BOKETTO

ヨーロッパ一人旅の記録とひとりごと。

財布なくして、愛を知る。

毎週水曜日と土曜日は近所でフリーマーケットが開催されるので、ちょっぴり楽しみに早起きする日。太陽に弱いぼくが唯一気持ちよく朝日を浴びれる日。んな訳でこの日も早起きしていざレッツゴー。

 

、、のはずが消えました。オサイフ。

 ドイツ来てから物消えすぎかよ( ˙꒳​˙ )

 

 この記事に書いた少女達を疑いたい所だが、最近来てないのでおそらく自分が失くしたにちがいない。

 

最後に使ったのは月曜日。近くのスーパーでのお買い物。そして100円もしないクロワッサンに、スーパーを一歩出た途端に喰らいつたのが最期。

 

f:id:jigsawww23:20170819060359j:image

 

非常に皮肉なことに、この最期を知らせてくれるかのようにカメラロールに佇むクロワッサン。まさかこのクロワッサンが警察や損失物取扱所の色んな方々に見られることになるとは、想定外だった。お恥ずかしい。

 

問題はここに置いていったのか、それとも家には持って帰ったのか。人間の脳はなんて愚かな、探せば探すほど記憶は遠ざかる。だが家になく、お会計した所までの記憶は確かとなればクロワッサンと一緒に食べてしまったことしかありえない。

 

徹底的に部屋の捜索をした後、しばらく時間が経つと「やべー」期間は過ぎ去り、現実を受け入れる「明らめ」期間が訪れるのだが、この明らめ期間、何もかも笑えてきてしまうのだ。キャッシュカードの使用停止は真っ先にして、呑気にアコーディオンを弾きだす始末。

 

するとお昼寝していたトルコ人が、「おまえなにやってんねん!一大事やぞ!なにアコーディオン弾いてんねん」 と家中を物色しだすので、「こっちはもうそういう期間終えて悟り開いてんだよ」と顔でアピール。

 

 するが、彼の勢いは止まらず、手を引かれ二人で警察に向かう。ここからがカオス。

 

「明日ここに電話すれ」とおっちゃんポリスから一枚の紙を渡され、次の日そこに電話すると、またもや「明日にしてくれ」と言われ、次の日そこに行くと、「ここに行ってくれ」とまたもや別の紙を渡される。これで最後かと思いきや、そこでもネタかと疑う一言、「ここに行ってくれ」を喰らう。そしてまた、また紙をもらう。

 

…いや、いやいやいや、そこ、今行ってきたんだよお兄さん。

 

ていう感じで、さすが、外国。

嫌いじゃないんだよなぁ、そういうとこ。

 

紛失届はなんとか作成してもらい(クロワッサン画像に場所や時間が残っていて大変救われた)、なんと言っても所持金がゼロなので、キャッシュカードは再発行、現金は親から送金してもらうことに。

 

これからの一ヶ月間はマルタ島クロアチアスロベニア、スペイン、パリ、トルコと忙しく動き回ろうとしていた矢先。飛行機が最安値の日で全て計画しており、28日にここを出る予定だったのでもう間に合わない。計画は全てパーだ。

 

そんな最悪な状況。のはずが、あれ?今日も胃の中はピザやコーラやチキンでぐちゃぐちゃだし、退屈する暇なく表情筋は動いてるし、贅沢な真っ白いソファで身体は眠っている。

 

何とか“なっちゃってる”。

 

生き“られちゃってる”。

 

全ては同居しているトルコ人のお陰で、彼との出会いはまた別に書くが、彼の友達もまた列車代を払ってくれたり、隣の家の売店のおっちゃんもグミや飲み物をくれたり、と妙なことに財布を失くしたのにも関わらず何も変わらない景色が広がっている。

 

これは約一ヶ月間、一緒に過ごすことで自分が創り上げた「信頼」の対価でもあり、お金よりも信頼が勝る、または信頼がお金になるとは正にこういう事だと身を持って知る。勿論、それらをどうってことない顔で熟してしまう彼らの愛も。

 

そして同時に親からの愛も知る。

 

財布を失くして真っ先に浮かんだのは、情けないことに「親に怒られる」であった。でもそれも一瞬。正直に旨を伝えたところ、最初から財布を失くすことを知っていたかのような落ち着いたリアクション。その余りにも素っ気ない穏やかな声が、“高校2年の修学旅行”の記憶と直結した。

 

行先はベトナム。空港についてすぐトイレに携帯を置き忘れ、そのままiPhoneとはベトナムでお別れ(この時は子供のように大号泣w)。その時も同じように「親に怒られる」が真っ先に浮かんだのだが、母は一切怒らず「ゆめが無事で良かった」とだけひたすら言うのだ。

 

その時と全く同じだった。

 

今回はそれ近い言葉も一言もなかったが、二十歳を手前にした今、言葉はなくとも何ら変わりのないどっしりとした親の愛情は鋭敏に感じられた。異常に娘を愛してる母が、その愛娘を一人で外国に行かせる覚悟とはそれくらいのものなのだと改めて思う。

 

次の日、母との電話でこのことを伝えると、「あら大人になったね〜」なんて母が言い、「は?」と笑い合う。物理的な距離とは不思議なもので、離れてると照れ臭いことも言えてしまったり、相手の存在自体も遠く感じたり、また近く感じることもある。

 

日本にいる友達も皆、それぞれ違った優しさや言葉をさらっと置いていくので、この日は色んな感情が溢れて気持ちのいい涙が止まらなかった。涙と鼻水でandroidが水没手前だった。

 

 

話はガラリと変わって、スペインのバルセロナでテロがあったみたいだ。こういう危険から身を遠ざけようとドイツに留まざるを得ない状況下にしてくれたのか、もうストリートでアコーディオン弾いて稼げよってことなのか。いまは最悪にしか見えないこの状況も、存分に活用することで、少し先の自分の目には「あれがあったお陰で〜」と最高な状況にしか見えていないこと願う。ていうか多分そうなる。

 

「海外でキャッシュカード入りの財布を失くす」

 

よっぽど大したことなのに、こんな大したことでも、一歩外へ出ると誰一人そんなことなど全く知らずに歩いている。彼らもまた、大したことを抱えて歩いてるのかもしれない。が、そんなことこちらは全く知らないし、知ろうともしない。

 

空を見ると、空もまたそんなこと全く知らない素振りで青く晴れ、雲もまた淡々とただ流れている。地下鉄に目を流せば、今まで通り人が流れていて、そこには何の変わりもない“日常”がただ存在している。昨日、久しぶりに外出らしい外出をして、一気に“事の小ささ”を身に染みませた。

 

バルセロナで人が死んでるというのに、他の国では子供が撃ち殺されているのに、パーシーが財布を失くしてお金がないのに、そんなこと知らない人は大勢いて、知った所でその人にとっては「恋人のLINEが素っ気ない」だとか、「明日のデートの服はどっちがいい」だとか、前髪の分け方の方が遥かに重要なのだ。

 

「なんて広く小さく、平和で残酷な世界なのだろう」

 

なんて考えていた自分は今、そんなことより 、一刻も早くマックシェイクのバニラ味を飲み干したい。 「お金はいらないのでシェイク下さい」とでもドイツ語で看板立てて、アコーディオン弾いてくるかな。

 

f:id:jigsawww23:20170820055214j:image

「カルースの涙珠」

(財布を失くしたお陰で、出来上がった絵)

 

もう既に、財布を失くしたお陰でブログの記事や絵が生まれているが、こうした負の出来事を作品に変換してしまう“テイラースウィフト的”な力は生きていく上で自分にはとても重要な作業のようだ。

 

おやすみなさい。