。