BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

あいとわ

 

色んな人と出会い、付き合い、別れ、

 

恋人だけではなく全ての人と。

 

 

ふと、愛ってなんだ?

 

 

という疑問は誰かを愛している瞬間でさえ常に居座っている。

 

いつもは姿を現していないだけで、

空を見上げたり、星や月を眺めたり、

人と抱きしめ合った時、急に姿を見せたりする。

 

自分の中では決して消えることはない。

 

 

地球という一つの星に

人々が勝手に線を引き

「国境」という境目をつけ、

 

 

人間という一杯の血液を

人々が勝手に別々のコップに移し

「家族」という仲間わけをする。

 

 

人間でしかない人間に、

「友達」「恋人」「既婚者」「前夫」

 

勝手に名前をつけては

自らが決めた名前に沿って

感情をコントロールする。

 

「まだ好きだけど友達に戻ろう」

「本当はあなたが好きだけど結婚しているからダメね」

 

これらの言葉には自分は違和感を覚える。

 

 

“好き”というお互いの感情が生まれ、

手を繋ぐ。

 

とても自然なこと。

 

 

この自然な流れに沿って生まれた“関係性”を

後から名前をつけて呼ぶのであればいいが、

 

 

自然に生まれ出た感情を

「自分は結婚しているから」と、

「相手には恋人がいるから」と、

感情そのものを否定し、理性で固定し、

 

自分で「関係性」に名前をつけてしまう。

 

感情にも「浮ついた感情」「一時の誤り」なんて

自分の心に何とも失礼な名前をつける。

(本当にその場合もある)

 

 

確かに日本の法律上、

一人を愛することが善とされているが、

 

 

もっと広大な視界で見てみれば

 

「離婚して“今好きな人”と一緒に暮らす」ことも、

「関係上は妻がいるけど本当は違う女性が好き」

と感情を受け入れることも、

 

自分の心に従って生きる選択肢はありふれてある。

 

 

 

「恋人になったら嫉妬してしまう」

「友達に戻れば独占欲は生まれない」

「だから別れよう」

 

こういう人がいる。

 

 

果たして「関係性」に名付けをしたら

本当にその名前で呼ぶことができるんだろうか。

 

もしも名付けた名前の通りに愛せてしまうのなら、

名付けた名前の通り「にしか」愛せないのなら、

 

自分はあまり愛されたくない。

 

 

 

自分でコントロール(理性)した「関係性」の変化とともに、

好きという感情もコントロール(理性)できてしまうものなら

 

 

自分はあまり愛されたくない。

 

 

 

 

 

 

みんなが家族であればいいのに。

 

 

と思うがそれはそれで気持ち悪いのかな。

 

 

 

 

この話は書き出すときりがない。

 

 

youtu.be

 

原発が吹き飛ぼうとも 少年が自爆しようとも

その横で僕ら愛を語り合う

 

もうすぐ滅ぶというのに 明日は晴れるというから

それじゃ「まぁいいか」と目覚ましをかける

 

そんな僕らの日々

 

 

僕の 愛とは 向こうが透けて見えそうな

それは なんとも 頼りない姿で

 

仕方 なしに 赤い衣をまとい

愛の 意味の ぎりぎり端っこを

 

行ったり来たりで所在なさげに

恐る恐るあたりを見るのです

 

銃声が鳴り響こうとも 少女が泣き叫ぼうとも

その横で僕ら愛を誓い合う

 

もうすぐ滅ぶというのに せっかくの金曜日と

それなら「まぁいいか」と指を絡めあう

そんな僕らの愛

 

それでも信じていいかな

嘘と間違いを乗り継ぐ僕ら

 

それでも笑っていいかな 僕の何かで君が

笑ってくれたときは

 

君の 涙を いっぱいにためたその

笑顔は 何故に それほど美しい

 

身の丈 を遥かに 超える痛みの波

を浴びて それでもなお 笑うからでしょ

 

原発が吹き飛ぼうとも 少年が自爆しようとも

その横で僕ら愛を語り合う

 

もうすぐ滅ぶというなら なおさら強く握るよ

明日は晴れるというなら お気に入りの服で出かけよう

 

冗談みたいな悲劇 絆創膏だらけのメモリー

ありえない顔で明日はこちらを見るけどそれでも僕ら 手を握ろう

 

次の息を吸い込もう

 

原発が吹き飛ぼうとも 少年が自爆しようとも

その横で僕ら愛を語り合う