BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

成人式前撮り撮影

 

 

人生に一度の成人式。

 

“振袖の前撮り”なんていう貴重な撮影をプロのカメラマンにお願いするわけでもなく、自分に頼んでくれた友人がいた。

 

 

数週間前、いきなり高校時代の友達からフェイスブックメッセンジャーに連絡が入り、「成人式の前撮りをお願いしようとずっと思ってたのー」という内容だった。だがその頃はもう福岡にいた自分。最初は「なんだもうちょっと早かったらなぁ〜」なんて具合だった。

 

しかし。

 

振袖の前撮りなどスタジオで撮るのが一般的な世の中で、わざわざ「パーシーに撮ってもらいたい」なんていう有難きあほな友人を、自分以外の誰かが撮るなど考え難かった。

 

 

「パーシーの写真のファンだし、パーシーの写真って物語が詰まってるというか、うまく言えないけど、すっごく好きなの」

 

 

写真について褒められるとしたら、なにを言われたいですか?

という質問に対するパーシーの答えを知っているのか?という具合に、自分の写真に対する感性の一番深くて弱い部分を突いてくれるので「これはもうやるしかねぇ」と思っていると、友人は更にあほなことに「交通費(飛行機代)を払うから!」と続けた。

 

 

結果。

もちろん、お言葉に甘えた。

 

※そう、札幌に一時帰省したのはそのためです(笑)

 

 

 

そして先ほど無事撮影を終え、大量にシャッターを切ったカメラのSDカードを家に帰る時間すら我慢できず、すぐにパソコンに取り込みセレクト開始。

 

 

…のはずが、なんだか泣けてきたので中断してこれを書いてる。

 

 

 

先ほど書いたよう、友達のメッセージは、「パーシーの写真は物語があって好き」とのことだった。そして友達が今回腕を通す振袖はおじいちゃんが昔、お母さんに買ってあげた約100万の振袖。帯はおじいちゃんが今回プレゼントで買ってくれたもの。本人にとっても、家族にとっても、とてもストーリーのあるとても大切で色んな想いが詰まった振袖だった。

 

そんな大切な友達の更に大切な家族の想いが詰まっている振袖を、その辺のスタジオカメラマンにお願いするのは本当に悲しかった。(スタジオカメラマンの腕を馬鹿にしているのではなく)どうか自分の手で撮りたかった。

 

 

そしてそれが今日、叶った。

 

 

約三年ぶりに会うその友達の振袖姿も、昨日夢うつつで見た振袖姿と全く変わらなかった。とっても可愛く、美しい。美しいのだけれど、

 

今、自分が撮った写真を見たら驚いた。

 

パソコンに送られた大量のデータに頭を突っ込み、ひたすら仕分けをする作業の段階。休みなく目ん玉を右から左へ流していると“その子さえ知らないその子”の美しさや色っぽさが爆発している画像で溢れている中、“みんなの知っているその子”、つまりニコニコして可愛らしい、七五三の子供のような友人の姿がたまに隙間見えるのだ。

 

その時、不思議なほどに幸せな気持ちになり、

自然なほどに涙が出てきた。

 

 

“自分がスタジオやどこかのカメラ会社に勤めたくないのは、フリーで自由にカメラを握っていたいのは、こういう撮影がしたいからなんだ。”

 

と心で感じた今日だった。

 

 

撮影のためだけに会った初対面のモデルさんを

ただ格好良く撮るだけなら誰でも出来る。

 

でも自分が撮りたいのはそれじゃない。

 

知っているからこそ撮れるものがあり、

知っているからこそ“撮りたいもの”が生まれる。

 

知っているからこそ、“知らない顔”も知っている。

 

 

 

そして最近、

 

福岡に引っ越してきたばかりで

「もう雇われ仕事はしない」と決めていた自分が、

「お金のために」カメラを握りかけようとしていた。

 

 

でも、やっぱり違う。

 

 

パーシーの写真を知っていて、

パーシーという人を知っていて、

「パーシーに撮ってほしい」と言われる。

 

それがイイ。

 

ていうかそれじゃないと、無理。

 

 

「私を撮って欲しい」というモデルではなく、

パーシーに私を撮って欲しい」というモデルしか、

どうやら自分には撮れないよう。

 

 

正しくは撮れたとしても、その後の編集やデータ送りが進まない。

出来ない(潜在意識でそれをしたくないため)。

 

 

 

こんなことを言っていると、

知り合いか、知り合いづてでパーシーを知る人しか集まらんけど、

 

きっかけはどうであれ、一言なにか発せられるのならばこう言う。

 

 

「とりあえず一回、レンズ越しで会いましょう」と。

 

 

 

 

そしてさよならの時に、

「“また”撮って下さい」とニコニコして言ってくれたら、

 

この上なく幸せ。

 

 

 

 

女性は色んな顔を持っているから、

普段ニコニコして幼い笑顔を見せる女性でも

どこかの隙に、みんなの知らない“その人”がいる。

 

それは本人さえも知らないことが多い。

むしろ本人の方が、知らない。

 

 

1日のうちで鏡で自分の顔を見る時間など

ほんの数分〜1時間くらいだろうか。

 

メイクをしている時の顔はよく知っていても、

人と会っている時の自分、ゴミを拾った時の自分、

週刊誌を開く時の自分、携帯をいじっている時の自分、

 

それらの顔、表情は本人が一番見たことがない。

 

 

その中で、「女性」を感じさせる表情は、

その表情をしている時間は、とっても短いのだと思う。

 

「あいつ女っ気ないよねー」なんて人もいる。

 

 

でも、本当は誰でも「女性」の表情を持っていると自分は思う。

 

 

それを1時間や2時間といった短い撮影時間の中で

引き出すのもカメラを持つ自分の役目であり、

何よりもそこで終わらないのがカメラマン。

 

その一瞬を逃さない人こそが、カメラマンなのだろう。

  

(あくまで自分の中でのカメラマンの定義)

 

 

 

 

 

とにかく今日は、幸せな一日だった。

 

 

 

 

カメラ一つで人(被写体)を幸せにでき、

その人の周りの世界(家族等)も幸せにする。

 

 

そしてみんなが幸せなことが、自分も幸せ。

 

 

 

 

 

こんなカンタンで、恵まれたことはない。

 

 

 

 

死んだじいちゃんがカメラをやっていた理由が、よく分かる。

 

 

 

あやの、のじいちゃん、母ちゃん、自分、ありがとう。