イスラム教の断食を試みた結果
9月1日。イスラム教では「イード・アル=アドハー」という、日本語に訳せば「犠牲祭」が開催された。Wikipediaによると、
イスラム教で定められた宗教的な祝日。イブラーヒームが進んで息子のイスマーイールをアッラーフへの犠牲として捧げた事を世界的に記念する日。ムスリムのラマダーン明けのイードの1つである、イード・アル=フィトルと同様に、イード・アル=アドハーは短い説教をともなう祈祷から始まる。
はい。意味わかりません。
今周りにいるのがトルコ人、イラク人、ボスニア・ヘルツェゴビナ人、シリア人…とこんな具合なので、アラビア語で今にも窒息死寸前の自分。
こんな環境は滅多にない。且つ、多くの日本人は自分の宗教に執着がない(興味がない)のは疎か、他国の宗教観など手に触れようとしたこともないので、彼等から直接的に学んでみようと試みる今日この頃。
「犠牲祭」については書き出すと長々しくなるので気になる人はこちらを見てくれると有難い。
家で牛さばいちゃうの??犠牲祭イード・アル・アドハー - エジる
さて、その犠牲祭の前日、8月31日。イスラム教徒の友達らが「明日は断食や!」といきなり前日の夜に知らせてくる。通りでその日はお腹いっぱい食わされた訳だ。
この環境に住まわせて頂いている限り、彼等と出来るだけ同じ物を食べて、同じ時間に眠って、同じような生活を送りたい。もちろん断食もその一つ。これが一般的な「旅行」とはハッキリ区別している自分の旅のルール。
そして始まる、8月31日。
元々、朝昼なしで夕食1食なんて日も普通にあるのであまり何とも思わない。
が。
15時。
ちょっくら頭痛が始まった。
大したほどでもないので寝れば治る程度に考えていた。
しかし、この日はメインの駅まで行って、どうしてもお金を下ろさなければ行けない日(同居してるトルコ人の家賃のヘルプ)。ATMの受付はあと1時間。
選択肢は1つしかなかったので、銅像のような体を起き上がらせて上下スウェットの髪ボサボサ、“この娘に何があったの”状態で雨の中を歩かせる。
列車を待っている間、気付けばその体を立たせることすら困難になっていた。それでも帰ることは出来ない。人混みの中紛れる、もはや人間ではない異常な生き物を人間の目が捕らえている。が、そんな目など気にする余裕もないくらい、息をすることで必死だった。
メインの駅に到着。
「あ、ちょっとやばいかも」
中学生の頃に起こした強烈な片頭痛、からの嘔吐、の感覚とやけに同じだった。このままいけば吐いたりして?と思う暇も与えられていないほど、今にも死にそうだ。
何とかお金を下ろし終え、薬局で頭痛薬を買い、バーガーキングのテーブルを借り、薬を飲む。
…
…
…
あ。
…
水、飲んだ。
※「断食」とは飲み物も含まれる。
まぁ、こればかりは仕方ない。当たり前だ。と思っていると彼が「はんばるがー?(ハンバーガー)しょうるま?(トルコ料理)?」次々と料理名を並べている。
え、食わねぇよ。
何度言ってもめげずに聞いてくるので、「5分寝かせてくれ」と言い、授業中に寝るあの格好で久しぶりに眠る。
そして気付く。
「トイレ、行きたい」
彼がバーガーキングの店員に聞いてくれ、2人で少々歩いて行く。そして更に重大なことに気付く。
「やべぇ、出る」
(※苦手な人は今すぐ閉じてね。)
何がヤバイかって、下じゃない。
「口から」だ。
すぐさまダッシュするも、ヨーロッパはめんどくせぇ!お金を払わないと公共のトイレは使えねぇ!彼が急いで小銭を取り出し、秒でゲートを掻い潜り、何年かぶりに便器に頭を下げる。
(※苦手な人は今すぐ閉じて下さい‹2回目›)
…
あれ。
何も汚くねぇ。
臭くねぇ。
尿を口から出してしまったかと疑うほど。
直ぐにググると正しくこれは、「胆汁」だ。
普通は皆さんご存知、「胃液」を吐くのだが、吐くものがない場合に「胆汁」まで吐いてしまうそう。つまり、果てしなく吐いた挙句の胆汁、といったところ。
しかし自分の場合は明らかに、“胃が空っぽ”だった状態での胆汁という訳だ。
初めて見る、そして初めて聞く、胆汁という液体に何の愛しさも抱かずトイレに流した。
再びゲートを潜ると彼が普通の顔で待っている。
もう大丈夫?といったようなことを彼は聞いてくるが、読者の方には大変申し訳ないことに、まだ、ちょっと、どこか気持ち悪い。
速やかに帰ろうと歩いていると、
「はんばるがー?(ハンバーガー)」
「しょうるま?(トルコ料理)」
彼の口は今それしか喋れないようだ。「いらんよ」と言うと、さっきまで「断食中だ!」と言っていた彼がなんとトルコ料理店の前に立っている!
しばらく待つこと数分。途中、道にうずくまる自分を心配して声をかけてくれるお姉さんにも会い、そんなこと一切知らないトルコ人は勢いよく“しょうるま”を歯で噛みちぎり出す。断食はどこへ行ったんだ?
そんな疑問もどうでもいいと感じるほどに腐りかけた体を列車に放り込み、今までにない長さの家までの距離を体験する。
何とか、駅に到着。
家までは徒歩で2分。
のはずだった。
…
…
あれ。
…
また、だ。
…
…
さっきと同じ感覚が喉を通り、更にさっきにはなかった脈を打つような波が全身を襲う。それと同時に、彼が咄嗟に“ゴミ箱”を探すが見当たらず、「ここ!」と彼の指が指す先。
それは駅のホーム。
「まじ?」と顔で問いながらも今にも口から噴出してしまいそうなブツはどうしようもなかった。
◎△$♪×¥●&%#?𓀡 𓁿 𓁻 𓁼 𓁉 𓃰 𓃱
完。
やってやりました。
「19歳。ドイツの駅で、胆汁を吐く。」
なんて貴重な経験が出来たのだろう。この駅のホームでの嘔吐を最後に、気持ち悪さもほぼ過ぎ去り、後はまるまる2日間、ひたすら身体を休めるのみでした。
これを書いている今、やっと記事を書けるくらい元気になりましたが、なんとも素晴らしいことに身体も心もデトックスされ、感覚が研ぎ澄まされています。
今まで何となく口さみしさに与えていた「食べ物」も、“本当にお腹が空いた時”にのみ、“本当に食べたいものだけ”を与えるようになり、今までどれだけ「食べ過ぎていたか」を痛感しています。
残念ながら、容赦なく体調を崩してしまったお陰で肝心な「犠牲祭(イード・アル=アドハ)」を体験することは出来ませんでしたが、その代替として「ドイツの駅で吐いてくる」 という極めて価値の高い経験を収めることが出来ました。
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あの日、この世に生まれた胆汁。
もう一生出会えないけど、いつも一緒に居たはずなのに、初めて見ることが出来た。
駅のホームに産んじゃったモンだから、生まれてすぐに列車に轢かれたんだろう。トイレの水中に産んでやるのと、どっちが良かったんだろう。
外の景色はどうでしたか。
自分よりも、自分の身体の中を知っている胆汁が羨ましく、愛しく、
いっそ、コップいっぱいに取っておきたかった。
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と思う自分は
きっと過度の変態で、
きっとただの「耽美主義」(※)
なんだろう。
※
耽美主義は、道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮である。これを是とする風潮は19世紀後半、フランス・イギリスを中心に起こり、生活を芸術化して官能の享楽を求めた。
財布を失くした次は嘔吐。と、見事にまたドイツを出る日にちが延びてしまいましたが、お陰様で吐く前とは明らかに異なり「行きたい場所」が澄んで見えています。
さてそれがどこなのかは、向かっている最中か、将また着いてから書こうと思います。