BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

死んだじいちゃん

 

8月20日。じいちゃんが死んだ。

9年くらい前の話になる。

 

雨の日。

 

小学6年生の自分は学校が終わったあと、友達と仲良く下校した。「ウチ(家)で遊ぶ」という幼き自分達にとっては珍しい行事を予定していた日だった。家へ帰ると、傘を被った母さんがいた。そこにいる意味は、傘にはなかった。傘を被っているはずのママの顔が、なぜ濡れているのか不思議だった。

 

「今日ウチで遊んでいーいっ?」

 

無邪気にそう言う子供らしい子供に母親は、「ダメ。家では遊べない」とまるで他の全ての言葉を忘れてしまったかのように、その台詞だけを頑固に言い張った。いつもとは違う母さんの気配に、何があったのかを友達の前で聞くのは無礼だと子供ながらに気を遣って取った言動だった。

 

よく分からないまま友達にバイバイを済ませ家に入ると、静かな雨音と母さんの泣き声だけが吹き抜けに響いた。いつもと同じ自分の部屋の、いつもと同じベッドの上。それなのに何故か家に安堵感はない。窓を見たら激しい雨が家を叩いていた。

 

 何度このベッドの上で母親と泣いただろう。

 

母の拙い喋りに依れば、「じいちゃんが死んだ」とのことだった。

それも自殺らしい。当然、理解はできなかった。

 

死んだことさえ脳の処理が追いついていないのに、ましてやその手段が自殺だなんて。映画やドラマの世界、でもあまり見たことがない。それも小学生の自分には未知の世界だった。頭の中には卑猥なことに「(具体的に)どうやって死ぬんだろう?」が浮かんだ。

 

 

––––「なぜ自ら死を選んだのか?」

 

こんなにもそこに疑問を抱くのは、昨日まで元気に笑っていたからだ。どこをどう探しても、自殺をする理由が見当たらない。

 

後から聞けば、「自分(子供)のいない場面では自殺を仄めかす言葉も吐いていた」とのこと。それでもまさか本気で死ぬとは誰一人も思ってもいなかった。「死んだ方がマシ」という軽視できない言葉を「そんなはずがない」と本気にしなかった大人達が憎たらしかった。自分が知っていれば、手を握って、ゆっくり話を聞いて、手紙を書いて、ハグをしたのに。自分の前ではいつもギャグを言って笑わせてくていたじいちゃんもまた、にくかった。

 

けれどそれと比にならないほど憎かったのは、たった一人、自分である。

 

じいちゃんは孫であるまだ小さい自分とチューをするのが好きだった。自分もじいちゃが大好きだった。膝の上に乗ったり、キャッキャキャッキャと甘えていた。そうしたら本当に幸せそうにじいちゃんが笑うのも知っていた。チューはその中のひとつだった。でも、もうすぐ中学生。次第に恥かしがっては、甘えることもなくなっていた。あの日じいちゃん家に遊びに行った日も、周りの目を気にしてチューをしなかった。捨てられた猫のような、寂しそうなじいちゃんの顔は今でも忘れない。

 

 

ひいばあちゃん、ひいじいちゃんの仏壇の前。

体温を失くしたじいちゃんが眠っていた。

 

「大好きなじいちゃん」のはずなのに、ひんやりと冷めきったじいちゃんを怖がった。霊になって、今も同じ場所にいるんじゃないかと怖かった。「チューをしよう」と親戚の群れる一部屋でこっそりと決意したにも関わらず、ビクビクしながら頬に手を伸ばすのが精一杯だった。

 

 

鈴が鳴り、両手を合わせて目を瞑る。

 

 

 

「じいちゃんごめんなさい」

 

「死んだ体を怖がってごめんなさい」

 

「チューをしなくてごめんなさい」

 

「夢の中でチューしようね」

 

 

 

たったこれだけ、胸の中でそっと言った。

 

 

 

 

 

そして、その日の夜。

 

返事のない約束通り、夢の中でチューをした。

孫を抱きしめる手はいつの日よりも暖かかった。

 

じいちゃんは申し訳なさそうに「ゆめごめんなぁ」と言い、

抱き合って見える筈のないその表情は何とも言えなかった。

  

 

幸せだった。

 

 

 

 

 それから月日が経ち、中学校に入り部活が始まり、二年生、三年生と上がるうちに学校に正常に行けなくなってしまっていた。登校をしても屋上やトイレに身を隠したり保健室で泣き尽くしたと思えば下校、ひどい時は授業中も机の下に体を丸めて涙を流していた。いわゆる「鬱病」だったのだが、「死にたい」と本気で思った日もその勇気が死を越えることはなかった。

 

そんな時も、夢の中でじいちゃんに助けられた。

 

合唱コンクールの前日。

いつも隠れていた屋上に入る一歩手前の階段の踊り場で、「がんばって」とじいちゃんが言ってくれたお陰で翌日は学校に行くことが出来た。他にも何度か夢の中で助けられ、夢でなくてもこの頃は意識で会話が出来ている気がするようになっていた。

 

 

 

自らの手で死んでしまったじいちゃんを、「許さない」ということは選択肢としてなかった。純粋に“知りたい”が積もっただけだった。死に様がどうであれ、たとえば車にひかれたのか殺されたのか、大好きな人の最期の瞬間を見たい若しくは見たくない、けれど知りたい、と思う人間は冷血なのか。それとも、愛なのか。

 

生まれた瞬間さえ見たことがないのに、「死ぬ瞬間が見たい」という一見残酷な心理は、二十歳の自分にはどちらも同じことのように感じる。けれど、どこかの国のようにハッピーでカラフルなお墓を作る気のない死に対する念が黒い日本では、少し余所余所しい感じがする。

 

 

 

 

 

大好きなじいちゃんが“死んだ”と知ったとき、

大好きなじいちゃんが“生きていた”ことを知った。

  

 

「なぜ自殺したのか」

 

そんなのはここに書くつもりはない。

 

 

 

人が死んだとき、本当にその人が死んだのか、

そもそもこの世に生きていたのか、

その命は幻だったのかと思うことがある。

 

しばらく経って「天国に居るんかな?」と思ったり、

未だ幻だったのかと思うときもある。

 

 

寂しいのは、歳をとったじいちゃんの姿を

知らないということ。

 

 

今でも、回数は減ったものの、夢の中で出会う。

 

けれどそこに映るじいちゃんも、

ふと空を見上げて思うじいちゃんも、

自分が小学6年生の時のじいちゃん。

 

こちらは20歳の姿になっているのに、

じいちゃんの時は止まっている。

 

 

今じいちゃんが歳をとってどんな顔をしているのか、

シワが何本増えて、歯は何本減ったのか、

白髪が何本増えたのか、

今現在見ることはできない。

 

 

たったそれだけが、寂しい。

 

 

 

 

 

自分がこのクソみたいに自由な生き方になった理由の一つを答えるのならば、必ずじいちゃんの死を語る。

 

「死」という言葉、存在が今までで1番身近にあった中学生の鬱病時代、もしかしたらじいちゃんが自殺という形で死、そして生を教えてくれなければ今自分が此処に在るかどうかは分からない。少なくともこの生き方をしている自分はいない。

 

何故ならあの日、死という得体の知れない物体に小指一本、

いや片手でいざ掴みそうになった瞬間、

 

「…あれ??今、どうせ死ぬんだったら、、さ?」

 

 

と突然、悟りを開いてしまったからである。

 

 

それが今の、「好きなことしてりゃいいじゃん」主義に繋がってしまったのは今日までちょっぴり内緒である。とは言え、長いこと「好きなこと」「ワクワクすること」「したいこと」を忘れてしまった錆びた心を裸にし、また再びその裸体を磨き上げるのはとても容易ではない。今も、そして死ぬまで、“如何に心に服を着させずに可愛がってあげられるか”。それ自体もゲーム感覚で楽しんでしまおう、というのがこの人生のお役目。

 

 

 

大好きな人が死という手段を使って教えてくれたことを、次は自分が生きた姿でそれを伝える、又はその謳歌する姿こそが誰かの心を癒すのならば、今日も自分は好きなことをする。

 

 

 

ワクワクして生きてる人間を、人は応援したいから。

みんながワクワクだけで生きる世界は、もう少し先かな。

 

 

 

(追記2月21日)それから、多くの人間が試みようとも決して手を伸ばすことのできない「死」を自ら掴んだじいちゃんに、実は心のどこかで「格好良い」と尊敬の念も同時に抱いているということはきっと、誰にも理解されないであろうし、そこには「誤解」という言葉しか似合わないだろう。そこに道徳観念は存在しない。

 

 

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戻らない昨日たち 本当にね ありがとね さびしいなあ
まだ見ぬ明日たち 今いくね よろしくね 嬉しいなあ

叶わない願いたち 本当にね ごめんね いつかきっと
叶えられた想いたち ありがとうね これからも ずっとともに

小さな鼓動 震えるたび 思うのは 僕があなたを守るから

今僕が生きているということは 今僕が幸せだということ
今僕が笑ってないとしても 今僕が生きている それだけで
幸せだということ

出会えない命たち 君の分も 僕はきっと がんばるよ
交わしたこの約束たち 離さないよ 忘れないよ 約束しよう

いつかこの 世の誰もが言えるのかな「僕はもう何も 望みはしないから」
小サな夢を次カら次に 描いては捨てていくのは 本当はもうこれ以上何もいらないから

今僕が生きているということは 今僕が幸せだということ
今僕の目に涙浮かんでても 今僕が生きている それだけで
幸せだということ

溢れる命たち 生きている 僕がいる 嬉しいなあ
消えていった命たち いつかはね 僕も逝くね その日まで

今僕が生きているということは 今僕が幸せだということ

今僕が生きているということは 今僕が幸せだということ
今僕が笑ってないとしても 今僕が生きている それだけで 幸せだということ
生きているそれだけで 幸せだということ